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幕藩体制について
幕藩体制についての説明を読んだのですが、イマイチよく分からなかったので、どなたか噛み砕いて説明していただけないでしょうか。よろしくお願いします。
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>イマイチよく分からなかったので・・・ 原因は多々あるかと思います。 どの部分がイマイチなのかが、良く分かりませんので勝手に推測させて頂いて、説明させて下さい。 歴史上「藩幕体制」という言葉は、江戸時代の政治体制に関してのみ使われる用語です。 「幕府」と呼ばれる政治機構は、江戸時代以外の時代にもありましたが、他の時代については「藩幕体制」という言葉は使われません。 従って「幕府」という言葉だけを取り出して調べても混乱してしまいます。 江戸時代の政治体制を「藩幕体制」と言いますが、肝心要の江戸時代には「藩」という言葉は使われることがありませんでした。 つまり「〇〇藩」と呼ばれるものはどこにも存在しませんでした。 結果として記載された資料は存在しません。 〇〇家の領分とされていました。 相手の所属を聞くときも「どちらの御家中ですか」という聞き方をしました。 答えるときには〇〇家家来あるいは〇〇家家臣△△××左衛門と申します、という言い方をしました。 浅野家のように、同じ苗字で複数の家がある場合には、播州赤穂浅野家家来となります。 広島であれば芸州浅野家家来という風に城の所在地を明確に分かるような言い方をしました。 庶民が出身地を聞くときに「お国はどちらですか」と聞きますが 回答には古来からの国名を使いました。 「信州信濃です」という具合です。 遠州森の石松とか言うのはここからきています。 丁寧にいう場合には播州赤穂浅野様ご支配の百姓です。という言い方になります。 「藩」という言葉が公文書で使われるようになったのは、明治政府が廃藩置県なる政策を打ち出した時以降です。 便利な言葉であることから、それ以来歴史学などの学問分野でも使われるようになりました。 「大名」というのも分かりにくい言葉です。 守護大名、戦国大名などがあり、キーワードとして「大名」で調べると一般論が出てきて訳が分からなくなります。 江戸時代には、単に支配地の米の収穫高が1万石以上ある人を大名と呼んだだけです。 但し、この江戸時代にも、譜代大名、外様大名という区別がありました。 江戸時代のスタート時期には、関ヶ原の戦で徳川家康に味方した人か逆らった人かという極めて単純な区分けでした。 時代が下るにつれて、外様扱いだけれども、譜代に変えて下さいと願い出て変えてもらう人が出てきました。 あるいは、薩摩島津家のように、徳川一族からお嫁さんをもらって親戚になって松平の苗字を名乗るようになっても、幕末まで外様のままで通した大名もいます。 つまり中期以降は、譜代も外様も線引きが複雑というかいい加減というか極めて曖昧なものになっていました。 これも、イマイチ分からなくなる原因の一つかと思います。 統治上の上から見ますと、江戸幕府というのは、現在のような中央政府ではありませんでした。 天皇から大名の統制権を委託された徳川氏が、実務上設けた機構でした。 このために、幕末に大政奉還などという器用な儀式を行うことができました。 結果として、明治維新なるものは、単に武家どうしの政権交代でした。 諸外国のように身分秩序を超えた革命ではありませんでした。 明治革命と呼ばれずに明治維新と呼ばれるのはこの為です。 時代小説などに出てくる江戸の街で施行されていた法律がそのまま全国に適用されていたわけではありません。 この点もイマイチ分かり難い原因かと思います。 幕府即ち徳川家と他の大名との関係はあくまでも、武力の差に基づいた力関係でバランスを維持していました。 幕末に長州征伐や鳥羽伏見の戦いなどで、幕府軍が負けて、このバランスが崩れていたことが明白になったのが幕末のゴタゴタもとです。 徳川家と他の大名家は武力を除けばあくまでも対等な立場でした。 結果として、幕府即ち徳川家とは異なる統治組織を持ち独自の法令を施行していました。 更に、お互いを尊重するために一切が治外法権でした。 幕府即ち徳川家が口出しできたのは、圧倒的な軍事的政治的力の差があったためです。 又、大名側も大名の家臣もこれを徹底に利用しました。 政治的な駆け引きが続いた結果、中期以降は誰が主導権を握っているのかさっぱり分からなくなりました。 脈絡もなく個別事例だけを追いかけて、江戸時代を理解しようとすると、誤解を重ねるだけになってしまいます。 江戸の街というのは全国の大名の江戸屋敷が置かれていたことから、人口の半分が武家でした。 江戸の庶民にとっては、武家とのお付き合いは日常的なことでした。 全国規模で見れば、武家の人口比は2%程度です。 つまり、江戸の街という全国的にみれば特異な街の事柄を持ち出して、江戸時代全体を考えると完全に誤解します。 捕り物帳などで、京、大阪が舞台となっているものは見当たりません。 藩士である武家を主人公としたものは多数あっても、一つ一つの藩内の庶民の日常生活が描写されたものは皆無ではないでしょうか。 この辺が江戸時代を考えるときの難しさです。 教科書と、時代小説のイメージとが直接的に結びつきません。 以上ザット説明しましたが、焦点がずれているかもしれませんので補足で追加質問を願います。
幕藩体制は江戸時代になってから作られた政治制度です。 それ以前の鎌倉幕府と室町幕府と、江戸徳川幕府が根本的 にちがうのは、幕府の元に軍事と警察と、政治上の統治権限 を集中させた点です。 今日の歴史の教科書では、鎌倉時代から江戸幕府の3つの 幕府を横並びに解説していますが、それらはすべて違います。 第一に、幕府というのは、国内に内乱がおこった際、朝廷を守 るため設けられた臨時的な軍事組織でした。 鎌倉幕府が源頼朝によって1192年に開かれたのは、名目上 は弟の源義経を逮捕することと、平氏残党の追撃でした。 もちろん、その目的が達成したとしても、一度手にした権力を手 放さないのは歴史の常識ですから、鎌倉幕府は関東武士団によ って運営され、鎌倉幕府が倒れても、軍警組織(軍隊と警察)の 必要性から、室町幕府が成立しました。 しかし、政治の権限が室町幕府には足りなかったため、鎌倉幕府 以後の政権は地方を治めきれず、戦国時代になりました。 徳川家康が1603年に江戸幕府を開くと、地方の国々(そのころの 日本は、今の都道府県と市長圏単位とほぼ同じ区域で、国があっ たのです)を「藩」と定めて、藩の首長を大名に任命し、幕府の代り に国を治めさせたのです。軍警組織以上の政治機構が、江戸時代 の「幕藩体制」が、鎌倉、室町両幕府とまったく違うのは、政治上の 権限があったかどうか、それと警察・軍隊が一体化したかどうかに あります(今の歴史教育は、軍警関係の国家観を教えないので、今 私がいったことさえ大学院以上の基礎知識になってしまってますが、 これくらいは歴史の常識です)。 話は飛びますが、1868年に明治政府が成立して、京都の朝廷が 東京(江戸)に移り、廃藩置県(地方の「国」を無くした措置)を経て 近代国家を比較的早く確立できたのは、元はといえば江戸幕府の 幕藩制度をヨーロッパ式の中央集権体制にリフォームするのに成 功した結果です。家のリフォームと似ているのは、骨組みを残して 壁や窓を作り替えたほうが安上がりで手っ取り早いのと同じです。 しかし、ゴジラのようなアメリカにあっけなくふみつぶされたので すが。