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神様は魂の崇高な人物ほど多くの試練を与える、というのは事実だと思います

神様は魂の崇高な人物ほど多くの試練を与える、というのは事実だと思いますか。 ちなみに私は、自分で言うのもなんですが、日本一酷い目に遭ってきたと思えるほど、滅茶苦茶酷い目に遭ってきた者です。 試練と酷い目に遭うこととは同じことだと思いますか。

みんなの回答

noname#236314
noname#236314
回答No.17

 自分も33歳で、結構、過酷な状況(モノクロな青春・2002年就職氷河期・就職後、給料上がらない、結末の見えないプロジェクトを任される、計画停電時初期の過酷な状況下での通勤、計画停電下のライフライン(水道)の継続計画)といった 『神様の試練的なもの?』を数々乗り切っていますが、未だに幸せを感じる時がありません。  でも、自分が幸せと感じないだけで、神様(信じない人もいますが私は信じます。)は幸せを与えてくれているのではないでしょうか?  昔、『ロード』という歌がありましたね。その歌詞の中に『何でもない様なことが、幸せだったと思う・・・。』というのがあります。     以前、私は、人身事故の交通事故を起こしました。その日は最悪でした。警察には怒られるわ、被害者に謝罪しにいかなければならないし、仕事も手につかないし、保険会社と携帯でやり取りをしようとしたらバスの中で運転手に怒られるは 人生で経験したことのない最高に怒られっぱなしだった一日でした。  でも、幸い被害者のケガが軽傷で、真摯な対応を行った成果があったか、罰金なしの点数4点だけで済んだ事、これをきっかけに車を手放した事で、保険等の維持費がなくなり、勤務に対する時間の使い方も余裕がある考え方に変わったりと 交通事故によって得たものもありました。  この時『何でもない様なことが、幸せだったと思う・・・。』ってまさに本当だなと思いました。  また、自分は試練を乗り越えているのにまだ幸せが来ないと感じているのなら、まだ『幸せ貯金』が満期になっていないと自分に言い聞かせています。  自分も今、様々な試練を目の前にしてサポートしてくれる人も少なく『神様の試練ってなんだろう?』と疑問に思った人間族の一人です。  最後に試練と酷い目に遭うこととは同じことだと思うけど、酷いことが人間関係・仕事関係であれば、それを上司の上司に相談する事だとか、労働基準監督省に相談し問題解決することがあなたにとって試練を乗り切ることだと思う。   ダメなら、仕事を辞めたり、転職するのも手だよ。死ぬよりは全然いい選択。   雨はいつかやみ、晴れる。晴れる(幸せ)時を待ってお互いポジティブにがんばっていこうぜ!!

noname#142902
noname#142902
回答No.16

分りません。 しかし不幸など魂が磨かれる(宗教的に言うならば)気もします。芥川賞を受賞したエリートの女性と苦労人の男性。後者の方が圧倒的に優しい心を持っていると私は感じます。心が広いと思います。外見は少し悪い(気にされた方がいたらすみません)かもしれませんが、彼の心は私は素晴らしいと思います。 崇高だから多くの試練を与える、のではなくて多くの試練を潜り抜けるから崇高になりうるのでは? 私は不幸は嫌でしたが、その中で色々な宝物も見つけられました。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3634/18947)
回答No.15

試練もひどい目も表現が違うだけで中身は同じです 私のように崇高とはほど遠い心がけの人間だと試練が避けて通ってくれますw

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.14

太陽はただ燃えているだけです。それで作物が稔れば恩恵だし、日照りになれば罰だとか試練と言う。 要するに受け取り側の心のあり方です。 神の威光に良いも悪いもありません。 しかし、太陽がなければ自分が居ないことは確実ですから、自分が生かされている事に感謝するのが当たり前。 要するに良い時はもちろん、辛い時でも感謝し続けられるかどうかが、本当に信じきっているかどうか、或いは自分の意志の強さを自己評価する「場」なのです。 意志が強ければ逆境も乗り越え好転するし、意志が弱ければチャンスを生かす事も出来ずにいい事も少なくなる。ということです。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.13

