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歴史の「IF」
「歴史にIFはない」とよくいわれます。私も、そう思っていましたが、ある歴史本を読んで、このことが、分からなくなりました。それで歴史に関心を持っておられる皆さんはどのように考えておられるか、質問してみました。 (1) 「歴史にIFを考えることは無意味である」 (2) 「歴史にIFを考えることは意味がある」 (3) その他 あなたは、上記(1)~(3)のどの考え方ですか?理由も含めて教えて下さい。 それと、「歴史にIFはない」という言葉は、「誰が言った言葉なのか」、あるいは「出典」など、知っておられる方は、教えていただければありがたいです。
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(3)です。 過去の事象を時系列に並べただけのものは歴史とは呼ばれません。 科学の世界で言うところの、実験や測定の結果得られた単なるデーターにすぎません。 このデーターから何を読み取るのかという点では科学も歴史も同じです。 科学と歴史が異なるのは、科学の世界であれば繰り返しということが可能です。 同じ実験や測定を何度も繰り返して、データーの正確さを検証できます。 或は色々条件を変えて結果を見ることもできます 歴史は常にたった1回のデーターが入手できるだけです。 条件を変えてみるということもできません。 考古学や民俗学と違うのは文献(文字史料)にのみ基づいた学問です。 言い換えれば文献(文字史料)のみが頼りの学問です。 文献(文字史料)というものは、あらゆるものが残っている訳ではありません。 全ての事象に対して、ポツリポツリと残っているだけです。 博物館などで、古い土器を再現したものを御覧になられたことがあるかと思いますが、あれと同じです。 恐らくこのような形であったろうと想定して、足りない部分を補って作り上げてあります。 土器の壺の全体の姿を想定する作業に相当するのが歴史のIFです。 この文献を書き残した人はおそらくこのように考えたのだろうと想定します。 あるいは、このような状況であったから、このように書いたのだろうと想定します。 では、違う状況や考え方を想定した場合には、このような文献が書かれただろうかと考えてみます。 このような作業を繰り返しで積み上げて出来上がったのが歴史と呼ばれるものです。 絶えずIFが繰り返されています。 新たに文献(文字史料)が見つかれば、全てが一からやり直し、ということもあります。 これを歴史の書き換えと呼びます。 研究を進める過程で、IFをどのような価値観で想定するかで出来上がった歴史は変わります。 現代の価値観で想定するのか、当時の価値観で想定するのかで変わります。 当時の価値観をどのように考えるかで変わってきます。 中国では、古代から王朝が変わる度に歴史書が作られました。 共通しているのは、現在の王朝が最も正当な王朝である、という前提条件で書かれています。 この前提条件を満たす為には、過去の事象の因果関係すなわち原因と結果の結び付けや解釈が変わってきます。 必要とあれば、文献(文字資料)の追加も削除も平気でやります。 このようにして残された歴史書を並べて、本当に起きたことは一体どれなのかということを判定するだけでも至難の業となります。 これは中国に限ったことではありません、何時の時代どこの国でも時の権力者を称讃したり罵倒したりします。 切れ切れに集めた資料のどれを優先するかで結果が変わります。 意味があるか、ないか、という問題ではないということです。 IFが必要な場合もあれば、不必要な場合もあります どのようなIFであれば適切か否かということもあります。 但し、歴史を学んだり楽しむ為にはIFは非常に役立ちます。 自分が立てたIFに基づいて考えたらどうなるか、という試みは非常に有益です。 IFの立て方を見ただけで、どの程度理解しているかが直ちに解ります。 学校の歴史の先生が時々生徒にやらせるのはこの為です。 >それと、「歴史にIFはない」という言葉は、「誰が言った言葉なのか」、あるいは「出典」など、知っておられる方は、教えていただければありがたいです。 寡聞にして知りません。 何かの論争の際に「おれが正しいから素人は黙っていろ」とでも言いたかったのではないのでしょうか? 巷間伝えられ続けているのは、歴史マニアにとっては共感するものがあるのでしょう。
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- rabbit_cat
