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ヒュームの因果律批判で説明求む

自己の肉体の鍛練の結果、筋力か増したことの自覚、を、ヒュームの因果律批判の考え方に基づいて、肯定的に説明出来るのでしょうか?

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回答No.2

私は、自己の肉体を訓練したという原因があって、その結果として筋力が増したと考え、原因と結果には必然的なつながりがある思っていますが、ヒュームはそれがなぜ必然的なのか分からなくて、懐疑に陥りました。 というのも、筋力が増したということの原因には、肉体を訓練したこと以外に他にもいろいろな原因が考えられるからです。 たとえば、肉食を良くするようになったからとか、仕事が事務労働から肉体労働に変わったとか、ここ1か月ボランティアで福島に行っていたとか、最近ボディー・ビルを始めたとか、・・・・・・・・・とにかくいろいろ考えられるので、単に肉体を訓練したことではない他の原因も考慮に入れなければならない。 では、どうして私は自己の肉体を訓練したから、それを原因として、結果として筋力が増したと考えたのか? 私の外に原因と結果というものがあって、その反映が私の観念としての因果としたら、原因と結果の必然性は何に由来するのか、それがどうしてもヒュームには分かりませんでした。 これを解決したのがカントです。 カントは自然界に客観的に因果というものはないので、それは人間が外界を秩序あるものとして認識する場合の「カテゴリー」なんだと言いました。 その「カテゴリー」を感性で受容された感覚データに適用することで、私たちは世界には原因と結果がある、と認識しているのです。 だから、私が筋肉が増したという事実をさかのぼって、その原因として、自己の肉体を訓練したという事実を特定した時に原因と結果は必然的なものとして認識される、と考えました。 これを交通事故に例をとって説明すると、私が交通事故にあったという結果には、さまざまな原因が考えられます。 私が家を出るのがいつもより遅かったとか、相手の車の運転手が居眠り運転をしていて交差点を横断する私に気が付かなかったとか、あるいは道路工事をしていて、車がそれを除けきれずに暴走して横断歩道を歩いている通行人の列に突っ込んできたとか、たまたま雨が降っていて車がスリップしたとか、・・・・・・・・・・とにかくたくさんの原因が考えられますが、私が家を出るのがおそったったことが原因だと考えた時、私が家を出るのが遅かったという原因と、交通事故という結果が結び付けられ、原因と結果は必然的なものとして認識されます。 しかし、いくら私が家を出るのが遅くとも、交通事故が起きなければ、私が家を出るのが遅かったことはなんの原因にもならず、ただの偶然として消えます。 言い換えれば、原因と結果の必然性は、結果から見て私がいろいろ原因がある中から、一つを選択して特定した時に必然的になるので、初めから原因と結果との間に必然性があるのではないということになります。 もっと簡単にいえば、原因と結果の必然性は、結果からさかのぼって原因を特定した時にしか存在しないということになります。 もし、肉体を訓練しても、私がその結果に対して無関心ならば、肉体を訓練したことは原因でさえありません。 何らかの事実があって、それを私が結果と思い、原因をさかのぼって探求し、1つの原因を特定したときに初めて、原因と結果は必然的な絆によって結び付けられます。

pantaberu
質問者

お礼

詳細な例を挙げていただき、誠にありがとうございます。おかげさまで具体的なイメージを持ちながらヒュームの難点を少しつかめたような気持ちになりました。 カントが出てくることによって解決や解消されたことがたくさんあることは理解しているつもりでしたが、ここにおいても登場するのですね。 勉強します。

回答No.1

因果律批判の前提となる「因果律」は、決定論をベースに しているが、量子論においてそうした“認識性とは独立した 外的存在”は否定されている。 二重の誤謬を用いた古典哲学ごっこは、「肯定的」なもの ではあり得ない。

pantaberu
質問者

お礼

ありがとうございます。しかしながら、論点がずれております。

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