• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。)

ソシュールの言語記号の恣意性について

このQ&Aのポイント
  • ソシュールの言語記号の恣意性は神話であることを証明する。
  • 言語現象を通じて恣意的で論理的な関係のない言語記号の作成例を示す。
  • ソシュールの仮説によると、派生語やオノマトペには関連性があり、現象だけでなく例外も存在する。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.14

「お礼」への書き込みをありがとうございます。 > ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。 ⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。 > 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。 ⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!  ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。 > これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。 > 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。 ⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。  ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。 > ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。 ⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。 > ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。 ⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。  なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。 > ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。 ⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。  例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。 > おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。 ⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。 > ・ / nVk(g)V / なる語例 > ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照 > ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照 > の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。 ⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。  ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。  bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。  以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。  ☆ これは 次の主題とその探究で済んでいるという立ち場にすでに立っています。  ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   ★(回答No.12) ⇒《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》場合があることは、確かにそのとおりだと思います。  ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち  ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~  これまでにおいて   ・ / nVk(g)V / なる語例   ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照   ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照  の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この説明に じっさい確かに次の《シニフィアン(子音なる音素)とそれがおびるシニフィエ(意義素)とのあいだに 自然的かつ論理的なきづながある》という説明を添えれば済む。こう考えます。  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  (い) なぜ / n / が同定相であるか?  この子音は 舌先を上の歯茎のところにおいたあと放すという調音の仕方としては / t / に似ています。ところが / t / は舌先を素早く突き放すのに対して / n / はいささかねちっこくくっつけたあとで放します。