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(2)無意味です。 #6さんに近いですが、歴史(過去)は現在から見れば一つしかありませんが、過去の時点に戻れば、(現在から未来をみたときと同じように)本当に色々な可能性があり得たわけです。 実際に実現した歴史は、その大量にあった可能性から「たまたま」選ばれたに過ぎないわけです。 ですから、まあたいていのifは「確かにその可能性もあった」にはなるでしょうね。一つ一つのif世界を考えれば、たいていそれなりの納得感もあるでしょう。 しかしながら、では、なぜ数あるif世界の中から、「その」if世界について考えるのか?なぜ、こっちのif世界は無視したのか? っていう疑問に答えることが一切できません。if世界と、別のif世界の間に、違いはまったくないわけで。 その点、現実の過去は、たまたま神様がサイコロを振ったにすぎないにせよ、「実際に起こった」という点で、if世界とは質的に違います。 まとめると、例え、どんなif世界を考えて、そのときどうなっただろうって考えたところで、「なるほど。その可能性も確かにありえた。」以外の評価はありえないです。どんな仮説に対しても全く同じ評価になることがやる前からわかってるんですから、やるだけ無駄です。
お礼
ご回答ありがとうございました。おかげさまで、大変参考になりました。 皆様のご回答を拝見させていただきながら、「歴史にIFはない」ということ自体、いろいろと解釈できそうな気がしてきました。No.7 のNebu3 さんも、三つの解釈を紹介してくれております。 後段で紹介いたしますが、そもそもの発端となった新書の記述も、「過去に起きた事実は変え様がない」という「イフ」ではないようです。 余談になりますが、私の高校三年生の時の担任の教師が「歴史」の教師でして、卒業アルバムの寄せ書きに「温故知新」と書いておりました。お恥ずかしい話ですが、昨年の10月頃から、日本史に関する参考書などを読み始めてから、はじめて、担任の教師が、何故「温故知新」という熟語を書いたのかをおぼろげながら知りました。 昨日の朝方、質問にある歴史本を読んでいて、「イフ」が目にとまり、「歴史に学ぶ」とは、どういうことだろう、「温故知新」とはどういうことだろうと、ふと考えてしまいました。 私も、これまでは、「歴史にイフはない」と考えておりました。ただもう、今更、歴史を学ぶような歳でもありませんし、歴史を教える立場でもありませんので、(1)歴史を楽しむのであれば「イフ」はあってもよいのではないか?(2)「温故知新」ということには、単に起こった事実からだけではなく、「イフ」によって「展開される仮想の?歴史」に学ぶということがあっても良いのではないか?(3)「歴史にイフはない」という固定観念にとらわれる必要はないのかな?と考えてしまい、皆さんはどのように考えているのだろうかと思い、質問した次第です。 まさに、「イフによって想像を膨らませることによって学べる歴史もあるかも知れないし、想像を膨らませること自体、人間の特技かも知れないなぁ」と考えているところです。 春が来て、花の季節を迎えるようになれば、また、「歴史」から、少し遠ざかるかも知れませんが、「イフ」を大切にしながら、「歴史」を楽しんでいきたいと考えています。ありがとうございました。 ついでながら、質問の中で紹介した歴史本から、その一節を紹介します。なお、著作権の問題もあるので、出典を明らかにしておきます。野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」中公新書です。 ………………………………………… いつの頃からか、「歴史にイフはない」というたわごとがまかり通っている。 世にはしたり顔でそう言う人々が多いが、この言葉はどこの誰が言い出したのか出所不明なのである。ヘロドトスもギボンもミシュレもそんなことを言っていない。おそらく通俗版経済決定論にもとづく«歴史的必然»論の裏返しとして発生した俗説である。歴史の流れにあって確実なのは、始発条件としての存在拘束性と不可逆性だけである。未来に向かってどういう流路をたどり、どういう形状の堆積を作るかはあらかた当事者の«自由裁量»に属する。歴史は大小の決断の連続であり、無数のイフの群が相互排除的にひしめき、最後にその一つが他のすべてを押し退けて場所を占める瞬間瞬間の持続である。 歴史はイフの連鎖で成り立っている。 ………………………………………… 私には、この文章は難解で、正直言うと、まだ意味が理解できておりません。どうも、この中の「イフ」と「過去に起きた事実は変え様がない」という意味での「歴史にイフはない」の「イフ」とは、意味合いが異なるような気もしております。
- Nebu3
- ベストアンサー率29% (114/386)
