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今また比叡山を焼き払ったらどうなりますか?
日本史を勉強していて思ったのですが、かつて織田信長は比叡山を焼き、京の方角から見て丑寅の方角にある本能寺で自害においやられました。 ということは、今また比叡山を焼き払ったら、焼き払った本人は丑寅の方角で災いを受けますでしょうか? ここで疑問に思ったのですが、 疑問1.比叡山の一義は王城鎮護にあるのだから天皇が東に行った今この仮説は成り立たない のではないか。 疑問2.王城でなくても鎮護するという比叡山の意義は残っているで、この仮説はやはり成り立つ のではないのか。 疑問3.王城の東京の鎮護は現在はどこで誰がどう行っているのでしょうか? それとも廃止され たんでしょうか? 疑問4.実証も科学的な原因解明も不可能でしょうが、これは科学的な理由がやはりあるのと皆 さんは思いますか? 今の科学でわからないからといって人類の未来を否定することは不 可能ではないでしょうか? 科学とは今現在わかっていることに過ぎないので。言ってみれ ば超科学でしょうか。非科学ではなく。 疑問5.というか最初にこれのシステムを考えた昔の日本人て本当にすごいですね。いつ誰がど うやって考えたかとかって記録に残ってるのでしょうか?
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- TANUHACHI
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疑問7および8に関して 疑問7:比叡山の格が現在でも最高位であるのか、との質問ですが、仏教の僧位として衆僧に対するまとめ役として「座主(ざす)」と呼ばれる地位があります。日本中世史では一般に天台座主を指す用語とされていて、比叡山を代表する人物を指します。この地位は専ら皇族に連なる者が朝廷により任ぜられ、他にも醍醐寺座主なども知られています。この醍醐寺座主として知られる人物の一人に満済がおり、彼の日記は中世の社会経済史の史料として知られる『満済准后記』として知られています。 他にも金剛峯寺座主や法性寺座主もあり、これらは宗派の違いによってトップも異なるとの意味を表しています。 最澄が比叡山のみを与えられたのは、奈良時代の東大寺と同じイメージとお考えになってもさほどの問題はなく、位置付けからすれば「教典研究」のための機関としか認識されていなかったとも考えられ、他の真言や禅とは意味も異なります。真言の僧が比叡山で修行することは先ずありません。禅にしても同じです。比叡山に与えられた権限は東大寺と同様、戒律を授けるとの形式的作業であって、この戒律すらも最澄は空海から受けていることを灌頂歴名が証明してもいます。こうした点で比叡山で修行した者には、律令に則った形で「僧」を称することを許可されている(「公度僧:くどそう」)認定書を交付する程度の意味しかありません。 鎌倉そして室町期は禅の時代ともいえますから、日本の国教は禅であるとの考え方も成り立ち、それは五山制度との国家的バックアップを受けていることにも示されています。日蓮が比叡山で修行したのは、ただ単に見たい教典がそこにしかなかったからとの理由だけです。他の場所にあったなら他の場所に行ったはずです。比叡山に「絶大な権威」などはありもしません(逆に琵琶湖の湖上権などの経済的権益は持ってもいましたが)。法然も親鸞も戒律など受けることなく宗教活動を行ってもいたとの事実を見逃してはいけません。 疑問8:神社の格付けですが、これは律令格式に規定があります。国家の保護を受けた神社を「官社」と呼び、相当の経済的優遇措置もあります。これらを具体的に示す史料が平安期の『延喜式』に所収の「神名帳」であり「官社リスト」と呼ぶことができます。 ここに記されているのは2861社あり、これを式内社(しきないしゃ)と呼び、ここには記されていないもののリストから外れ居る神社を式外社(しきげしゃ)と呼んで識別しています。 古代の律令制社会では宗教も国家統制の下にありましたから、法的に根拠がないと活動することができません。こうした律令的政治システムを背景として中世の社格制度も成立しています。 武家社会の地方行政に携わる役人として守護・地頭がありますが、それと同時に国司も厳然として存在し、この国司が任国に着任すると共に任国内の神社を巡拝するとの規定があり、これを神拝と呼びます。国司が任国内で最初に神拝せねばならない神社を一宮(いちのみや)と呼び、任国内で最も有力な神社を指します。これは前出の延喜式に記載のある官社です。 そして全てを神拝する手間を省くため、国府の近くに設けた(任国内の神名を合祀した)神社を総社と呼びます。 近代の社格に関してお知りたければ、補足していただければお応え致します。
