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今川義元の松平元康(家康)への待遇はどんな感じ?

全体的に見ると家康個人には厚遇していると思えました(元服式で烏帽子親になるなど)が、一方で三河衆(徳川一門や家臣団)に農作業をやらせたり、織田軍に突撃させるなどの冷遇もあったと聞いてます。 実際はどんな感じだったんでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>全体的に見ると家康個人には厚遇していると思えました 資料を見ると、家康は高待遇です。 人質とは、到底思う事が出来ません。 義元としては、実子・跡継ぎとして考えていたフシがあります。 >一方で三河衆(徳川一門や家臣団)に農作業をやらせたり、織田軍に突撃させるなどの冷遇 家康と三河衆は、個別に考えた方が良いです。 三河衆は、家康でなく松平(徳川)家の家臣ですよね。 あくまで、頭として家康を見ているに過ぎません。 ※三河衆は、家康が頭としての技量が無いと判断すれば追放若しくは殺害します。 ※文部科学省非公認の歴史では、幕府を開いた家康と人質時代の家康は別人との古文書もあります。 ですから、義元としても家康と三河衆は別物と考えていました。 簡単に言うと、三河衆を信用していなかった訳ですね。 が、三河衆としては「頑張れば、家康の評価になる」と必死だった訳です。 義元としては、強力な戦闘軍団であり且つ彼らが何人死傷しても痛くも痒くもない都合の良い軍隊でした。

gizumobrothers
質問者

お礼

参考になりました。 確かに家康が二人いた(片方は異母弟の説あり)という噂、聞いたことがあります。

その他の回答 (2)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

No1の方と同回答です。 補足として、どちらかと言うと世話になっておきながら「裏切った」家康を正当化する為に、後々創作した物語の面が強いかと思われます。 裏から糸を引いて父親の松平広忠を殺させたと言う説も見られますが、其処まで簡単に弱体化をさせ得るならいっそ家康(竹千代)まで刈り取る事も出来たでしょうに、現実には厚遇しています。 義元が日本有数の戦国武将であったのは近年の研究で明らかになって来ていますから、やはり家康のスケープゴートとしてのストーリーでしょう。

gizumobrothers
質問者

お礼

有難うございます。

  • Yelm
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回答No.1

まず義元は家康に対しては元服時に「元康」と自分の名を送り、姪の築山殿をめとらせるなど厚遇していたのは間違いありません。 また三河衆にしても当時は兵農分離が進んでいませんので、普段は農作業を行い、動員がかかると武具をまとって領主の元に参じる武士は全国に大勢いました。 更に当時の慣例として戦端が開かれた時は、敵側の領主に接しているものが先鋒を引き受けるのが当然とされていましたので織田方と戦う時は三河衆が先鋒となるのはむしろ当たり前の話であり、もしそれを認めなければそちらの方が三河衆を信頼していないという事になります。 家康が人質時代に苦労したという逸話は、江戸時代に家康を神格化する過程での作り話だと考えた方が自然でしょう。

gizumobrothers
質問者

お礼

有難うございます。

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