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江戸時代の書状。「殿」と「様」の使い分けについて
- 江戸時代の書状での「殿」と「様」の使い分けについて調査しました。
- 大名が老中に出した書状には、○殿としている例が複数あります。
- 「殿」「様」の使い分けには厳密なルールはなく、例外があることが分かりました。
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再度、失礼致しますm(_"_)m 宗家と伊達家だけでは、偏りもありますので、 家格・官位・伺候席などの差異を求め、 WEB上で他家の養子願等の宛所「様付」にアプローチを試みていますが、 私には荷が重く、なかなか纏まった文書類には巡り会えず、 残念ながら現時点では下記程度に過ぎません。 〇上田城と仙石氏史料アーカイブズ 政明の養子縁組願/貞享元年(1684)5月9日/幕府老中宛仙石政明養子縁組願書(案) http://museum.umic.ueda.nagano.jp/hakubutsukan/story/sengoku/cont_sengoku/doc_sengoku/096.html そんな中、「挨拶状」ではありますが、下記に出会しました。 「仙台藩主から朝廷・公家・幕閣や主要役人に挨拶状を出す際の例文集。」 再び、既に御存知なら笑って許して下さいm(_"_)m ・東京大学史料編纂所>編纂・研究・公開>所報> 『東京大学史料編纂所報』第29号(1994年)p.66 http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/29/saiho_NAGOYA~1.HTM 〔武家羽林格〕一冊 141・4 仙台藩主から朝廷・公家・幕閣や主要役人に挨拶状を出す際の例文集。 奥書には、右一秩者久保金左衛門橘正貞為仙台少将之綴之、然而予与之後又親炙、 而令目録於追加改焉畢、以往卒に莫伝之人云、恭、 正徳三巳年仲春祥辰 大橋小伝次 とある。 宛所により一格~九格(実際は一五)に分け、さらにその中でも脇付を細分している。 □禁裏、院中、公方、仙洞、本院御所、新院御所 飛鳥井前大納言、正親町前大納言は、参人々御中 酒井雅楽頭、阿部豊州は人々御中 稲葉美濃守、久世大和守、土屋但馬守は、人々御中・貴報 なお、1は様付で、2以下は殿付である。 ※上記□が1のようで、2~15の□は、 必要に応じ原本画像にて御確認いただければ思います。 以上 現状報告まで
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- dayone
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続きまして 諸事情により分割投稿御容赦下さいm(_"_)m 老中側「奉書(殿)・書状(様)」の書き分けは、例えば下記でも確認出来ます。 ・対馬宗家文書の世界 http://www.kyuhaku-db.jp/souke/database/public/ >通常検索へ http://www.kyuhaku-db.jp/souke/database/public/keyword/ 全体検索(例えばキーワード)「養子」<+表示件数「100件」>で72件ヒット (※デフォルトの表示件数20件のままでは、最初の1頁目は閲覧出来ますが、 次頁に進めない不具合がるようですから、事前に「100件」に変更の必要があります※) 72件中4件ではありますが、「老中書状→宗対馬守様」が裏付けられます。 ・023080401/・032031701/・134040401/・134041701/ また72件中3件ではありますが、「養子願→(宛所)殿」の例もあります。 ・134011401/・134011501/・134011601/ 対馬藩だけでは心許ないので、仙台藩を少し調べてみますと、 ほぼ対馬藩と同様の傾向が伺われます。 ・『大日本古文書.