- rabirabi88
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まず、織田信長は比叡山を焼いていない。 信長は、比叡山延暦寺を攻めて僧兵と戦っただけです。 これは近年の発掘で、比叡山の焼け跡は信長の時代よりも前とわかっています。 信長の時代の焼け跡は僅かしか出土せず、人骨も出土していません。 よって、行っていない行為で、災いを受けたのならそれは、たんなる迷信です。
- TANUHACHI
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>京の方角から見て丑寅の方角にある本能寺 これおかしいですね。京都のどの方角から観て丑寅と言ったのでしょう。あるいは本能寺が丑寅の方角にある様に見えるならば、それを観ている人物は本能寺に対して南の方角から観ているはずになります。 それと比叡山は何の関係もありません。信長が比叡山を攻略したのは寺社権力としての比叡山に対する否定であり、信仰の内容や陰陽道などとは関係のない話です。 歴史にロマンを求めるいわゆる歴史マニアからすれば、この様な歴史学的見地からの書き込みはブーイングの対象となるはずですが、歴史マニアが犯す罪に比べたら害のないものです。 そして山城の国に都を移した地形的な理由として、都を囲む形で山や河などの自然的な地形があるとの状況を中国の四神思想との関係に着目する理解があります。東龍・白虎・朱雀・玄武といった聖獣や神々によって祝福された土地であるとの考え方です。 現実的には平安京の北部は比叡山の山並みが走り、南には今はありませんが巨椋池、東には鴨川そして西には淀川の流れがあり都に近づこうとすれば平坦な道は幾筋もありません。そこを重点的に固めれば警護を固めることもできます。 (1)および(2)の問題:「鎮護国家」との理解、これは奈良仏教ことに東大寺のそれを象徴する考えであり、平安期以後は王法仏法の考え方に移行してもいきます。むしろ寺家が一つの権力組織として確立されていく時期ともいえます。別に天皇が何処に行こうが関係のない話です。 平安末の平氏政権が兵庫の福原に遷都した時も比叡山は動きましたか。もし天皇を護持するとの意味ならば当然、場所を動かしもしたはずですね?。 比叡山を鎮護国家の象徴とするならば、一方の空海の宗派に対する説明も必要です。それがなされない以上は鎮護国家と比叡山と天皇の関係を説明することにはなりません。 (3)の問題:これは鎮護などの宗教的背景を持ち出す必要もありません。明治維新によって新たな政治システムの構築と海外に対して開かれている港湾施設を直近に有する東京を選択したわけですから、そこに古代の宗教思想を持ち込む必然性もありません。 むしろ問題となったのはかつて関東に対する祟り神として畏れられていた平将門伝説であり、それは現在の大手町にある将門の首塚そして神田明神をはじめとする幾つかの神社(これを地図上でつないでいくと北斗七星の形にもなる)に遺されてもいます。東京から見ての丑寅の方角ですから日光にある東照宮でしょうね。そこに祀られているのは祭神と化した東照大権現との話にもなります。 (4)の問題:方位と信仰を絡めた俗信の問題と科学が持つ検証性を同列に議論する話題はこの質問からは派生しないといえます。超科学や非科学といった感覚レベルで答を求めることは相応しくありません。 (5)の問題:もとより、中国の四神思想に土俗の信仰を加味した形ですので、学問的な意味などどこにもありません。もし幾何かの関心があるとすれば、それは民俗学の見地から検証されるべきでしょう。 大問:もし今現在に比叡山焼き討ちを行ったらどうなるか、との質問ですが、刑法の放火罪ならびに放火殺人罪として起訴され、場合によっては極刑を判決とされる可能性があります。 実際にインドではゴールデンテンプルを焼き討ちしたインディラ・ガンジーはシーク教徒によって暗殺されるとの報復もうけました。これは宗教対立に基づく行為ですので、信長VS比叡山の関係とは全く違う意味を持ちます。 信長はそれまでの全ての権威と権力を否定し新たな秩序作りを企図してもいましたから、宗教には宗教本来の活動があるだろうとして、有るべき形での宗教活動を行わない比叡山に対し実力行使の形で寺社権力を否定するとの選択をしただけの話です。鎮護国家の理念など彼にとっては何の関係もありません。