個人の考えで書かせていただける問いかけなので僕も一言。 (2)~(3)が僕の答えです。 「IFはない」とこのコーナーや歴史本で見かけますが、その 意味するところは3つあるようです。(1)「過去のことはやり 直せないから論ずるのは無意味。」(2)「その時代の出来事を、 現代人の視点で論ずるのは誤り。」(3)「歴史は必然の積み重ね」 でも僕はこう考えます。 (1) 将来の進路を誤らないためにも過去の過ちを学びそこから 学ぶこと。逆に良い点を学び活かしていくこともたいせつ. (2) 自然科学もそうですが、人類は思考の未熟さを気づきながら 一歩一歩確かな思考を積み上げてきたのです。現代到達した事 をわざわざ放棄して過去の思考をまるで正しいかのように論ずる のは子どもじみています。勿論、文学ではないのですから、時代 時代の人々の思考とその背景は客観的に知る努力は当然です。 (3) 現代社会の分析に統計学その他の科学的な手法を用いるのと 同じく歴史学も考古学を初めとする様々な手法で調査・分析・ 思考して成立します。単に昔の「偉人」の一部を恣意的にとりあげ 「昔話」物語にしては歴史学とは言えません。その意味で現代人は さまざま「IF」をしながら過去のできごとを検証し大ざっぱな必然 ではなくて自然科学的な必然に近づけるべきと思います。 ※ 昔から「IF」はないとの言葉を目にしますが残念ながら高名な 研究者の言葉ではないと思います。イメージする限りでは自分の 言いたいことを反論拒否するために出して居るように思えます。
お礼
ご回答ありがとうございました。おかげさまで、大変参考になりました。 皆様のご回答を拝見させていただきながら、「歴史にIFはない」ということ自体、いろいろと解釈できそうな気がしてきました。No.7 のNebu3 さんも、三つの解釈を紹介してくれております。 後段で紹介いたしますが、そもそもの発端となった新書の記述も、「過去に起きた事実は変え様がない」という「イフ」ではないようです。 余談になりますが、私の高校三年生の時の担任の教師が「歴史」の教師でして、卒業アルバムの寄せ書きに「温故知新」と書いておりました。お恥ずかしい話ですが、昨年の10月頃から、日本史に関する参考書などを読み始めてから、はじめて、担任の教師が、何故「温故知新」という熟語を書いたのかをおぼろげながら知りました。 昨日の朝方、質問にある歴史本を読んでいて、「イフ」が目にとまり、「歴史に学ぶ」とは、どういうことだろう、「温故知新」とはどういうことだろうと、ふと考えてしまいました。 私も、これまでは、「歴史にイフはない」と考えておりました。ただもう、今更、歴史を学ぶような歳でもありませんし、歴史を教える立場でもありませんので、(1)歴史を楽しむのであれば「イフ」はあってもよいのではないか?(2)「温故知新」ということには、単に起こった事実からだけではなく、「イフ」によって「展開される仮想の?歴史」に学ぶということがあっても良いのではないか?(3)「歴史にイフはない」という固定観念にとらわれる必要はないのかな?と考えてしまい、皆さんはどのように考えているのだろうかと思い、質問した次第です。 まさに、「イフによって想像を膨らませることによって学べる歴史もあるかも知れないし、想像を膨らませること自体、人間の特技かも知れないなぁ」と考えているところです。 春が来て、花の季節を迎えるようになれば、また、「歴史」から、少し遠ざかるかも知れませんが、「イフ」を大切にしながら、「歴史」を楽しんでいきたいと考えています。ありがとうございました。 ついでながら、質問の中で紹介した歴史本から、その一節を紹介します。なお、著作権の問題もあるので、出典を明らかにしておきます。野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」中公新書です。 ………………………………………… いつの頃からか、「歴史にイフはない」というたわごとがまかり通っている。 世にはしたり顔でそう言う人々が多いが、この言葉はどこの誰が言い出したのか出所不明なのである。ヘロドトスもギボンもミシュレもそんなことを言っていない。おそらく通俗版経済決定論にもとづく«歴史的必然»論の裏返しとして発生した俗説である。歴史の流れにあって確実なのは、始発条件としての存在拘束性と不可逆性だけである。未来に向かってどういう流路をたどり、どういう形状の堆積を作るかはあらかた当事者の«自由裁量»に属する。歴史は大小の決断の連続であり、無数のイフの群が相互排除的にひしめき、最後にその一つが他のすべてを押し退けて場所を占める瞬間瞬間の持続である。 歴史はイフの連鎖で成り立っている。 ………………………………………… 私には、この文章は難解で、正直言うと、まだ意味が理解できておりません。どうも、この中の「イフ」と「過去に起きた事実は変え様がない」という意味での「歴史にイフはない」の「イフ」とは、意味合いが異なるような気もしております。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