家わけ 三ノ八/東京帝国大学文学部史料編纂所編/1912.3』 「伊達家文書之八」 ○2800/(年未詳)十一月七日/堀田正亮書状 堀田(正亮)相模守→松平陸奥守様 <54/363>(78・79頁) ○2801/(年未詳)十一月十九日/伊達重村書状案 松平陸奥守→堀田相模守様 <54・55/363>(79・80頁) ○2802/寶暦十二(※1762)年四月廿二日/伊達重村假養子願書 松平陸奥守重村→酒井左衛門尉(忠寄)殿・松平右近將監(武元)殿 <55~58/363>(80~81頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908889/55 ○2803/(寶暦十三年)五月二十五日/假養子願書ノ返附 酒井左衛門尉→松平陸奥守様 <59/363>(82・83頁) 〇2806/明和元(※1764)年四月廿九日/伊達重村假養子願書控 松平陸奥守→酒井左衛門尉殿・松平右近將監殿・松平右京大夫殿・松平周防守(康福)殿 <60/363>(84・85頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908889/60 〇2853/安永三(※1774)年四月廿七日/伊達重村假養子願書控 松平陸奥守→松平右近將監(武元)殿・松平右京大夫(輝高)殿・松平周防守(康福)殿・ 板倉佐渡守(勝清)殿・田沼主殿頭(意次)殿 <106/363>(170・171頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908889/106 上記だけで即断は禁物ですが、老中側から大名への広い意味での公用の文書発給において、 「殿」文字の書体、書止文言などによる優劣・重軽の使い分けが出来るにもかかわらず、 「様」文字が導入されたことは、単に敬意の優劣だけでは計れないのは確かなようです。 仮に、奉書の権威をより高めるためと考えても、奉書より軽いはずの事務連絡的な書状に、 より敬意があるはずの「様」の使用では何とも説明し辛いネジレ現象となりますから、 受取人側にその文書の重軽度合が一目で分かる為の配慮と考えるのが素直かと思います。 さて、肝心の大名側から老中などへの文書となりますと、 前記『古事類苑』「文學部六 書簡文」全体を一読した限りでは、 「殿」「様」の書き分け規定・制約等は見当たらず、 また少し的外れではありますが、『徳川禁令考』巻14~巻19等を見渡しても、 精々『徳川禁令考.巻19/司法省/明15.8』 「徳川禁令考 巻十九/法制禁令之部 武家 幕府 法度/ 第二十二章 宰職長官及諸曹勤方條目之六 役人総則之下 第七則 呈書文格」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/786985/21 <20・21/68>(18ウラ~20オモテ) 寛政二庚戌年正月十一日 越中守書取(引書○憲法類集)の中に 近來應對并書面文通等格別ニ崇敬致候様相成候 右躰者其程々ニ随ひ候儀ニ可有之処處格別ニ而者 却而不敬ニも至候…(以下省略)… などと役人などの老中に対する過剰な文言使用等を戒める程度しか見当たりません。 WEB上の限られた断片情報に過ぎませんから、断定は出来ませんが、 徳川幕府側が奉書・書状などの文書の書き分けを行っていたのに対し、 大名側では幕府からの規定・制約等を受けず、少々のことでは咎められなかった結果、 鎌倉・室町時代以来の武家の書札礼を知る戦国以来の大名家等では、 公用には先例を重んじて「殿」を使い、またそれを知ってか知らずか藩によっては より敬意を込めたかったのか「様」を選択した結果、 (このあたりは平成の「殿→様」現象と同様なのかも)混用が生じたとものかと… そのため、実例が多い方が正で少ない方が誤とか、どちらかが例外とかは言い難く、 ただ例えば文書の本文中に「公方様」の記述を必要とされる場面などを考慮・想定すれば、 私ド素人の私見では、老中への私信で無い限りは組織の一員である老中への宛書きは 「殿」の方が無難であったかと思います。 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
ご回答ありがとうございます。 すっきりしました。 質問の要点は、江戸時代の公文書、とりわけ大名が老中に出す書状において、宛名(老中)に付ける敬称が「殿」では非礼になるのではないか、というものです。 私は単純に、「様」の方が「殿」より敬意が高いと思っていましたから、老中宛の「養子願い」で老中に「殿」付けを見てびっくりしたわけです。 「対馬宗家文書の世界」は、このようなデータを探していましたので、大変参考になりました。 ある特定の大名が出した手紙をできるだけ多く調べてみないことには、「殿」と「様」をどのように使い分けしていたのか分かりません。 ところが、受け取った手紙は多数残っているでしょうが、出した手紙は相手の方に残るわけですから、調べることは困難です。 しかし、「対馬宗家文書の世界」で調べることができました。 