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東大の日本史の問題で「憲政の常道」が終焉した要因
- 東大の日本史の問題で「憲政の常道」が終焉した要因を問う問題があります。
- 満州事変以後政党解消に至るまで、なぜ政党がその力を失っていったのか要因を述べよという問題です。
- 解答例には「軍部と官僚が手を組んで内外の危機に対応する新体制を作る動きが加速して、政党は影響力を失った」という一文があります。
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いわゆる「革新官僚」を差すものと思われます。 1920~30年代ではソ連、ドイツ、イタリアにおける全体主義の勃興とその計画・統制経済は世界恐慌で自由主義経済が混乱する中で、大きな発展を遂げていると認識されていました。 日本国内で同様の体制を実現しようとした官僚を「革新官僚」と呼びました。 そして当時は「第一次大戦の教訓から次の戦争は更なる大規模な国家総力戦となる」との認識から、欧米に比べて立ち後れていた国家総力戦体制の構築を望んだ軍部と協力したのです。 ただしこの動きは多くの国民の支持するところでもありました。 質問者様が引用されているとおり、当時の政党政治は不況や疑獄事件、中国における利権(「満蒙の特殊権益」と言われました)の保護などにおいて無力さを露呈すると共に「統帥権干犯問題」や「天皇機関説問題」などで見苦しい足の引っ張り合いを行い国民の信頼を自ら失っていきました。 また上述の「全体主義国家の成功」及び第一次大戦時欧州で導入された国家総力戦体制が社会保障の進展や労働者の権利、女性の社会進出などに大きく貢献した事から、革新官僚や軍部の動きは「財閥、寄生地主、腐敗した政党政治家などの既得権益層から国民の利益を取り戻す」ものとして好意的に受け止められ、政党政治は終焉を迎える事となります。
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- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B 岸信介を典型例として出せば 吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。 というように、計画経済を推進した。 不況への抜本的対策として、各国では、アメリカのニューディール、ソ連の五カ年計画、ドイツのアウトバーン建設など、計画経済による社会資本への積極的投資(国主体で)を行います。 それの日本版が岸などの行動/施策であり、国防体制を強化したい軍部と協力関係を構築します。
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回答ありがとうございました。解説は大変参考になりました。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E6%96%B0%E5%AE%98%E5%83%9A この場合の官僚とは、このへんの革新官僚のことを言っている。
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回答ありがとうございました。参考になりました。
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