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「崇高」について。

「崇高」について思う事を教えてください。 私は 「他者の為に多大な努力を進んでする事」だと思っています。

みんなの回答

noname#210533
noname#210533
回答No.8

崇高、とは人格を指すのではなく、心の様相の一つを 示すものの様にも思えます。 痩せ細った子猫がずぶぬれで震えているのを見た時。 酷く怯えて泣きながら頭を抱えて虐待される子供を観た時。 鼻から口から海水を呑んで溺れかけている人を観た時。 ただ、純粋にその命に心を奪われ、なんとかして助けたいと 一念を宿した心。 その瞬間、窮状に瀕するか弱い命を救いたい、それだけを 考えている時、自分の損得も思考も感情も全て停止して、 ただただ、何とかしなくちゃ、と強く思う。 その瞬間、心が帯びているもの。 崇高とは、そんなものかなあ。 などと思ったりします。 それを崇高な人格、というフレーズで考え始めた時。 崇高の真似をする、ただの金メッキに落ちてしまうもの。 崇高とは、自らの命と引き換えに何かを救って初めて、 永遠の人格属性として墓標に飾られる墓碑銘の一つ。 かも知れません。 生きている間は、崇高である時は一瞬で構わない。 後は、やるか怯むか。その覚悟と判断だけです。 やると覚悟して対象を救いに行こうと急ぐ間は、 間違いなく、崇高であるでしょうね。 崇高とは、身を捨てて誰かを救う覚悟をしたものが 決死で行動する時の、心が放つ響き、光。 そんな風にも思います。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 私もこの質問を立てる時、正にそのような事が念頭にありました。 例えば、先日あった、踏切で老人を助けようとして亡くなった女性のような場合ですね。 ただ、そのような究極の事例に限定してしまうと、どうしても「崇高」の意味が 狭まってしまうと思い、敢えて間口を広げようとしました。 そして、やはり「崇高の芽」は多くの人の心にあるように思います。 ご回答ありがとうございます。

alterd1953
質問者

補足

そろそろ締め切らせて頂きます。 何となく、人それぞれの「崇高」の手触りを感じられたように思います。 それは「超然」として「近寄りがたく」「極めて美しい」ものであるように思います。 皆様、ご回答ありがとうございました。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.7

訂正 中山教授→山中教授 失礼しました。

alterd1953
質問者

お礼

いえいえ。 安倍首相もそう言ってましたし(笑)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.6

お礼、ありがとうございました。 「他者の為に多大な努力を進んでする事」も 、間違っている訳じゃない様に思います。 このことで誰かを非難や否定したくて書いている訳じゃないのを、付け加えておきます。 その根拠ですが、崇高は誰しも自己の中に持っているものであり 判断に使う感覚の一部だと、私は自分の中で認識しています。 感覚的にです。 それで、確かに自分の美意識にひっかかります。 己の美学に、かかわってくるものですね。 気高く・潔く・弛まぬ努力、嘘を付かない・騙さない・裏切らない・欺かない 見下さない・馬鹿にしない・貶めないなどは自己の美意識・美学に 日々の自らの具体的な行動を通して、誇り高い人でありたいと自らに訴えかけます。 日々の些細なことから、仕事や社会貢献などまで美意識は影響します。 その思いに忠実に生きようとすれば、結果「他者の為に多大な努力を進んですること」に繋がり それが如実に現れる人(iPS細胞の中山教授など)が世の中にいる(出る)と言う事になります。 そんな人は、おそらく自身の姿が崇高であろうと考えて動いている訳じゃないでしょうが 結果的に生じたことであろうと他者の為に多大な努力を進んでやってますよね。 崇高は、崇高だけを外に求めると肥大化していき争いの種になることも多いと思います。 自分の内に常に愛を持ち続け、なおかつ崇高も持つことで 判断機能は、より善であるものを選択できると思います。 多くは、逆を感じると明確ではないでしょうか。 例えば、言い訳を延々と続ける人を見ると「見苦しい」と感じるのではないでしょうか。 美しくないので感覚に引っかかりますよね。 美しいと感じる方を選んでもいいし、美しくないと感じることを避けようと選んでもいいのですが 人間が感覚的に持ち合わせているものが、崇高だと感じる次第です。

alterd1953
質問者

お礼

再度のご投稿ありがとうございます。 私もiPS細胞の山中教授は迷わず崇高だと思える日本人です。 後、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」等に出て来る 途上国で医療に従事しているような方も同様だと思いますね。 また、人間が生きがいを感じられるのは「真善美」を追求することだと言いますが 仰る通り美的感覚は非常に大事だと思います。 平たく言ってしまえば、「見苦しい事をしてはいけない」と言うことなんだと思います。 私は前記のような立派な人間ではさらさらありませんが せめて、そこは守る人間でありたいと願っています。 ではまた(笑)