ここが子音という音素そのものが 同定相という意義素を帯びるという自然で論理的なきづなが見られるところです。 / t / は 不定指示相もしくは隔定相・放出相というべき意義素を帯びるようです。ta/da 誰; tu つ(完了相)。  (う) / k / ないし / g / は 反出相;反定相です。   息の音の / h / が順出相;順定相です。その息の音の流れを のどの奥に緊張点をもってさえぎるのが  / k / でありこれが 反出相;反定相をになうようです。   ha は(中心主題格)   ka か(疑問法); ga が(関係主題格)   ha-ka 果敢〔‐る(測る・図る)・‐無し・‐取る・‐が行く〕(主題内容の変化・移行・過程の相)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~       *  ★ ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。  ☆ けれども その初源の語の生成については まだ分からないという断わり書きをも添えねばならないでしょうね。  分かっているかぎりでは この chien の語源〔だけですが〕は 次のようです。《尖った歯》という意味の語として成り立ったと言っています。それだけでも   ★ [ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である  ☆ だけだとは限らない。こう見なければウソです。  ▲(OnlineEtymologyDictionary:canine ) ~~~~  http://www.etymonline.com/index.php?term=canine&allowed_in_frame=0  canine (n.) "pointed tooth," late 14c.,    from Latin caninus "of the dog," genitive of canis "dog"  (source of Italian cane, French chien),  from PIE root *kwon- "dog"  (cf. Greek  kyon,  Old English hund, Old High German hunt,  Old Irish cu, Welsh ci,  Sanskrit svan-, Avestan spa,  Russian sobaka (apparently from an Iranian source, e.g. Median spaka),  Armenian shun,  Lithuanian šuo).    The noun meaning "dog" is first recorded 1869.  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いまでは漢語は 走狗の《狗 gou / こおーお / 》が犬を表わしますが その昔 われわれは 犬 / ケン / という漢語を受け容れています。現代では 犬 quan / チュエーン / といった発音で残っています。  これなら / k - n - /というシニフィアンとして ラテンの canis と相似形を成しているぢゃないですか。――というのは 愛嬌の話に過ぎませんが。  《恣意性に基礎を置く人間の側の言語をめぐるウゴキ これを伴ないつつ出来上がった社会的な約束ごと》であるだけにとどまると言うのは 話が早すぎます。       *  ★ ・・・ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。  ☆ 《「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」》について 《 / n, t, h, k,・・・/ なる子音としての音素が その調音の仕方という自然の事象において一定の意味内容を帯び その内容をそのまま論理的にみちびいたかたちで 意義素となっている》ことをも示しました。  息の音 / h / は 順出・順定の相を意義素として持つ。息をするのは 自然でごくふつうなのだから 順出・順定の相を帯びる です。その息の音をさえぎる / k / は 反出;反定相・思考相・疑問相・変化移行過程相などだと言っています。  《一笑に付される》と見通されるその前に もういちど この事実をよく見てみてください。日本語というひとつの言語で成り立ったなら これを例外とするわけには行かないでしょう。  ▲ (丸山圭三郎:言語記号の恣意性) ~~~~~~~~~  第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《シーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実》は 真実ではありません。《原理の破れ》を例証しました。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 有縁性   ☆ とは 派生語の問題だと理解しています。  確認していませんが もしそうだとすれば なかい702さんの側に誤解があります。  派生語の問題で 音素と意義素の基礎理論の部分を例証しているわけではないからです。  それは まさに《音素=意義素》なる原義をめぐる基礎理論を示したのち そこから《派生する現象》についての語例です。原義を例証し得ます。  スワヒリ語の話なども この派生語の次元での問題です。それは 言語ごとに それこそ社会的な暗黙の取り決めとして出来上がり成り立って来る現象として そうとすれば恣意性のもとに 起こっているはずです。  言語記号の恣意性を打ち消す理論とは 別の問題です。《第二の恣意性》のことなのでしょうが 問題はそのとき 初源の段階で 《音素=意義素》を理論として前提しているかどうかで 話が違って来ます。