No.3・7です 再度お礼を記入して頂き有難うございます。 再質問を頂戴しましたので、説明させて頂きます 疑問6.NO.6さんの回答を見て思ったのですが、日本はいつから鎮護国家で、いつから鎮護国家でなくなり今は何国家と呼ぶのでしょうか? 鎮護国家の前は何国家と呼ぶのでしょうか? 「鎮護国家」という言葉そのものは仏教用語です。 言葉だけから言えば 741(天平13)年、聖武天皇が、国分寺造立の詔を発したのが制度としての鎮護国家の始まりと考えられます。 国分寺には「金光明最勝王経」「法華経」が奉納されました。 前者は、この経典を信じる王のもとには、仏教の守護神である四天王が現れて、国を護る、という教えであり、まさに鎮護国家思想を象徴するもです。 ここで、注意する必要がありますのが、神仏習合という日本独特の考え方です。 この考え方は平安時代に始まりました。 日本古来の神も仏教の仏も一体であるという考え方です。 この考え方が浸透した結果、江戸時代までは、寺院と社殿は同一の敷地内にありました。 僧侶が神官を兼ねている場合もありました。現在でもあります。 神社と寺院を分離した現在の姿は明治政府が強制的に行った結果の姿です。 江戸時代以前の事象を考える場合は、神社と寺院を分けて考えると誤解を生じてしまいます。 これは、神道に基づく考え方、これは仏教に基づく考え方と分離すると混乱が起きてしまいます。 疑問10も分離して考えられる必要はありません。鎮護すなわち住人の安寧を擁護する働きを示すものであれば神田神社であれ日光東照宮であれ一向に差支えはありません。 一々理屈を着けて分けるのは現代人の表層的な考え方です。 現在でも旧家へ行けば仏壇と神棚が一軒の屋敷内に祀られています。 どちらにも平等に朝晩お参りします。 仏に国を擁護してもらうという考え方と同じように、神によって国の安寧を維持してもらうという考え方は洋の東西を問わず古くからある考え方で、ある意味で人類共通の考え方です。 人智を超えた疫病や天災から身を守るためには、人智を超えた力に頼るという発想は普遍的なものです。 古代には、この人智を超えた力をもつもものを神とし、この神の代弁者としての力を持った者が社会を統治していました。 いわゆるシャーマンと呼ばれる人達です。 卑弥呼もシャーマンであったと考えられています。 卑弥呼に国を統治する力とともに擁護する力もあったとすれば、少なくてもこの時期から始っていたことになります。 身近なものとしては、鎮守様と呼ばれる神社が、その土地の住人の安寧を擁護する役割を果たしています。 この考え方を王城の地である京都に適用したのが桓武天皇です。 今でも各地に神社や寺院があって大切にされていますから、神仏によって擁護された国、すなわち鎮護国家だ、と言ってもあながち間違いではありません。 正教分離が徹底したのは第二次世界大戦後です。 それまでは、宗教と政治は不可分でした。 現代の感覚のままでは混乱しますので御注意願います このような点から言いますと、疑問7も7つのみではなく沢山ある、ということになります。 疑問8.疑問7の7つには格があり比叡山が今も昔もトップでしょうか? トップとはどのような基準で考えるのかで変わってきます。 一概には言えません。 信長が比叡山を焼き払ったには、当時比叡山延暦寺の僧侶が絶大な政治的権力を持つとともに、他の大名と同じように領地も持っていました。 領地を護衛する為に武力も保有していました。 信長から言わせれば仏教に名を借りた、単なる政治的武力集団に過ぎないということになります。 信長は比叡山だけではなく越前を支配下においた一向宗とも戦火を交えています。 疑問9.寺社の社格はどう決まるのでしょうか? そもそもなぜ格付けするようになったのでしょうか? 格付けというのは、その時代その時代によって変わります。 時の権力者が贔屓にすれば、最上格となります。 本来、神仏に上下はありません。 それぞれに役割があるだけです。 物事に格付けを必要とするのは娑婆の人間だけです。 自分達にとって都合が良いから格付けしています。 当事者が変われば格付けも変わります。 神社の場合には、勧請という考え方があって、本宮から新たな土地にも鎮座してもらうという考え方です。 現代流にいえば沢山のクローンが全国に鎮座しているというイメージです。 律令時代には、諸国にまず一つの神社を置き、本宮から遷座してきて頂き、次に他の神様にも遷座して頂くとやりました。 