人が人を試練するのは、禁じられていると思いますが、同様に、神もまたいたずらに人を試練はしないでしょう。 神はおそらく誰に対してもいつだって、その人にとって最善の道を示したいはずです。 ただ神の示したその良き道が、人の取り方で「試練」という呼び名になってしまうのでありましょう。 しかし、それを越えた者には、今までの試練を忘れてしまうほどの夢のような喜びの世界が待っているのです。 取り方の問題であれば、崇高な人に試練が与えられるというよりは、どんなレベルの人にも与えられていると思います。 つまりは、神の示す良き道が、その人その人に相応しいものであると同時に、必要な物だから与えられるのだと思います。 あなたの場合、試練が多いと悩んでいますが、少なければいいというものでもありません。 それとはちょっと違いますが、こんな例もあります。 ある夫婦の話しですが、旦那さんの方は、ちょっとしたことでもすぐ悩む人だということです。 しかし、奥様の方は、悩んだことがない人で、そのことが悩みだということです。 つまり、旦那さんやいろんな人から悩み事を相談されても、自分なら悩まないことなので、「それのどこが悩むほどのことなのかわからない」・・・という具合に、人の悩みがわからないので、何を言ってあげたらいいかわからない・・・つまり、悩みがないのが悩みだというわけです。 試練も同じだと思います。受けている時は、それを越えるか否かの闘いの真っ最中にあるため、当座はその意味もわかりませんが、あとあとある場面でその時の試練の意味がわかったりするものです。 悩みを持つことにも大きな意味があるとあとからわかるように、試練も同じようなものだと思います。 試練がないことが、だからといっていいことかどうかはわからないのです。 私などは、人の気持ちを知る上で、喜びだけでなく、悲しみも苦しみも試練も人一倍多く受けたいと過分に思っているぐらいです。 人が誰も付いてこれないような試練を受けて、なおかつそれを正面から逃げずに受け止めつつ、それを乗り越える自分になりたいと思います。 また事実そうしてきました。 過去ある最大の試練がありましたが、それを死ぬ覚悟で乗り越えた直後に、まるでタイミングを計ったように、その最大の試練が嘘の如く見えるほどの本当の試練に襲われました。 しかし、それを乗り越えた時のことは今でも忘れられません。乗り越えた記録が何年何月何日何時までもはっきり覚えていますが、乗り越えてどうなったか・・・信じられない体験が待っていたのです。 宇宙に一つしかない宝物を手に入れたような喜びの世界!! それ以来、人間関係の奥深さが心からわかるようになったのです。 神が与えたいのは、おそらく試練の方ではなく、誰もが見つけられないところに隠した秘密の宝物を与えたかったのだと思います。 そう考えれば、試練も与えられないような人生は本当に安っぽく見えてしまいますね。 そういう試練や苦痛という茨の道を通過しなければ、きっと本物の宝や喜びを得ることはできないようになっているのでしょうね。 逆に言えば、試練がない人は、試練もないかわりに、本物の喜びにも触れられないということでありましょう。 試練や悩みがないことが必ずしも自慢できることではないのです。 むしろ、人が探さないような、見向きもしないような場所にこそ真実の宝や喜びがあるのですから、 人の嫌がること・・・試練や否定や苦痛を回避しなければ、間違いなく隠された宝に出会うことができるはずです。誰も探さないところ・・・これ決めてですね。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.12

>神様は魂の崇高な人物ほど多くの試練を与える、というのは事実だと思いますか。 ノー。 自然淘汰(自然選択)でそうなったんです。

回答No.11

崇高とかどうかは関係なく、もし神がいるなら、その人に必要な事を必要なだけ、してくれるんじゃあないの、良いことも悪いことも含めて。

回答No.10

事実ではありません。 神は自然界の摂理を決めただけです。 人間界の個人ごとの魂が崇高か低俗かなどに興味は無いはずです。 いわんや、その高低によって自然界の摂理の適用不適用を匙加減するなんて事は考えられません。 これは、宗教という名の集金マシンを構築・運営している人間が、集金マシンとしての効率を最大化しようとして日夜考えているキャッチフレーズのひとつではないでしょうか。

回答No.9

神様がいるとは思えないので、「与えられる」という事はないでしょう。 ただ、向上心があれば、困難な状況に挑む、という事はあると思います。 (しかしそれは克服する喜びにつながるもので、「困難を与えられた」という性質のものではないでしょう)

回答No.8

 神様が試練を与える事はないと存じます。  自分に必要だから、試練のある選択をしていくように自分の内奥の意識が指導しているのだと存じます。  ただただ徒に、苦労やトラブルのある生活、人生は滅茶苦茶に生きているだけのことであると存じます。それは克服して当たり前であり、もっと勉強と進歩につながる試練であるように自分の生活をきちんとするべきだと存じます。  崇高な人って知りませんが、高い人は無用な自分のトラブルや試練よりも人のそういうことを取り除いたり、克服できるように協力や援助をしております。  イエスや孔子、釈迦も確かに試練はありましたが、意味が違います。

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