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体言止めのルール
「体言止めのルール」というタイトルの付け方自体適切なのか自信がないのですが、以下の(1)・(2)につき、どちらも正しい日本語表現と言えるか御教示いただければ幸いです。 (1)「・・・官公需要が減退、地方経済が大きな影響を被りました。」 (2)「・・・公共事業が削減、地方経済が大きな影響を被りました。」 言うまでもなく、(1)は「減退し、」という能動態、(2)は「削減され、」という受動態が省略されたものですが、(2)の方の省略形は、どこか語感的に違和感があります。
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謝辞をありがとうございました。 コメントにお答えします。 >>> 「・・・官公需要が減退。地方経済が大きな影響を被りました。」等とすべき、との御趣旨ですね? そのとおりです。 >>> >そういうのを「体言止め」だと思っている人は非常に多いのですが、 申し訳ありません、「そういうのを」というのは何を指して仰っているのでしょうか? 前回回答で引用したリンクに書かれていますが、 「体言止め」は、和歌や俳句という限られた世界における用語なのです。
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- sanori
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当初のご質問と全く違ってきていますので、 お知りになりたければ別質問として投稿されてはいかがですか。 私は辞書に書かれていること以上のことは、知りません。
お礼
>お知りになりたければ別質問として投稿されてはいかがですか。 それはそうでしょうね。失礼しました。
- chamiken
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「体言止め」の正しい意味は、No.1の方の添付URLの通りです。 体言で終わっているという意味で「体言止め」と言いたいところですが。 ご質問の2つの文の日本語表現につきましては、 (1)はOK、(2)はNGですね。 ただし、体言で終わっていることというよりも、「が」が問題です。 削減の主語が公共事業ではないためにColby2010様のおっしゃる違和感 が生じており、言い換えれば、受動態では使えないということになります。 ・・・の部分で主語が書かれているとしても省略されているとしても、 「○○が公共事業が削減」という意味不明な文章ですから。 正しい日本語表現かどうかは、 ・以後の文章がなくても文章として成立すること ・主語と合わせたときに正しい文章であること の二点で判断可能かと存じます。
お礼
chamiken様、御回答ありがとうございます。 >削減の主語が公共事業ではないためにColby2010様のおっしゃる違和感が生じており、 これは、この場合「削減する」を動詞に取られているからで、「削減される」が元の動詞と考えれば、やはり「公共事業」が主語になるのでしょうね。 >ただし、体言で終わっていることというよりも、「が」が問題です。 助詞については、「が」と「は」はいずれにせよ文脈により互換的であると思います。即ち、上記文章を「・・・公共事業は削減、地方経済が大きな影響を被りました。」としても、基本的な問題設定は同じという気がします。
- sanori
- ベストアンサー率48% (5664/11798)
こんばんは。 >>>言うまでもなく、(1)は「減退し、」という能動態、(2)は「削減され、」という受動態が省略されたものですが いえ。 意味とすればそうかもしれませんけれども、 体言止めをしたところで、いったん文が終わっています。 つまり、体言の後ろは読点ではなく句点なのです。 ちなみに、 そういうのを「体言止め」だと思っている人は非常に多いのですが、 「体言止め」の本当の意味はこうです。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%92%E3%82%93%E3%81%A9%E3%82%81&enc=UTF-8&stype=1&dtype=0&dname=0ss
お礼
sanori様、御回答ありがとうございます。 >つまり、体言の後ろは読点ではなく句点なのです。 これは、このような場合には日本語表記として「・・・官公需要が減退。地方経済が大きな影響を被りました。」等とすべき、との御趣旨ですね?公文書を作成することがある仕事柄ながら、存じ上げませんでした。どうもありがとうございました。 >そういうのを「体言止め」だと思っている人は非常に多いのですが、 申し訳ありません、「そういうのを」というのは何を指して仰っているのでしょうか?
お礼
なるほど。ご丁寧にありがとうございます。 そうしますと、「春はあけぼの」も、和歌・俳句の一節ではない以上は、正確な意味での「体言止め」ではないのでしょうか。それとも、文学作品であれば含まれるのでしょうか。 いずれにせよ、体言で止める表現法自体は古来から存在したところ、後世になって入ってきた「○○する」「○○される」といった漢語を取り込んだ動詞形についても、おしりの「する」「される」を切ってしまい、かかる表現法を援用するような形で、冒頭例文の如き言い方が派生してきている(現代の国語文法においてどちらの例文も正しいか、というそもそもの論点はさておき)、という理解で正しいでしょうか。 以上、ご存知でしたら追加にて御教示いただければ幸いです。