歴史にIFは「絶対に」ありません。 それは過去に起きた事実は変え様が無いという意味でです。 しかし考古学ではIFから始めなければ、何も始まりませんし、歴史学では無い、他の学問であれば、尚更でしょう。 つまり、歴史の事実を探る為や整合性を理解する為に、IFは必要不可欠です。 しかし無制限にIFを求めても、混乱に拍車が掛かるだけですので、捏造レベルは勘弁して欲しいです。 この文章の出典に関しては、結構、其処此処で質問がされていますが、どうも答えは見つかっていないようですね。 ひょっとしたら神代の時代からある言葉だったりするのかもしれませんね。
お礼
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- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
3. 趣味の歴史好きなので、意味があるとかないとかいう分類をすることが無意味だと思っています。だってさ、「あなたが歴史が好きなのは、あなたの人生において意味があることなのか」って聞かれたって返答に困りますでしょ。「人は意味のみにおいて生きるに非ず」って答える程度ですよ。 人生の愉しみとしてやることですから、本人が好きに楽しめばよいと思いますよ。ただ、「太平洋戦争、こうすれば勝てた」みたいなのはあんま意味ねえだろとは思いますけどね。
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- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”あなたは、上記(1)~(3)のどの考え方ですか?理由も含めて教えて下さい。” ↑ (2)です。 理由ですが、歴史をどう捉えるかによると思います。 未来に役立てる為に歴史がある、とするならIFを考える ことは有益であり、重要であると考えます。 ”「歴史にIFはない」という言葉は、「誰が言った言葉なのか」、 あるいは「出典」など、知っておられる方は、教えていただければありがたいです。” ↑ はっきりしませんが、E.H.カーの『歴史とは何か』 ではないでしょうか。
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- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
2 もし、「日本が大東亜戦争に突入しなかったら・・・」とか「併合に反対だった初代総理大臣の伊藤博文が、安重根に暗殺されず、結果として、李氏朝鮮(大韓帝国)が日本に併合されなかったら・・・」なんて、「ありえなかった未来」を想像してみると、過去の出来事に対して、別の視点からの評価ができるきっかけになると思います。
お礼
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- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
3 「人間のドラマ それが歴史だ」 という名言があります
お礼
ご回答ありがとうございました。おかげさまで、大変参考になりました。 皆様のご回答を拝見させていただきながら、「歴史にIFはない」ということ自体、いろいろと解釈できそうな気がしてきました。No.7 のNebu3 さんも、三つの解釈を紹介してくれております。 後段で紹介いたしますが、そもそもの発端となった新書の記述も、「過去に起きた事実は変え様がない」という「イフ」ではないようです。 余談になりますが、私の高校三年生の時の担任の教師が「歴史」の教師でして、卒業アルバムの寄せ書きに「温故知新」と書いておりました。お恥ずかしい話ですが、昨年の10月頃から、日本史に関する参考書などを読み始めてから、はじめて、担任の教師が、何故「温故知新」という熟語を書いたのかをおぼろげながら知りました。 昨日の朝方、質問にある歴史本を読んでいて、「イフ」が目にとまり、「歴史に学ぶ」とは、どういうことだろう、「温故知新」とはどういうことだろうと、ふと考えてしまいました。 私も、これまでは、「歴史にイフはない」と考えておりました。ただもう、今更、歴史を学ぶような歳でもありませんし、歴史を教える立場でもありませんので、(1)歴史を楽しむのであれば「イフ」はあってもよいのではないか?(2)「温故知新」ということには、単に起こった事実からだけではなく、「イフ」によって「展開される仮想の?歴史」に学ぶということがあっても良いのではないか?(3)「歴史にイフはない」という固定観念にとらわれる必要はないのかな?と考えてしまい、皆さんはどのように考えているのだろうかと思い、質問した次第です。 まさに、「イフによって想像を膨らませることによって学べる歴史もあるかも知れないし、想像を膨らませること自体、人間の特技かも知れないなぁ」と考えているところです。 