その順番で一之宮とか二宮と呼ばれています。 国守はこの順番に従って自分の領内を回って祭祀を行っていました。 祭祀も統治に不可欠な政治上重要な行動です。 これは面倒だということで、六つの神社を一か所に勧請して六所神社と名付けこの一か所にお参りするだけで済ませてしまうという横着なことが行われ、現在でも各地に六所神社とよばれる神社があります。 疑問11.寺、神社、宮、の3つの違いはなんなのでしょうか? 3つのほかに類似したものは何かありますでしょうか? 寺というのは、仏教に基づいて建てられた施設です。 神社、宮は神道に基づいて建てられた施設です。 単に「神宮」といえば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。 また「○○神宮」の社号を付されている神社には、皇祖(こうそ)をお祀りしている霧島神宮や鹿児島神宮、また天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。このほか、石上(いそのかみ)神宮や鹿島神宮・香取神宮など特定の神社に限られています。 神社は、宮の称号を持たないものを言います。 広義には宮も含めて神社と言います。 類似したものには修験道や禅に道場というものがあります。 疑問12.ほかの回答者さんからの答えでわかったのですが、邪気の正体は冷害とみてよいのでしょうか? 冷害以外にあるでしょうか? 疫病があります。 流行性の疾患は邪気がもたらすものと考えられていました。 江戸時代には現在のインフルエンザをお染風と呼びました 芝居のお染久松にかけて、戸口に「久松るす」と書いて貼って置けばインフレエンザがやってこない(かからない)とされていました。 江戸っ子の洒落の精神です。 >冷害以外にも寺社の鎮護は効果があるでしょうか? 仏教圏以外(や宇宙や異星)でも通用するでしょうか? 鎮護とは住人の安寧を擁護することですから、住人にとって不都合な外敵も含みます 日本の神仏は、キリスト教やイスラム教とは違い信徒を区別しません。 浅草の観音様も外国人の方がお参りされればその方の願いを聞き届けて下さいます。 日本に仏教が渡来したときにも、日本人は全く新しいものとは受け取りませんでした。 外国(とつくに)の客人(まれひと)神として迎えました。 キリスト教が伝来したときも同じ感覚でした。 敬虔なクリスチャンである遠藤周作は小説の中で神父に「この国の民が信じたのは、私が教えた神ではない」と嘆かせています。 聖母マリアもマリア観音として現在も引き継がれています。 日本人は元来、八百万神ですから、仏様だろうとキリストだろうと、なにやら一人二人増えたかなぐらいの感覚です。 宗教という言葉自体も明治になってから作られた言葉です。 唯一絶対神の信仰に基づいた「宗教」という言葉の定義とは元々ズレがあります。 要は信心です、信じるか信じないかだけです。 信じるのには、お釈迦様もキリストも天照大御神も同じです。 みんな仲良くそれぞれ信じます。
No.3です わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます >東京には複数の場所があるのでしょうか? それとも京都のほうも実は複数あったりしたのでしょうか? どちらも複数あります 東京の場合は 明治元年(1868)11月8日、明治政府は東京近郊12の神社を明治天王陛下のいらっしゃる皇城(今の皇居)を守護する「准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)」に定めました。 その後、明治3年(1870)9月1日に社格が変更され、それぞれの神社が東京府社や郷社とされました。 戦後、昭和50年(1975)、昭和天皇陛下の御即位50年を奉祝して、国家の隆昌と家運の繁栄を祈るため、東京都内10社を巡る「東京十社巡り」が企画されました。 准勅祭社12社とは、日枝神社、根津神社、芝大神宮、神田神社、白山神社、亀戸天神社、品川神社、富岡八幡宮、王子神社、赤坂氷川神社、大国魂神社、鷲宮神社です。 いずれの神社も現存していて、それぞれに祭礼がおこなわれています。 12社のなかでも神田神社は江戸時代に江戸総鎮守とされていました。 京都の場合は 桓武天皇が都を定めたときに、方位を鎮護する大将軍を東西南北のそれぞれに建てました。 現在は 東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。 西: 上京区の大将軍八神社。 