その他の回答 (14)

回答No.4

助詞「に」+ラ変動詞「あり」 → 断定の助動詞「なり」 「に」+「て」+「あり」 → 「だ」 http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%AA%E3%82%8A

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ 助詞「に」+ラ変動詞「あり」 → 断定の助動詞「なり」  ☆ ひとつの解釈だと捉えますが もしそうであっても 《助詞「に」》の子音 / n / が 同定相⇒断定相をになうという見方です。  

回答No.3

#1です。 まず、「行かへん」に/n/ が消えるというのは誤りでした。 お詫びして訂正いたします。 さてそれはそれとして、恣意性の恣意性たるゆえんは、 ・言語によって形式が異なる。 ・時代によって変化する。 という二点が中心です。 ですから、 >言語どうしのあいだでの比較対照は あまりやっていませんが といわれると困るのです。 たとえば、 断定の「ナリ」。英語の be 動詞の活用に /n/ は出てきません。 ラテン語のコピュラもです。 「なる」「なす」も do や become は /n/ とは無縁です。 「似る」は類似相といわれるかもしれませんが、英語の resemble には似ていません。 「犬」はイヌでも dog でも hund でも chien でも狗でもいい。 何でもいいんです。 言語記号は恣意的ですから。 ついでに、一言。 英語などヨーロッパの多くの言語で、コピュラは存在も表します。 He is Japanese. He is in Japan. しかし、しかしそうでない言語もあります。 イタリア語やスペイン語にはコピュラが二つあって、区別が付かない学習者を悩ませます。 日本語の「なり」「だ」「です」に存在を表す用法はありません。 「彼はアメリカだ」は存在を表すように見えますが、述語の代用であって、混同してはいけません。 実にむちゃくちゃで、恣意的ではありませんか。 それから、 >ここに出された語例は みな / n / が主役です。見えなくなっているだけだと思います。 見えなくなっても構わない、というところが恣意的ですね。 聞こえてもいいけど、聞こえなくてもいいというのだから。 > / m /=認定相と捉える子音が さらには >ぎゃくに(対義として)推定相をもおびるごとく >したがって推定は 未定でありついには否定の相にもつながる というのは、もし恣意性がなければ非常に困ることになります。 こんな風に意味が逆転してしまうのは、恣意的だからです。 これは恣意性の証拠なのです。 >息の音の / h / が順出相;順定相です。 >その息の音の流れをのどの奥に緊張点をもってさえぎるのが > / k / でありこれが 反出相;反定相をになうようです。 はて、日本語のハは パ>ファ>ハ と変化してきたようですが、/p/ では唇で息の流れを止めてしまいますね。 それから助詞の「ハ」は /wa/ です。 /ha/ ではありません。 発音を共感覚的に意味とつなげるというのは、それほど珍しい考え方ではありませんが、それで困るのは、 第一に主観的すぎること、第二に音声言語しか考えていないことです。 たとえば、 > / n / はいささかねちっこくくっつけたあとで放します。 といわれますが、私には鼻濁音の方がよほど「ねちっこく」感じます。 それに比べれば、/n/ なんかさっぱりしたもんです。 古語では「つ」も「ぬ」も完了の助動詞ですしね。 それから音声言語しか考慮しないのでは、手話が困ります。 手話も自然言語なのに。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~  恣意性の恣意性たるゆえんは、  ・言語によって形式が異なる。  ・時代によって変化する。  という二点が中心です。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 異なことをおっしゃる。音素がそのままで意義素であること ここに一定の自然で論理的な法則性がはたらいているということ このことで すでに言語記号の恣意性なる仮説は イチコロです。それを認めないというのは フェアではないですね。  上のような二つの論点は 付け足しです。  それでも考えてまいりますが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~  たとえば、  断定の「ナリ」。英語の be 動詞の活用に /n/ は出てきません。  ラテン語のコピュラもです。 「なる」「なす」も do や become は /n/ とは無縁です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 音素 / n / が同定相として じんるいの言語にとって普遍的であると仮説したからと言って 断定法の補充用言(助動詞)が どの言語でも この子音を使ってたとえば na-ri 也り のような語をつくるかと言えば とうぜんそれは そうではないでしょう。  (い) いろんな選択肢がありましょうし またそこからどれをえらぶかは まさに恣意性のもとにあります。  (う)  / n / は同定相ですが 何が何でもに同定するかと言えば そうではないということです。一般対象( na 名)のほかには 聴覚対象( ne 音)や自然環界( na 大地)までであって それ以上は 同定しなかったようです。そのことは 勝手なものであるようです。  (え) ですから 言語ごとにさらにまた このときの選択は 自由勝手だということが 大前提です。  (お) 不本意ですが 少し触れます。  つまり 英語の be 動詞は future の fu- や ひょっとして ブッダの bodha-ti の bo- をも同じく 子音群としての / h, f, p, b / のまとまりの中に捉えるなら 日本語の hu = heru (経る)の仲間でさえあるかも知れない。  (か)  / h / :順出相;順定相;中心主題相   ◦〔対極相〕副次主題取り立て相;周縁部分相(ha 端; he 辺・ヘ)   ◦ 順出→頻出→反復・習慣相(hu 経; -hu(-bu) 倣‐フ・学‐ブ)  (き) ボダ(ブダ)=目覚める という語があるわけですが あたらずとも遠からずであるかも分かりません。つまりまた fu- は 未来( futurus )にも過去( fui )にも用いますから 《存在する》という中心主題を表わす語として その子音は 役不足ではないでしょう。  ▲ (OnlineEtymologyDictionary: be )  http://www.etymonline.com/index.php?term=be&allowed_in_frame=0  (く)★ 「似る」は類似相といわれるかもしれませんが、英語の resemble には似ていません。  ☆ すでに述べたところから言って 構いません。  (け) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「犬」はイヌでも dog でも hund でも chien でも狗でもいい。  何でもいいんです。  言語記号は恣意的ですから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう内容の仮説をソシュールは言ったということは認めます。  (こ)★ 英語などヨーロッパの多くの言語で、コピュラは存在も表します。  ☆ ぢゃあ ロシア語では ヤー チャイカ( I 〔 am 〕 seagull. )とか ヤー ズデースィ( I 〔am〕 here. )とかというふうに 動詞無しで表わしていますが どうなのでしょう。  いろんな選択があってよいのです。そういう意味での恣意性は わたしのこの仮説も認めるところです。  (さ)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   > / m /=認定相と捉える子音が さらには   >ぎゃくに(対義として)推定相をもおびるごとく   >したがって推定は 未定でありついには否定の相にもつながる というのは、もし恣意性がなければ非常に困ることになります。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 恣意性の問題が違います。(か)でも 音素 / h / をめぐってその意義素の内容が 基本として 順定相=中心主題相でありつつ 他方では 周縁・部分相( ha 端;he 辺)をも表わすことを見ました。これと 言語記号の恣意性とは 問題が違います。  (し)★ ~~~~~~~~~~~~~~  はて、日本語のハは  パ>ファ>ハ  と変化してきたようですが、/p/ では唇で息の流れを止めてしまいますね。  それから助詞の「ハ」は /wa/ です。  /ha/ ではありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 基本は 《息の音》だと言っていることにあります。ですから ここでは 仮説ではありますが    *h > *F > p > F > h 〔>  w/φ/b〕  という音韻の変遷を前提としています。  (す) 母は 中世に いちど hawa はわ と発音されていた時期があります。kaha > kawa 川・皮 や mahi > mawi > mai 舞ひ(舞い) のごとくでしたが これだけは ハ行の子音を残そうということで haha はは(母)としていまに受け継がれています。息の音であるという基本内容は 潜在的にも存続していることでしょう。  (せ)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  発音を共感覚的に意味とつなげるというのは、それほど珍しい考え方ではありませんが、それで困るのは、  第一に主観的すぎること、第二に音声言語しか考えていないことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 言語学としては考えられない発言ですね。  どこが 主観的すぎるのか?  ことばを まづは 音声として・音韻として捉えない言語学はないでしょう。  (そ) ★ ~~~~~~~~~~~~~  たとえば、   > / n / はいささかねちっこくくっつけたあとで放します。  といわれますが、私には鼻濁音の方がよほど「ねちっこく」感じます。  それに比べれば、/n/ なんかさっぱりしたもんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから その《さっぱりしたもんです》という評価もありうる子音の / n / が 同定相にえらばれた。というだけのことです。その恣意性は 決して《主観的すぎる》という批判になじむものではありません。  (た)★ 古語では「つ」も「ぬ」も完了の助動詞ですしね。  ☆ ですから / t / を用いた完了相というのは 不定指示相;隔定・放出相であるという想定のもとにあって 一般に人為的な行動についての完了をあつかう。その動作をうっちゃったというような感じで。  それに対して  / n / を用いた完了相は 否定一般の相ですから・つまりは 或る種の仕方で観念として否定してしまった状態にあることを示すかのように 自然の生成や出来事についての完了を示す。といった区別があるようです。(人為的な動作もそれを自然のままに成ったことと見なせば ヌなる助動詞を使うということでしょう)。  (ち)★ それから音声言語しか考慮しないのでは、手話が困ります。/ 手話も自然言語なのに。  ☆ 論点から離れないようにしましょう。 

