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《解説者》に 成れるのなら 当事者であり続けよ
《アース役》論です。 (1) 心的な現象として たとえば半ば夢のごとく次のような状態があったとします。: (あ) 事態を実況中継する自分と解説者となって脇から見て解説もしている自分と そしてそれらの自分をあたかも上から管理している自分とがいる。 (い) 管理する自分は キャスターやコメンテーターの自分を何かと叱ったり咎めたりしている。つまり ときどきガミガミ電波を垂れ流す。 (2) だとすれば これはけっきょくパワー・ハラスメントに遭っているおのれ ということにほか成らないのではないか? (3) つまりはすべてを端折って言うとすれば そのガミガミ役に対するに《アース役》なる位置関係を ともかく――心の中では舌を突き出してアカンベエをしつつも――引き受けてやればよいのではないか? (4) それとも そのガミガミ発言は 根拠がない。深慮にとぼしい。と明らかにしてやればよい。 (5) ともかく おのれは いくつかの自分を みづからの下に回収しなければならない。われはわれなりと。 (6) むつかしい。と言うなら そのよわさを認識しなければいけない。そして 誇るのなら よわさを誇ろうと言って行く。 (7) われであれ。
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- NemurinekoNya
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こんにちは。 ガミガミ電波を送るものは、 「・・・してはいけない」と語りかけるダイモニオンであり、 「should・すべき」で語る(純粋?)理性であり、 検閲者である超自我・スーパーエゴなんであろう・・・。 良心そのものではないけれど、良心的存在・・・。 時に、世間体、良識なんぞと呼ばれるもの・・・。 ☆ (3) つまりはすべてを端折って言うとすれば そのガミガミ役に対するに《アース役》なる位置関係を ともかく――心の中では舌を突き出してアカンベエをしつつも――引き受けてやればよいのではないか? ◇他の人のことは知りませんけれど、 私・ネムネコにおいては、 私の中にある、このガミガミ役を納得させないことには、前に進めません。 いかなる手段を使ってでも、丸め込む必要があります(笑い)。 私の《エス・イド》も、《スーパーエゴ》同様に、相当に理屈っぽいですからね~。 論が立つ。 理屈っぽいという点で、ガミガミ役に遜色がない。 白黒をつけないと、互いが納得しない。 なので、 アース役に出番がない!! ☆(4) それとも そのガミガミ発言は 根拠がない。深慮にとぼしい。と明らかにしてやればよい。 ◇私の場合、そんなことをしたら、 私のガミガミ役が「どったら、どうなのさ」と開き直ります。 「おかしいものは、絶対におかしいのだ」と居直ります。 雷オヤジから頑固オヤジに急変して、交渉の余地がなくなります。 私のガミガミ役は、結構、繊細で傷つき易いので、 《エス》や《イド》が常にその顔色を窺わないとダメなんですよ。 煽てて宥めすかさないと、ヘソを曲げちゃう(笑い)。 このガミガミ役は、気位、プライドだけは高いので(ポリポリ)。
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こんにちは。ご回答をありがとうございます。 いきなり取っ掛かりからですが: ○ 【Q:《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。】 と考えています。 ☆☆ 《自我・超自我・無意識》の理論は まやかしである。~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7232092.html (1) すでに 《無意識》という領域については 批判が終わってもいるようです。 ▲ (ヰキぺ:無意識) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98#.E5.BA.83.E7.BE.A9.E3.81.AE.E7.84.A1.E6.84.8F.E8.AD.98 §5 広義の無意識 フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、 20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (2) とにもかくにもこの単に意識していないというのではなくわざわざ《無意識》という独自の領域を設定した場合の概念というのは ひじょうに厄介な分析道具だと考えられます。つまり 要らないはずです。 意識できない・意識していない・意識したくないといったかたちで《意識の外にある》ことがら これは 意識に現われたとき認識すればよい。ただこういう問題だと考えます。すべて記憶の倉庫にしまってあると見ればよいわけです。 なぜなら 意識の先を越して――ということは 意志による判断を省みずに――行動に移ったという場合 それはそれでも事後的に《わたし》の意志行為であると見なせばよいわけです。 これをわざわざ無意識のしわざであると言うものですから ややこしくなる。思ってもいないことをやらかしたとか 人を突き動かすものには意識の底の自分にも分からない力があるのだとか 人間の行為ないし現象をわざわざややこしくしているはずなのです。どれだけ怪しく妖しい力が突き動かしたにしても それらはすべて人間の・そしてわたしの《自然本性もしくはそれのへそ曲がり》から来ています。 すべての思惟や行動は――無意識からであろうがどうであろうが―― わたしが引き受けることがらです。意志行為は中軸ですが 《わたし》がむろん全体なのですから 無意識であったゆえにみづからの意志が関与していなかったとしても それはわたしの行為である。このことは はっきりとしています。満員電車でほかから押されて不可抗力で起こした身の動きも 故意でなくても 事後的にこれを《わたし》の行為として引き受け それとして責任を持ちます。