北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。 南: 伏見区の藤森神社境内。 として受け継がれています。 またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っています。 大将軍というのは、陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一で、魔王天王とも呼ばれる大鬼神です。 ということで、最初のご質問である >今また比叡山を焼き払ったら、焼き払った本人は丑寅の方角で災いを受けますでしょうか? 江戸や京都の鎮守様の御加護があれば大過はないでしょう。 問題は「東京の鎮護」と言われた場合、東京の範囲と江戸の範囲をどのように考えるかで変わります。 東叡山寛永寺が作られた時や神田神社を江戸総鎮守と定めたときの江戸は隅田川よりも西の範囲でした。 隅田川の東は下総でした。 両国橋というのは、武蔵と下総の二つの国に架かる橋という意味です。 現在の東京の鬼門を鎮護して頂くとなると、江戸川の東側にある、柴又の経栄山題経寺、通称柴又帝釈天にお願いすることになるかと思います。 おなじみのふうてんの寅さんも、丑寅の寅です。 正倉院古文書正集(第二十一巻の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍 には、とら、さくら、という二人の人が住んでいたことが記されています。 ということで、帝釈天の御加護があれば、災いを避けることができるかと思います。 但し、現在の法律でしばらく塀の中暮らしを強いられるのは、浮世の義理ですからやむを得ないでしょう。
- あずき なな(@azuki-7)
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比叡山延暦寺は「鎮護国家の大道場」天皇すら恐れ敬う場所 しかし今の日本は鎮護国家ではありません なので比叡山を焼き討ちしたら厳重建造物放火の罪で逮捕されます
お礼
今の日本は鎮護国家ではなかったんですか? ご回答ありがとうございます。
- eroero1919
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1. 現在もすめらみことにおかれましては、関東に「行幸中」でございます。明治維新で江戸に向かうとき、京都の民に「行幸です。すぐ帰ってきます」といって出ていったのです。以来、まだ現在の皇居を「本籍地」にするとの発表はございませんので、現在もまだ行幸中です。 3. 寛永寺がまさにそうですが、他にも日光東照宮がその役割も担っています。江戸に関してもその辺りの霊的対策はバッチリで、プロデュースしたのはあの天海和尚です。荒俣宏先生がそういうのは大好きなので、荒俣先生の本にそのへんは書いてあるはずですよ。そういう意味では、江戸時代から対策がバッチリなされています。 4. 歴史好き、まあ専門家も含めても理系が苦手な人が多いので、文系同士が科学を語るとかえって非科学になってしまうことがあるのですが、科学的な態度というのは「仮説が成立する」ということです。 例えば、飛行機がなぜ飛ぶのか、それは完全には証明されていません。今の航空力学に基づくと、トンボや蝶々がなぜ飛べるのかの説明がつかないからです。だから飛行機は仮説で飛んでいると言えます。 もしそういうことを科学で説明しようと試みるならば、例えば夏至や冬至などの太陽の動きや、南北の磁気、地下水脈などに基づいた「仮説」を立てなければなりません。それが立たないなら、トンデモで終わりです。小保方さんが認められたのは、「生物学史を冒涜している」ほどの珍説を、実験で「仮説が成立することを証明した」からです。その態度に出られなければ、「信じよ」「いや信じない」というところからの話しになるので、それは科学ではなく宗教論争ですな。だから、「何が何だか分からないけど根拠があると思う」ではなく、「こういう理屈で根拠があるのではないか」といわなければなりません。 5. それは風水ですね。 元々は中国に紀元前からあった陰陽五行説に基づいた考え方です。火、水、木、金、土、がありこの五つが相互に関係しているという説です。それぞれを頂点にして線でつなぐと一筆書きの☆の形になります。そして、この文字に何か見覚えありませんか。これに月と太陽(日)を足すと・・・そうですね、月火水木金土日となります。つまり陰陽五行は実に身近にあるのです。 