子規の「柿くえば」のこと
<柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺>
この句のどこが名句なのか。いろいろ疑問が。
「代表作。食いしん坊の子規らしい情感があふれている」との評もありますが、
柿を食べることに情感があるとは、どういう意味なのでしょうか。
もしこれが、幼いこどもの句だとして、やはり名句の誉れにあずかるのでしょうか。
「とてもこどもには作れない」
そうでしょうか。法隆寺に遊びにつれてって、柿を食べさせ、そのときごーんと鐘がなったのをそのまま言葉にさせたら、一丁上がりなんでは。
「くえば」という平安時代の雅な歌人がきけば卒倒しそうな語を大胆にも読みこんだその革新性を評価しての「名句」なのでしょうか。
でもこの革新性は、そえゆえの問題性もはらんでいるとおもう。歯のあいだにものがはさまって、なんてイメージすると、台無しですもんね。俳句というものは、そういう意味で、読み手の自由なイメージに任せる余裕などなく、競走馬の視界をさえぎるように、イメージの限定を読み手に強要するものなんでしょうか。
「芸術的にイメージしたまえ」
それならこちらにも言いぶんがあります。
くえばなどと、芸術性に遠くへだたった言葉をつかっておきながら、読み手には芸術性を要求するというそれほど自分勝手な句でもあるんですか。
疑問がつきない。俳句の教養がなさすぎるからなんでしょうか。