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俳句、中七の終り方の違いについて

・海女とても陸こそよけれ桃の花(高浜虚子) ・柿食えば鐘がなるなり法隆寺(正岡子規) の中七の終わりは、前の句は「~よけれ」と已然形になり、後の句は「~なるなり」と終止形になっています。文法上どちらも正しいと思うのですが、この違いについて教えてください。 よろしくお願いします。

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  • fujic-1990
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回答No.2

 係り結びは指摘されているのに質問が締め切られないということは、質問の本意はべつなところにこそあるめれ。  ということで、解説を試みます。  こそ+已然形の係り結びが使われるのは、「こそ」がポイントです。  なぜ「こそ」が使われるかというと、この句の場合を例にあげれば、一般の思いと違うことを言いたいからです。  ふつう、海女になるくらいですから海が嫌いではないでしょう、というより「海が好き」だろうと思うわけです。  それに反して、陸の"方"がいいだろうと虚子は詠うので、「こそ」という強調の言葉が入ります。  ひらたく言うと、相手の頭にある物(この場合は海)を打ち消して、「陸」という言葉をたたき込みたいのですね。  それに対して、「柿食えば」が終止形になっているのは、情景をストレートに表現しただけだからです。  聞き手の頭には、句と対立しそうな思いがありません。  となれば、特定の語を強調する必要はありません。  だから、情景をそのまま詠むだけで良し。  仮に、法隆寺が桜の大名所で、日本人は「法隆寺」と聞くと反射的に「桜」を思い浮かべるとすると、句は、例えば  「夕焼けに 柿こそよけれ 法隆寺」  などという句もうまれえます。  法隆寺の良さは、桜ではなくて、夕焼けをバックにして稔る柿の実でこそ引き出されるんだよ、というような意味合いです。  「柿のほうが、いいんだ」という主張は、柿ではない何かがすでに相手の頭の中にないと意味をなしません。  「桜」という思いが相手の頭にあるから、こそ、「そうではないんだ、柿こそ」という強調が意味を持ってきます。  いろいろな情景に応じて言葉は選択されますので、上記ような場合だけ、係り結びが使われるのではないですが、質問者さんが上げられた二句でいえば、  常識と対立する内容である場合は、「こそ」が入って、その結果として已然形になる。  常識にそった内容であれば、終止形、という理解でよいのではないでしょうか。

chi-m
質問者

お礼

ありがとうございました。質問を締切らないのは、特に明確な本意というものがあったのではなく、別の視点からどなたかの答えがあればと思っていたところです。「こそ」は強意という一般的な意で理解していましたが、「一般の想いと違うこと」を言いたいとの説明、、「夕焼けに柿こそよけれ法隆寺」の例句て新たな認識をしました。ありがとうございました。

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  • kine-ore
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回答No.1

>前の句は「~よけれ」と已然形になり、 「こそ」という係助詞が文中にあるので、取り立ての強調表現として、係り結びの決まりによって已然形で結びます。

chi-m
質問者

お礼

そうでした。強調表現というのがありました。わかっているつもりで、実際の場面でそれに考えが及ばないということは、いかに浅い知識か反省されます。ありがとうございました。

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