三国志は「黄巾の乱」から始まりますが、黄巾党が掲げたのが「蒼天すでに死す、黄夫まさに立つべし」という言葉です。この言葉も五行説に基づいているといわれ、蒼天(水)が漢王朝を表し、次は木の時代になるので木の象徴である黄色をシンボルカラーにしたのです。 そして前述の一筆書きの☆、つまり五芒星といえば、陰陽師安倍晴明の象徴ですね。晴明神社のシンボルがこの五芒星です。 んで、小話ばかりボロボロと書いたのですが概要がなかなか掴めないでしょ。そりゃそうで、このへんの荒俣先生大好きなやつは理論として体系化されてないのです。中国から来た陰陽五行説に日本流のアレンジが入って晴明先生の影響があって、なんかそんな感じでなんとなく伝わってきています。 ちょっと前に陰陽師ブームがあって自称安倍晴明の末裔と名乗る人たちがボコボコ出てきて分かったようなことを言って、いつの間にやら「パワースポット」なるものが市民権を得てしまいましたが、あんなん適当にみんな「パワースポット」と呼んでるだけです。基準の決まりがないから「俺んちはパワースポットだ」と主張しても間違いではないのです。 それみたいなものなので、つまり基準となる根拠がいかにも日本らしく極めて曖昧なので、科学(仮説)が成立しようがないというのはあると思いますよ。ま、オカルトはオカルトらしく禁断の心霊スポット的に楽しめばいいと思います。
お礼
1は目から鱗でした。昔と今の京都鎮護は比叡山、昔と今の東京鎮護は寛永寺でしょうか? 王城であるか否かに関わらず今の京都と昔の江戸を鎮護していたのでしょうか? 思ったのですが山で坊さんが祈祷したところで科学的に恩恵があるといえるのでしょうか? 3は書籍をご紹介下さりありがとうございます。4の方も著者の方でしょうか? 4については丑寅の邪気の根拠は冷害というのが理屈ではないか、と答えればよいのでしょうか? もっとも仮説を立てられても答え合わせはかないませんが。5については、風水ってかなり身近にあったんですね。まさか三国志中の後漢王朝滅亡の引き金の黄巾党の乱が風水にもとづいて考えられていたとはまったくもって目から鱗でした。蒼天が水で木が黄色とかって風水学を学ぶとわかる事柄なのでしょうか? 今まで調べたことはほぼ皆無でしたので。あと5の出でくる方も著者でしょうか?
- kamobedanjoh
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時の権力者、信長の命により光秀が焼き、殺しました。 世間一般はその残虐振り、傍若無人の振る舞いには嫌悪の情を隠せなかったと。 今時の権力者がやらかしたら、安倍政権も自民党も公明党も、たちまち命脈尽きることは明らかです。 とは言え、やらかす理由も必要も無いので、政治生命も身体生命までもかけてやる訳ありませんね。 どんな風に歴史を学んで居られるのやら。 1.叡山は大名と同等の領地(寺領)権力を持ち、屡々強訴によって自らの主張を押し通してきました。そのやり方が信長の「天下布武」に逆らうもので有ったため、彼の逆鱗に触れたのです。方角の問題は無関係。 2.江戸の護りは東叡山寛永寺。江戸時代は過ぎ去った過去のことなので関係なし。 3.候補としては筑波山辺りを上げたいが、東京になってからは神道主流なので、強いて言えば明治神宮かな? 4.超非科学的ですね。 5.いつの時代か小生の知識には無いが、古代中国からの輸入文化です。
お礼
輸入文化ですか。ありがとうございます。
疑問1.比叡山の一義は王城鎮護にあるのだから天皇が東に行った今この仮説は成り立たないのではないか 疑問2.王城でなくても鎮護するという比叡山の意義は残っているで、この仮説はやはり成り立つのではないのか。 疑問3.王城の東京の鎮護は現在はどこで誰がどう行っているのでしょうか? それとも廃止されたんでしょうか。 江戸には東の比叡山である東叡山寛永寺があります。 規模は縮小していますが、現在もあります 疑問4.実証も科学的な原因解明も不可能でしょうが、これは科学的な理由がやはりあるのと皆さんは思いますか? 間接的には根拠があります。 中国大陸も日本列島も北東の風は冷害をもたらします。 オホーツク海やベーリング海は低気圧の墓場と呼ばれます。 寒流の発祥海域でもあります。 冷夏になればこれ等の影響がもろに農作物に被害を与えます。 宮沢賢治が「寒さの夏におろおろ歩き」と詠ったのはこのことです。 すなわち丑寅の方角からは邪気がやってくることになります。 現在でも「ヤマセ」と呼ばれておそれられています。 江戸では「シモセ」と呼びます。 疑問5.というか最初にこれのシステムを考えた昔の日本人て本当にすごいですね。