bragelonne
質問者

補足

 おまけです。  お礼欄の(た)についてさらに次をつけ添えます。  すなわち 日本語における完了相をあらわす子音として   人為的な行為の完了相:    / t / :助動詞の つ   自然現象のごとき行為の完了相:/ n / :助動詞の ぬ  これが 英語系にも見られるようです。    go went gone    do did done すなわち 人為的と自然的との使い分けこそ もう見られませんが 完了相に 二つの子音が用いられているのを捉えることができます。無声音と有声音とは 同じ意義素だと見てください。 / t /≒/ d /  

回答No.2

こんにちは。 わたしの知る言語論は、コンピュータ言語などに代表される数学的で人工的な言語の方───文法や構文規則系の方───なもので、人間様が日常使用する言語の言語学の知識は皆無に等しい。なので、まったくトンチンカンなことを言うに違いない!! と前置きをしておきます。 C言語系のプログラミング言語では、「Aは1ではない」を  A != 1 と書きます。この場合の否定辞に相当するのは、  ビックリマーク・! です。 この!の選択はまったく恣意的とも言えますが、コンピュータのキーボードで使用できる記号の範囲内でという制約があります。C言語の開発者がなぜ「!」を選択したのかは知りませんが、この選択には何か理由があったのでしょう。そして、万人がこの選択を受け入れ、使用するようになった。#や$でも別に良かった。この選択の背景には、何か理由があるのでしょう。他人には恣意的に見えますが・・・。そして、「!でいいでいいんじゃない」と他人に思わせる説得力が・・・。 ☆☆☆☆☆☆ 英語の「not」や「no」をはじめに、nichit、ロシア語の「ニエット」、・・・、 印欧語では、否定辞に「n」を使う言語が多いですよね。おそらく最も印欧祖語の原型をとどめているであろうサンスクリットでは「na」など。 この場合、 コンピュータ言語とは異なり、印欧祖語を使っていた誰か一人のものがnで始まる何かを使い、それを誰もが採用するようになった、とは考えられない。自然発生的に発生したに違いない。nで始まらなければならない何らかの理由があるのでしょう。 でなければ、母音ではなく、子音のnが音韻変化をしても構わない。なのに音韻変化できない理由が・・・。それはどちらかというと、統語論や発声的な制約なのかもしれませんが・・・。 その理由はわかりませんが、恣意性の一言で片付けることが可能かというと、疑問に思えます。 ☆☆☆☆☆☆ 日本語ですと、 「あり」の対義語は「なし」ですか。 でも、これは、なんで、「なり」じゃないんだろうか? 前から、「あり」と「なし」の関係を不思議に思っているんですよ。 文法的に言えば、「あり」は動詞で、「なし」は形容詞。 (古典)文法的に「あり」は動詞として異端児的な扱いを受けていますしね~。 実は、「あり」は、元々は形容詞だったりして(笑い)。 ☆☆☆☆☆☆ 日本語の活用語の場合、否定の意味をあらわすのは、活用の方ですよね。その後ろに続く「ず」や「ない」はおまけ的な色彩が濃いと思います。 「未然形」と呼ばれ語形。 これもまた不思議に思うのですが、 古典文法では  「あら」+「ず」 → あらず ですけれども、現代語(東京の一地域の訛り・方言です)では  「あら」+「ない」 → あらない とはならない。大阪弁(?)ですと、  「あら」+「へん」 → あらへん。 東京弁には、日本語の文法という点からすると、構造的な欠陥があるのかもしれない(笑い)。 この場合、未然形「あら」のあとにつく語は音韻的に不自然さを感じさせない範囲であれば、ある意味、ど~でもいいと言えば、どうでもいい。条件などをあらわす「ば」はマズいですけれど、活用の後ろにつく言葉を知らなくても、その時はじめて耳にした人でも意味は通じる。 ほら、わたし、理系ですし、それに構文規則系の方なので・・・。 ポリポリ。 ☆☆☆☆☆☆ / nVgV /については、 日本と遠く離れた地にあり、しかも、言語系統の異なる言語で、日本語の単語の発音と類似し、しかも、似たような意味の単語などがあったりしますので、 それと同様に、 単なる偶然、他人の空似と片付けることもできるのでしょうね。 ~~~~~~ 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。 ~~~~~~ これは「こじつけ」だといわれれば、そうなのかもしれない。 しかし、音韻や単語のもつ響きなどに無縁かといえば、無縁かといえば、そうとも言えないのでしょうか。人は音の持つ音色や響きなどに影響を受け、そこにイメージを持ったりしますので。 またそうでなければ、音楽は成立しえません。 「言葉は音楽から始まった」みたいなことを言う人もいますし。鳥の鳴き声、鳴き声のパターンをもとに───これには一種の規則性、人間の文法に似たような構造がある、らしい───人間の言語発生に迫ろうとする研究もあるらしい。鳥と猫の一族を魅力を感じます。 で、 人間の言葉は、異性・同性にたいする「愛の歌」から始まったに違いない!! ど~せ言語の発生などについては分からないのだから、 こちらの方がロマンがあっていい!