ごめんなさいとあやまります。 すなわち意志や思いや気持ちやのパーツを取り出し――それも要らないパーツであるのに―― その行ないについてパーツの所為にする。ここに間違いがあると考えられます。 (3) わたしの中に自我・超自我・エス(《それ・あれ》・無意識)をわざわざ取り上げ取り出したときから わたしの分裂が始まったのではないか? 二重人格などありえません。ですが 《自我》なら自我が全体としてのワタシから単独分立したときから もうひとりのわたしという観念が生まれその横行が始まったのでは? 《超自我》さえ単独で あたかもわたしの代わりになるかのような扱いを受けてしまいました。 《無意識》を研究するのは なぜかカッコよいとさえ見られるという一面も生みだされました。 (4) 《超自我性》も《無意識のものが意識されるようになったエス性》も 全体としてのワタシの思惟や行動にとっての部分的な材料や選択肢となることがらであると言うべきです。ということは 何がエスで何が抑制因かという区分は――選択肢の内容をそのときの判断において把握していればよいわけですから―― 要らないと見られます。 欲動かそれを抑制するかという観点のみではなく そのほかの自分の中の要因やあるいはその場の相手や果ては情況一般といった観点をも含めてとうぜんのごとく総合的に判断するのであり それをおこなうのは ワタシです。 なぜこの――全体としての――ワタシを押しのけるのか? (5) いま・ここにあってわたしと自称しているわたしが存在しているというのみではないか? わたしという人格 あるいは 人格としてのわたし。 自我という人格あるいは人格としての自我とは言わないでしょう。しかも原語は 《 das Ich ( the 'I ' ) 》であり自称に用いる《わたし〔が〕》のことです。《これこれが わたしの意見です》というところを 《・・・わたしの自我の意見です》とは言いません。言えません。 (6) なぜ《わたし》を分けてしまい 引き裂いてしまうのか。その精神分析のどこが 学問でありましょう。勝手にみづから病いの殿堂を建てているようなものではありませんか? 《自我》とは 《わたし》のパーツである。しかもそうだとすれば 要らない。 《エス・無意識》も ただ《逸る気持ち》とでも言えばよいであろうし 《超自我》は《内に省みる心》とでも言えばよいはずなのでは? 投稿日時 - 2012-01-08 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ ガミガミ電波を送るものは、 ☆ は 一般に《上司》ですから その意味では次の規定は違いますが その規定としては取り上げて検討します。 ◇ (あ) 「・・・してはいけない」と語りかけるダイモニオン ◇ (い) 「should・すべき」で語る(純粋?)理性 ◇ (う) 検閲者である超自我・スーパーエゴ ◇ (え) 良心そのものではないけれど、良心的存在 ◇ (お) 時に、世間体、良識なんぞと呼ばれるもの ☆ (う)の《超自我》は 上に述べたところから ワタシの部分的な知解や意志のウゴキであると見ます。 (え)の《良心》は むしろ《アース役》をつとめようかどうかを考えるチカラでしょうね。 大きくは(い)の《理性》をも包み込むハタラキでしょう。 (お)の《良識》は 良心と同じようなハタラキでしょうし ただし《世間体》は 考えてみればたしかに良心や良識にもとづき培われたナラハシ(慣習)でありえますが ふつうは単なる見栄を張ることだとも見られます。 (あ)のダイモーン いや ダイモニオンですかは 何ですかねぇ。よき・あしきの二種がありませんか? ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) ・・・ ◇他の人のことは知りませんけれど、 私・ネムネコにおいては、 私の中にある、このガミガミ役を納得させないことには、前に進めません。 いかなる手段を使ってでも、丸め込む必要があります(笑い)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 次の事項すなわち ☆☆ (趣旨説明欄) (4) それとも そのガミガミ発言は 根拠がない。深慮にとぼしい。と明らかにしてやればよい。 になりますね。と思ったら: ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私の場合、そんなことをしたら、 私のガミガミ役が「どったら、どうなのさ」と開き直ります。 「おかしいものは、絶対におかしいのだ」と居直ります。 雷オヤジから頑固オヤジに急変して、交渉の余地がなくなります。 私のガミガミ役は、結構、繊細で傷つき易いので、 《エス》や《イド》が常にその顔色を窺わないとダメなんですよ。 煽てて宥めすかさないと、ヘソを曲げちゃう(笑い)。 このガミガミ役は、気位、プライドだけは高いので(ポリポリ)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 上司に向かうこともあれば 部下に向かうこともある。ということでしょうか。 ううーん。どうなんでしょう。 それでも 《ガミガミ役なる上司》の言い分にマの違いがあれば ひとつにそのまま大きくこれを包んでやってアース役をつとめるか もうひとつに そのマチガイをきちんと上手に説明してやるか。ではないでしょうか。 選択は 決まっているものではないのでしょう。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 理屈っぽいという点で、ガミガミ役に遜色がない。 白黒をつけないと、互いが納得しない。 なので、 アース役に出番がない!! ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この受け身の姿勢 これがですね 一般にすでに《アース役》の立ち位置なのではないか。とは考えるのですが?・・・ そのまま アース役としての受け身を保つか それとも マチガイを指摘するか。この二択は どちらにも決まっていないでしょうね。