いつ誰がどうやって考えたかとかって記録に残ってるのでしょうか? 日本人が考え出したシステムではありません。 古代中国の農民の生活の知恵を集約して理論建てした陰陽五行説に基づくものです。 仏教渡来以前の513年に、百済から五経博士と呼ばれる人達が来朝して暦として伝えました。 >今の科学でわからないからといって人類の未来を否定することは不可能ではないでしょうか? 科学とは今現在わかっていることに過ぎないので。言ってみれば超科学でしょうか。非科学ではなく。 ノーベル賞を受賞された科学者の方々は異口同音に「やればやるほど解らなくなる」と言われおられます。 あまり御心配する必要はないでしょう。 科学でなんでも解っていると思っているのは素人だけです。
お礼
寛永寺が東の比叡山であり、邪気の根拠が冷害だとは知りませんでした。築波山や明治神宮をNO.4の方があげておられますが関係なしでよいでしょうか? no.5の方が言うように日光東照宮とかも王城鎮護を担っており、東京には複数の場所があるのでしょうか? それとも京都のほうも実は複数あったりしたのでしょうか? たとえば戦災で現存してないものとかも入れれば?
- kusirosi
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・今また比叡山を焼き払ったら、焼き払った本人は丑寅の方角で災いを受けますでしょうか? それは何とも言えませんが ・今また比叡山を焼き払ったらどうなりますか? 刑法 (現住建造物等放火罪) 第108条放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、 死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。 により、質問者様は おそらく死刑です。\(^^;)...マァマァ ※放火だけで死刑にならないとは言われるが、近年 量刑が厳罰化しており、 国民感情から、死刑と裁判員は認定しかねない。 過去の例 金閣寺放火犯は、懲役7年確定したが、 服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院した後、 残り刑期一年余で、病死した。
お礼
私がもくろんでいるわけではありません。法律的解釈まで述べて下さり目から鱗でした。ありがとうございます。
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お礼
疑問6.NO.6さんの回答を見て思ったのですが、日本はいつから鎮護国家で、いつから鎮護国家でな くなり今は何国家と呼ぶのでしょうか? 鎮護国家の前は何国家と呼ぶのでしょうか? 疑問7.京都鎮護は桓武天皇の時の6つと比叡山で7つのみでよいのでしょうか? 疑問8.疑問7の7つには格があり比叡山が今も昔もトップでしょうか? だから格の大きい比叡山を焼 いた影響は大きかったので信長にかかった(と仮定する)邪気も大きかったのでしょうか? 疑問9.寺社の社格はどう決まるのでしょうか? そもそもなぜ格付けするようになったのでしょう か? 平清盛と厳島神社のように権力者に信仰されるようになったり、円珍、円仁のよう な名僧がいたりして権力者に強訴できるほどの政治影響力をもったりすると格が上がるのでし ょうか? 天皇の行幸や王城の遷都で鎮護してもらう寺社がかわったり、政権が政争で移った り、織田信長と比叡山のように権力者と敵対したりして、平氏や天皇のような時の権力者の信 仰を失ったりすると格が下がったり無くなったりするのでしょうか? 疑問10.鎮護してもらうのは寺でなく神田神社のような神社や日光東照宮のような宮でもいいのでし ょうか? これは最澄時代の僧の地位のように国家資格と呼んでいいのでしょうか? 決める のは政府の人間や天皇でしょうか? 安岡正篤のような陽明学者やあるいは風水に携わる人間 でしょうか? 疑問11.寺、神社、宮、の3つの違いはなんなのでしょうか? 3つのほかに類似したものは何かあり ますでしょうか? 疑問12.ほかの回答者さんからの答えでわかったのですが、邪気の正体は冷害とみてよいのでしょう か? 冷害以外にあるでしょうか? 冷害がない場所では戦災や政争、疫病、天変地異などで しょうか? 冷害以外にも寺社の鎮護は効果があるでしょうか? 仏教圏以外(や宇宙や異星) でも通用するでしょうか? 最後の問題は私見でしか答えられない問題と思いますが、もし気が向いたらお願いします。