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  C言語の開発者がなぜ「!」を選択したのかは知りませんが、・・・この選択の背景には、何か理由があるのでしょう。他人には恣意的に見えますが・・・。そして、「!でいいでいいんじゃない」と他人に思わせる説得力が・・・。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 言語学では ダメですね。例証がなければ 漠然とした感覚だけではダメでしょうね。       *  ◇ 印欧語では、否定辞に「n」を使う言語が多いですよね。  ☆ / n / が 〔同定相および〕否定相であるようです。  ▲ (OnlineEtymologyDictionary:no ) ~~~~~  http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=no&searchmode=none  no : "negative reply,"  early 13c., from Old English na (adv.) "no, never, not at all,"  from ne "not, no" + a "ever."  First element from Proto-Germanic *ne   (cf. Old Norse, Old Frisian, Old High German ne,  Gothic ni "not"),   from PIE root *ne "no, not" (see un-).  Second element from PIE *aiw- "vital force, life, long life, eternity" (see aye (2)).  ▼ ( ibid.: un- )~~~~~~~~~~~~~~   http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=un-&searchmode=none  un- (1) :prefix of negation,  Old English un-,  from Proto-Germanic *un- (cf. Old Saxon, Old Frisian, Old High German, German un-, Gothic un-, Dutch on-),  from PIE *n- (cf. Sanskrit a-, an- "not,"  Greek a-, an-,  Old Irish an-,  Latin in-), comb. form of PIE root *ne "not" (cf. Avestan na,  Old Church Slavonic and Lithuanian ne "not,"  Latin ne "that not,"  Greek ne- "not,"  Old Irish ni,  Cornish ny "not"). Often euphemistic (e.g. untruth for "lie").  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~       *  ◇ 「あり」の対義語は「なし」ですか。 / でも、これは、なんで、「なり」じゃないんだろうか?  ☆ これは わたしの知る限り 次のようです。    1. ある という動詞のかたちは いまでは存続法(終止形)ですが 《あり》という概念法(連用形)が意味の上からそのまま存在とその持続を表わし得ます。したがって ラ行変格活用となっている。  2. 否定法の補充用言(助動詞)は ず ですが これは No.1でも触れたように に(否定法)-す(為)から来ていると説かれます。そうして いまひとつ別の否定法の補充用言を使おうという試みが成されたとか。  3. それは あら‐なふ という形態をとるもので なふ がそれです。な(否定法)+ ふ=へる(経る) から来ていると言われます。状態用言(形容詞)で な(否定相)‐し(指定相。言い切り)=無し というようにサマ(状態)を言い表わすのではなく 動態(つまり動詞)として その否定相に表現したいときに使おうとしました。  4. そうすると あら‐な‐ふ なる複合表現は 概念法(連用形)では あら‐な‐ひ となります。つまりハ行の子音が消えて あらない です。ある という動詞の否定形は もう あらない とは言いませんが ほかの動詞で す→し‐ない 行く→行か‐ない・・・のごとく用いると便利であった。  5. 大ざっぱな説明ですが。・・・  6. あら‐へん は あり‐は‐せ‐ぬ からだと思います。せ‐ぬ が へん に変わっています。ひちや∽しちや(質屋)のたぐいです。        *  ◇ 「言葉は音楽から始まった」みたいなことを言う人もいますし  ☆ こういう分野(発想法)は なかなか具体化して来ないようです。むつかしい。

