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長宗我部元親についてのif
四国統一を果たしたと思ったら、瞬く間に秀吉に・・。 もう少し統一が早ければ惨敗にはならず、いいところまで行けたのでは。 長宗我部が全国に覇を唱えるとしたら、どのタイミングでどのような判断をするべきだったと思いますか? ウィキに書いてある年表は大体は把握してますので、自分だったらこう思うということを教えてください。 詳しく書いてもらえると楽しいです。
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基本的に他の回答者の言うとおりなんですけど、 そもそも長宗我部は土佐七雄でも最下位なんですよね 領地は長岡郡ですけど、収穫は期待できない場所ですし・・うーん 信長の祖父である織田信定のように津島のような商業地確保は無理・・ そもそも戦も下手ではないが、圧倒的兵力を誇る長宗我部軍(3万以上)が 秀吉配下の仙石&黒田コンビの淡路(2000人ほど)を攻めきれずに終わってますからねぇ 少なくとも応仁の乱の時点で手遅れのような気がします。 なので統一するなら 秀吉時代に早々に降伏し、土佐一国の所領を安堵してもらい、 戸次川の戦いでは、早々の撤退 関ヶ原で東軍に属し、 江戸時代を迎える。 その後、フィリピンなどに幕府に内密に出兵 (薩摩藩が、琉球王国を支配したように) ペリー来航の時に薩摩藩を差し置き、明治政府の中核となる ・・・そのくらいしか思い浮かびません
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- 0fool0
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基本的に何をしても不可能で在ったろうと思います。 何故なら、四国国内における生産量が低過ぎるのと、渡海のリスクが大き過ぎる事です。 現在の四国の農業産出額(耕種・畜産)は大雑把に全国8兆6千億に対して、四国4県で4千億で、全体の4.65%です。 これでは中央進出の為の兵力を十分には維持出来ませんし、渡海しての兵站は更に無理があったでしょう。 地形的に広大な平地が存在せず、また保水量が少ない為、有望な水源や良水も少ないです。 高知県等は二毛作も容易く、瀬戸内では気候も良く、海で魚も捕れるのですが、水量が乏しく、また、絶対数での耕作面積が少なく、四国全体での維持可能な人口は少ないのです。 簡単に言い切ってしまえば、四国「国」として見ると、余りに小国なのです。 地政学的に四国から本州支配(若しくは進出)は不可能です。 長宗我部元親が全国に覇を称える可能性があるとしたら、四国から本拠地を本州に移した場合でしょう。 四国から全国を支配するのは、極端な事を言うと、佐渡島から全国を支配するのと同義です。
お礼
弱小ゆえに、逆転してほしかったとこですが。 三好と仲良くできていたらもう少しマシだったかもですね。 故郷四国を早々と捨てて本州に・・というのも出来ない決断でしょうから無理ですね・・。 ありがとうございました!
- lv48
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http://shuchi.php.co.jp/article/969 光秀&長宗我部&足利 VS 秀吉&三好&織田 http://okwave.jp/qa/q8596335.html タイミングの問題ではなく、秀吉が強すぎた。 光秀が勝っていれば四国は貰えたでしょう。
お礼
光秀との書状が最近見つかったとニュースがありましたね。 秀吉は黒いな(笑) もっと早く秀吉に恭順していても同じ結果だったかも。 ありがとうございました!
知り合いが戦国時代の四国を昔アマチュアながらよく本を読んでいて。 実際の真偽はわかりませんが、四国でも高知は山を隔てて、物の伝播が遅かったとも言ってました。 日本で戦のレベルが高かったのはやはり中部関東地方のあたりに思えます。 その次に九州、中国地方あたりかと。 時代でいえば、その後武器は進化しますが武田信玄、上杉謙信のあたりかと。 同じように東北の伊達正宗も出遅れてます。想像ですが、当時の四国よりまだ伊達正宗の軍事力の方が上にも思えます。 やはり当時の四国からだとむずかしいものがあったと思います。
お礼
昔旅行で土佐に行こうとしましたが、天候と、交通の不便さで手前で断念しました。確かに遠い(笑) 戦国時代のように鎬を削っている状態では、海を隔てている環境は他より日和ってしまうかもですね。 ありがとうございました!
