No.3.4.5です
No.5の回答で資料をご指摘された資料が藩幕体制変化の推論の論拠としている史料に一部見落としがあるのではないのでしょうか。
全国の酒造業の統制は幕府が掌握していました。
大名の内政の権限からは切り離されていました。
明暦3年に明暦の大火が発生しています。
江戸城の天守閣も焼失しました。
市中の蔵が焼失しただけではなく生憎前年の不作と重なり江戸市中で米が欠乏してしまいました。
幕府は緊急対策として全国の酒造業者に対して米を酒にすることを全面的に禁止しました。
この大火で大名も屋敷を焼失しており、大名自身が罹災者でしたから嫌も応もありません。
同時に幕府は酒株といういわば酒造免許を発行して密造を厳しく取り締まりました。
同時に醸造量の制限も設けました。
元禄10年になりこの酒株に課税して幕府の財源とすることは決めました。
酒運上と呼ばれます。
以降、酒運上の税率と醸造量をコントロールすることで、間接的に市中の米価をコントロールしました。
明治になるまでの間に酒造制限は61回酒造奨励が6回出されました。
ご指摘された資料の筆者が考えているように松平定信が独自に始めた制度ではありません。
元々大名の内政権外の事項ですから、介入云々の議論の対照とはなりません。
詳しくは下記サイトをご参照ください
酒造統制 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/酒造統制
酒株 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/酒株
神戸市文書館 灘の酒造業
www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/.../4.ht...
白老酒季(イベントなど)
www.hakurou.com/diarypro2/diary.cgi?no=42
酒おもしろ話
www.vega.ne.jp/~tomita/2010/274.html
蛇足
ご指摘の資料の筆者は旗本領の実態を見落としています。
旗本領が集中していた関八州では、一つの村落が複数の旗本に年貢を分散納入したり、一人の旗本が複数の村落から年貢を受け取っていました。
なおかつ、関八州ではこの年貢の分散納入は、大名領、天領(代官支配)との間でも生じていました。
関八州では大名も旗本も江戸常駐です。
年貢の取り扱い実務は村役人(すなわち農民の自治組織)がやっていました。
この状態で旗本に密造酒を取り締まれ、というのは無理があります。
定信が発した命令は定信失脚と同時に破棄されています。
直後に関東全域を取り締まる関東取締出役(いわゆる八州さま)を勘定奉行の支配下に設けています。
この関八州による取り締まりは、警察権の行使ですから内政への介入であるとは言えます。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 私も寛政の改革のwiki は先に読んでいました。 「命じた」と書いてありますので「介入」または「干渉」に当たるのかな、と思っていました。 「お家騒動につきものの処分、転封、減封、除封」については、先にご回答を頂いたとき、 介入したと納得しています。