回答No.1

そもそも誤解から始まっています。 言語記号の恣意性とは、 ・音と意味の間に関連はある。 ・しかしその関係は論理的なものではない。 ・つまり、音と意味とは理由もなくつがっている。 ということです。 / n /  = 同定相・否定相 / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相 結構ですよ。 でも / n / と「同定相・否定相」の間には論理的な関係はないというのが、恣意性なんです。 いったんできてしまった関係は、言語の使用者にとっては自然に思え、不可分のつながりであるように感じられ、他の語へ拡張されることもあるでしょう。 でもそもそも、/ n / と「同定相・否定相」を結びつける理由はないんです。 このそもそもというところが恣意性です。 (丸山圭三郎風にいえば、第二レベルの恣意性ですが) 論理的なつながりではない以上、言語によって、否定辞の発音が異なるのです。 日本語でも「行かない」の否定は /n/ のようですが、古文なら「行かず」、関西なら「行かへん」です。 /n/ は消えます。 ちなみにご質問者のかたと同じ疑問を持ち、深く考察した言語学者もいます。 フランスの バンヴェニスト Benveniste という人です。

bragelonne
質問者

お礼

 ぱいどぱいぴんぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ でも / n / と「同定相・否定相」の間には論理的な関係はないというのが、恣意性なんです。  ★ でもそもそも、/ n / と「同定相・否定相」を結びつける理由はないんです。  ☆ ごもっともです。そして その説明を はぶいています。不当にも でした。(一ぺんで説明するには 無理と考えた結果ですが)。  説明します。  (あ)  / n / =同定相かつ否定相  1. 一般対象の同定: na 名; na-ri(也=断定法);na-ru/na-su 成る・成す; no/na(の・な=属格); ni(に=与格); na/no/ne なあ・のお・ねえ(念押し法)  2. その類似相:ma-na-bi 真‐似‐び(学び);ma-ne(真・似); ni(荷)& no-ru/no-seru(乗る・載せる――類似相は AとB二つのものを比べて重ね合わせるごとくなので その様態が 荷・載るなどを連想させる)  3. 聴覚対象の同定:na/ne 音; na-ru 鳴る;na-ku 鳴く・泣く; na-ri(なり=《・・・だそうな》=伝聞法〔古語ですが〕);no-ri(宣り=法)  4. 自然環界を同定:no/no-ra(野・野良);na/na-ra(地・地ら=奈良); na/ne(寝=大地のごとく横になる);na-re/nara-su(慣れ・均す)  5. 否定相:na-si(無し); -na 否定命令法(勿来・来るな)  (これは A の同定が やがて非A の同定に入れ替わった。ゆえに A の否定相を表わすようになった)。  (い) なぜ / n / が同定相であるか?  この子音は 舌先を上の歯茎のところにおいたあと放すという調音の仕方としては / t / に似ています。ところが / t / は舌先を素早く突き放すのに対して / n / はいささかねちっこくくっつけたあとで放します。ここが子音という音素そのものが 同定相という意義素を帯びるという自然で論理的なきづなが見られるところです。 / t / は 不定指示相もしくは隔定相・放出相というべき意義素を帯びるようです。ta/da 誰; tu つ(完了相)  (う) / k / ないし / g / は 反出相;反定相です。   息の音の / h / が順出相;順定相です。その息の音の流れを のどの奥に緊張点をもってさえぎるのが  / k / でありこれが 反出相;反定相をになうようです。   ha は(中心主題格)   ka か(疑問法); ga が(関係主題格)   ha-ka 果敢〔‐無し・‐取る・‐が行く〕(主題内容の変化・移行・過程の相)  (え) すなわち お尋ねの件は こういった子音の調音の仕方に秘密があった。と考えます。  (お)★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  日本語でも「行かない」の否定は /n/ のようですが、古文なら「行かず」、関西なら「行かへん」です。  /n/ は消えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここに出された語例は みな / n / が主役です。見えなくなっているだけだと思います。   ‐zu ず < ni-su に(否定)‐す(為)   ika-hen 行か‐へん < iki-ha-se-nu 行き‐は‐せ‐ぬ(否定)     (se せ が he へ に変わるのは たとえば anata-sama あなたさま> anta-san > an-san > an-han/anta-han あんはん・あんたはん)  (か)★ 言語によって、否定辞の発音が異なるのです。  ☆ 言語どうしのあいだでの比較対照は あまりやっていませんが こういうふうに説明できるかと考えます。  すなわち 英語系の no/ not のように同じく否定相が見られ しかも name (その / n / が 日本語の na 名と同じように 同定相);number (日本語で ne 値)といった語例も見られます。  ですが 問題は  / n / =同定相;否定相といった仮説が すでに残っていない場合と そして  / m /=認定相と捉える子音が さらには ぎゃくに(対義として)推定相をもおびるごとく したがって推定は 未定でありついには否定の相にもつながるといったこと このような場合も考えられます。  つまり 同じ否定相が 別の子音(/ n / と / m / )によって担われるといった語の生成です。    (き) ★ ちなみにご質問者のかたと同じ疑問を持ち、深く考察した言語学者もいます。 / フランスの バンヴェニスト Benveniste という人です。  ☆ バンヱニストは religion の語源の説明でなるほどと思ったことがありますが その考察内容について残念ながらまだ承知していません。あたって見なければならないかも分かりません。    まだまだおぎなうべき議論はありましょうが ひとまづお応えする論点は こんな感じになるでしょうか。

関連するQ&A