- あずき なな(@azuki-7)
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うーん 元親と言えば茶釜の蓋のエピソードが有名です 彼は最初から四国統一を志していました 天下への野心は無かった様です 一両具足衆は強力だったので土佐の基盤は磐石 しかし伊予や阿波の勢力が強く 苦戦を強いられていました タイミングと言うなら 家督を継いだときにと言うのがベストなんでしょうが…
お礼
茶釜の蓋のエピソードですか。あとで調べてみます。 距離的に近いようでも中央の動きからはほど遠かったのでしょうか。 ファンでもないのですが残念です。 ありがとうございました!
- rabbit_cat
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史実を知っている未来人が後付けで、可能性を探るなら、 四国統一なんて目指している場合ではなくて、早い段階で中央に進出を目指さなくてはいけなかったんでしょう。 可能であれば、早いうちに、一条や三好などと協力関係を結んで、第二次信長包囲網(1971年~)に参加する。 もしくは、最低でも、第三次信長包囲網(1976年~)には参加しないと。(史実のように毛利氏と敵対関係になってしまっては話にならない)
お礼
その通りですね。天下を・・という意識を、当時の武将たちが持っていたのかは知りませんが、地固めに拘っていると時流に取り残されてしまうかも。ありがとうございました!
- eroero4649
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ご存じサッカーのラモス瑠偉さんは、そのピーク時には特定のポジションというのはなかったそうです。彼がやりたいポジションでやりたいようにやる。役割分担がきちんとしている現代サッカーとは程遠い時代遅れのスタイルでしたが、当時の日本サッカー界においての彼の実力は飛び抜けていて、そんな「身勝手」も通用したのです。 しかしそんな飛び抜けた実力を日本では誇っていたラモスさんも、本場ブラジルではどこのプロチームからも声がかからない程度の選手でした。彼に声をかけたのは日本の読売クラブ(当時)だけ。どうしてもプロサッカー選手になりたかった彼は本当はサッカー後進国の遠いアジアの国なんか行きたくなかったのですが、泣く泣く日本へ旅立ったのです。 織田信長が、長宗我部元親について「あれは鳥なき島の蝙蝠」と評したのは有名なエピソードです。日本の中央で、武田信玄や上杉謙信クラスともやりあっていた信長からすれば、「周囲にこれといった人物がいないから目立ってはいるけれど、中央で通じる人材ではない」と見抜いていたのではないかと思います。 実際、あの「一領具足」というシステムは、四国でこそナウでヤングであっても、兵農分離が進みつつあった中央からすればいかにも時代遅れです。当時は土佐は「鬼が住む地」と思われていました。今でいうなら、アフリカの真ん中あたりのイメージです。未だに槍を持って原始の生活をしてるんじゃないかって私たちは思いますが、実際はフツーに携帯電話を持っています。 中央に通用する人物なら、然るべきブレーンを持っています。自分でやれる範囲なんて限られていますから、広い範囲を支配するなら相応の能力を持った部下のサポートは必須です。信長、秀吉、家康クラスは別格としても、伊達政宗でさえ伊達成実や片倉景綱といった戦国ファンにはなじみが深いブレーンを持っていましたが、長宗我部元親の家臣でその名を知られる人は皆無といっていいでしょう。知っているのは地元の歴史家くらいじゃないですかね。その人材層の薄さも、鳥なき島の蝙蝠というのを現しているのではないでしょうか。
お礼
今大河ですごく無能の主人公に、ボロ負けしたとされる長宗我部。更に残念に描かれちゃうんだろうなぁ・・。 環境的に恵まれていなくとも、その時々の判断を間違わなければ(事後的判断)、勝ち馬に乗る形で張り合えたのではないかと思ったのですが。田舎者はどこまでいっても都会にはなじめないでしょうかね。ありがとうございました!
お礼
実際、幕末に逆転勝利したから良しということで(長宗我部じゃないですが)。ありがとうございました! 統一までは行かずとも、どこかで判断を間違わなければ、強豪と競り合うことができたのではと思いましたが、四国は中途半端な地勢で無理かもと思いました。 こういう妄想は好きなので、また質問するときは、みなさまよろしくです!