noname#202494
noname#202494
回答No.5

夫のたっての希望で一緒に”ノア(の箱舟)”を観てきました。(いくつかの中東の国で、上映禁止になったため、興味深々だったようです。) 聖書の記述とはまったく違う筋立てで、夫が、”ハリウッドの陰謀だ!”と怒っておりましたので、イコン製作の先生である東方カソリック教会の神父さんにお伺いしたところ、映画は、”ユダヤ教”のノアの話の筋をミドラッシュにも忠実に再現したものである、とのことでした。 いつか映画をご覧になって、この回答を読み返されることをお勧めしたいのですが。。。。 あらすじを申し上げますと、ノアは、セス(カインとアベルの弟)の唯一の末裔で、三人の男の子と妻があり、(子供を産めない体を持つ)女の子を助けて、巨大な船を製作します。彼は自分の役割を、”堕落してしまった人類を一人残らず滅亡させることだ”と、正確に把握し、家族に、その悲しみを披瀝することなく、黙々とそれを遂行します。 これは、聖書で、”ノアをその家族が、神に選ばれ、のちの人類の祖となる”という、お気楽な記述にまったく反するもので、自分の手を血に染めて、もう一度、罪をおかしたアダムとイブ以前の”楽園”を地上に再現する推進者として、充分な自覚を持った”崇高な”人物として描かれています。 箱舟の中で、家族に、”まず、私と妻が死に、長男、次男、女の子が死んでゆく。そして可哀想だが、三男が最後に残って、皆の始末をし、最後の人類として孤独に死んでゆく”と、神と彼の計画を吐露します。豪胆な腹の座り具合に、さすがの私もあきれ返った場面でした。 そののち、家族の者たちが、それぞれの思惑をもってじたばたし、ノアの計画は、泡と帰すのですが、それは、ご覧になったときのお楽しみです。 映画を観てすぐですので、現在は、”崇高”=ノアということになります。 いつもの通り、大変タイムリーなご質問でした。

alterd1953
質問者

お礼

今回の質問タイトルもCiaopolpoさんにフィットするだろうなとは思っていましたが そんな映画を観られた所でしたか。 ノアがラッセル・クロウというのはちょっとイメージが違うように思いますが 案外合っているのかも知れませんね。 「パッション」も実にリアルな映像でしたが ミドラッシュに忠実に作られたとのこと興味が湧きます。 いずれにせよ、人間社会が堕落しているという感覚は古今東西共通しているように思います。 ただ、それらは人間の欲望の際限の無さ、コントロール能力の脆弱さで説明が付くように思います。 反面、最終的には「崇高」に行き着く人間の心の美しさは一体どこから来たのだろうと言う疑問が 昔からあります。 まず言える事は、それは「愛」であり Ciaopolpoさんなら「神」からと仰るかも知れませんね。 ではまた(笑)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.4

特段表に出さず、内にそっと持ち続けるもの。 ある意味、誰でも持ってるもの。 その人が自らの生き方に、使うか使わないかは別として。 人からの評価には、関係が無いものだとおもいます。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 人の評価を気にして、これ見よがしにやる行動とは全く対極にある 人間の心にある美しい部分なのだろうと思います。 ご回答ありがとうございました。

回答No.3

崇高ってカントの「判断力批判」の美的判断力の一部だろ? なにか巨大なものを目の前にしたときに畏怖の念に駆られること、それが崇高だね。 カントは「判断力批判」を書く前に、エドマンド・バークの「崇高と美の観念の起源」を批判した「美と崇高の感情に関する考察」を著していて、そこで、崇高をいくつか挙げているけど、一つが恐怖心を与えるもの、一つが怪奇、一つは茶番だと言っています。 美は人に心地よい感情を催すけど、崇高は畏怖の念や恐怖心を催すから、美は積極的に追及しても、崇高は積極的に求めるべきものではないという感じだね。 高くそびえる山などを見ると崇高な感情を覚えるけど、同時に自分がちっぽけなものに思えて、あまりいい気分じゃないし、プレッシャーを覚えて逃げ出したくなるよ。 人格的に立派な人を目の前にしたり、英雄を目の前にしたりすると崇高な感情を抱くけど、同時に近寄りがたい、また近寄りたくない気分にも襲われるからな。 敬して遠ざけたくなる。 あなたは「他者のために多大な努力を進んですること」だと思っているというけど、それは美学とは関係ないんじゃないかな? だって、他者のために多大な努力するのを他人が見たとして、畏怖の念とか恐怖心なんか覚えたりしないからな。 むしろそういう人を見ると尊敬の念を覚えて、できることなら近づきたいと思うのではないかな? 敬して遠ざけるのとは反対に。 それとも自分が「他者のために多大な努力を進んでする」ことに対して自分で崇高な気持ちを持つってこと? 自分が偉大な人間なったような気持ちになるから? だけどそれは崇高とはちょっと違う感じだね。 もう一度言うと、崇高は美学の問題で、道徳の問題じゃない、ということ。 よく、人間の道徳的な在り方を崇高と勘違いする人がいるんですよ。 だから、なんか、崇高という概念を間違って理解しているんじゃないか?

alterd1953
質問者

お礼

なるほど。 「崇高」は美学の範疇に入る概念で「道徳」には入らないと言うことでしょうか。 しかし、「他者の為の努力」がもし超人的なものであり 命をも削るようなものであれば、やはり畏怖の念も起こり敬遠される場合もあるように思います。 ご回答ありがとうございました。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

「崇高」は「崇高」でしょう。 行いに対して冠されますが、どちらが「主」か「従」かはその時々ではないでしょうか。 その上での私の感覚では“己を加味しない事”ではないかと思います。

alterd1953
質問者

お礼

そうなんですよね。 どれだけ大きな事をやったとしても 全て自分の為だけなら「崇高」から遠いように思います。 ご回答ありがとうございました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.1

市井にありながら、市井の有様を超えていて、人に対して平等であり、争いにあってはそれを鎮め、誇らず、労せずして生きている聖人。そのような人を崇高と言うのだと思います。

alterd1953
質問者

お礼

う~ん。 そうですね。 それに近い人に一人だけ出会った事があります。 恐らく、ごくまれにいらっしゃるんでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

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