春が来て、花の季節を迎えるようになれば、また、「歴史」から、少し遠ざかるかも知れませんが、「イフ」を大切にしながら、「歴史」を楽しんでいきたいと考えています。ありがとうございました。 ついでながら、質問の中で紹介した歴史本から、その一節を紹介します。なお、著作権の問題もあるので、出典を明らかにしておきます。野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」中公新書です。 ………………………………………… いつの頃からか、「歴史にイフはない」というたわごとがまかり通っている。 世にはしたり顔でそう言う人々が多いが、この言葉はどこの誰が言い出したのか出所不明なのである。ヘロドトスもギボンもミシュレもそんなことを言っていない。おそらく通俗版経済決定論にもとづく«歴史的必然»論の裏返しとして発生した俗説である。歴史の流れにあって確実なのは、始発条件としての存在拘束性と不可逆性だけである。未来に向かってどういう流路をたどり、どういう形状の堆積を作るかはあらかた当事者の«自由裁量»に属する。歴史は大小の決断の連続であり、無数のイフの群が相互排除的にひしめき、最後にその一つが他のすべてを押し退けて場所を占める瞬間瞬間の持続である。 歴史はイフの連鎖で成り立っている。 ………………………………………… 私には、この文章は難解で、正直言うと、まだ意味が理解できておりません。どうも、この中の「イフ」と「過去に起きた事実は変え様がない」という意味での「歴史にイフはない」の「イフ」とは、意味合いが異なるような気もしております。
お礼
ご回答ありがとうございました。おかげさまで、大変参考になりました。 皆様のご回答を拝見させていただきながら、「歴史にIFはない」ということ自体、いろいろと解釈できそうな気がしてきました。No.7 のNebu3 さんも、三つの解釈を紹介してくれております。 後段で紹介いたしますが、そもそもの発端となった新書の記述も、「過去に起きた事実は変え様がない」という「イフ」ではないようです。 余談になりますが、私の高校三年生の時の担任の教師が「歴史」の教師でして、卒業アルバムの寄せ書きに「温故知新」と書いておりました。お恥ずかしい話ですが、昨年の10月頃から、日本史に関する参考書などを読み始めてから、はじめて、担任の教師が、何故「温故知新」という熟語を書いたのかをおぼろげながら知りました。 昨日の朝方、質問にある歴史本を読んでいて、「イフ」が目にとまり、「歴史に学ぶ」とは、どういうことだろう、「温故知新」とはどういうことだろうと、ふと考えてしまいました。 私も、これまでは、「歴史にイフはない」と考えておりました。ただもう、今更、歴史を学ぶような歳でもありませんし、歴史を教える立場でもありませんので、(1)歴史を楽しむのであれば「イフ」はあってもよいのではないか?(2)「温故知新」ということには、単に起こった事実からだけではなく、「イフ」によって「展開される仮想の?歴史」に学ぶということがあっても良いのではないか?(3)「歴史にイフはない」という固定観念にとらわれる必要はないのかな?と考えてしまい、皆さんはどのように考えているのだろうかと思い、質問した次第です。 まさに、「イフによって想像を膨らませることによって学べる歴史もあるかも知れないし、想像を膨らませること自体、人間の特技かも知れないなぁ」と考えているところです。 春が来て、花の季節を迎えるようになれば、また、「歴史」から、少し遠ざかるかも知れませんが、「イフ」を大切にしながら、「歴史」を楽しんでいきたいと考えています。ありがとうございました。 ついでながら、質問の中で紹介した歴史本から、その一節を紹介します。なお、著作権の問題もあるので、出典を明らかにしておきます。野口武彦著「鳥羽伏見の戦い」中公新書です。 ………………………………………… いつの頃からか、「歴史にイフはない」というたわごとがまかり通っている。 世にはしたり顔でそう言う人々が多いが、この言葉はどこの誰が言い出したのか出所不明なのである。ヘロドトスもギボンもミシュレもそんなことを言っていない。おそらく通俗版経済決定論にもとづく«歴史的必然»論の裏返しとして発生した俗説である。歴史の流れにあって確実なのは、始発条件としての存在拘束性と不可逆性だけである。未来に向かってどういう流路をたどり、どういう形状の堆積を作るかはあらかた当事者の«自由裁量»に属する。歴史は大小の決断の連続であり、無数のイフの群が相互排除的にひしめき、最後にその一つが他のすべてを押し退けて場所を占める瞬間瞬間の持続である。 歴史はイフの連鎖で成り立っている。 ………………………………………… 私には、この文章は難解で、正直言うと、まだ意味が理解できておりません。どうも、この中の「イフ」と「過去に起きた事実は変え様がない」という意味での「歴史にイフはない」の「イフ」とは、意味合いが異なるような気もしております。