「対馬宗家文書の世界」で「差出・作成」を宗対馬守として検索しますと22件ヒットします。 宛所の敬称は、殿10、様6、宛所記載なし3、記載あるも不明3 です。 様6件は全て書状で、年頭の祝意や暑中見舞いの返礼などの私信です。 殿10件のうち、5件は老中への願書、5件は郷村帳です。 わずか22件にすぎないですが、公文書は「殿」、私信は「様」と使い分けています。 「対馬宗家文書の世界」で宗対馬守が受け取った「書状」で検索しますと、247件ヒットします。 初めの100件だけ見ましたが、発信者が老中、京都所司代、大坂城代、大目付などの役職、また他藩の大名には関わらず、さらに内容が公的・私的に関わらず、全て「様」です。 「書状」ではなく、「老中奉書」で検索すると全て宛所の敬称は「殿」です。 また、「養子願い」について他藩の例をネット検索で調べてみましたが、全て「殿」でした。 さて、老中への願書で“殿”は非礼ではないかという私の質問の答えですが、「非礼ではない」ということが分かりました。 むしろ、幕府への「願書」類は、「殿」で定型化されている、と断言できそうです。 また、断言できませんが、幕府と大名・旗本間、あるいは大名間同士の書状では、宛名の敬称には、「殿」も「様」も使用されているが圧倒的に「様」が多い、と言えそうです。 #8のご回答はまだ読んでいませんが、今のところお陰さまでここまで辿りつけました。
- dayone
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既回答者の皆様方と重複部分する箇所も多々ありますが、御容赦下さいm(_"_)m <雑誌『国語学』全文データベース -簡易検索-> http://db3.ninjal.ac.jp/SJL/search.html ・「「おまへ」「あなた」の発生は待遇表現体系にどんな影響を与えたか/山崎久之」 『国語学 第四十五集/1961年(昭和三十六年六月三十日)』(1-14頁) http://db3.ninjal.ac.jp/SJL/getpdf.php?number=0450010140 <3/14> (A)室町時代末期(男性語)/代名詞(接尾語)/ 第一段階(大敬語)こなた様/第二段階(普通敬語)そなた(殿)/… <9/14> …接尾辞は、室町末も前期も不変であって、(一)様、(二)殿、(三)(四)呼捨であった。 当期の一般庶民語でさえ、大綱としては不変で、わずかに「殿」が「どん」に、 「様」が「さん」になり、「どの」は庶民語二人称ではすたれていったに過ぎない。… ・「ジョアン・ロドリゲス『日本大文典』の待遇表現/松岡洸司」 『上智大学国文学論集 36/2003-01-11』(1-20頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110000187107 第一章 待遇表現 <4/20> …第二巻の「会話に於ける尊敬及び丁寧の助辞について」には、 尊敬の助辞は名詞に接続するものである。 御<ぎょ>・御<ご>は「こゑ(※中国語由来)」、 「御<おん>・御<お>・御<み>」は「よみ(※日本固有)」、 さらに「様<さま>・上<うえ>・殿<どの>・殿<との>」はよみ、… …「様」は、「屋形様・殿様・伴天連様」など。「上」は「上様・母上・御上」など。 「殿<どの>は「有馬殿・筑後殿・左兵衛殿・貴殿」、 「殿<との>」は「二人の殿・両殿」があげられている。… 「<9/20>第二章 書き言葉の待遇表現の「型」」では、 「様」「殿」の位置付けが明確ではありませんが、 手持ちの『大野晋の日本語相談/大野晋/朝日文庫/1995.11.1』の中の 「「殿」と「様」にはどんな違いが?」(57~60頁)によりますと、 …『日本大文典』(ロドリゲス著、1604~08年、長崎学林刊、邦訳土井忠生)には 手紙の言葉づかいについて、八十頁にもわたって詳しい記述があります。 室町時代の末頃の様子がそれでかなりよく分かります。… …まず手紙の書き方について、しっかりした楷書で書いたものは行書よりも敬意が高く、 草書で書いたものは敬意が劣るとあります。… …「手紙の上書<うわがき>とか、中身の末尾に、手紙の送り先を書きときは、 まず相手の名字(みょうじ)と、その人の官職名を書く。 その後に必ず『殿<どの>』と書く。もっとも今では『様<さま>』と書くようになった」 とありますから、「様」は新しい使い方だったことがわかります。 以上から、室町時代には、「話し言葉」では「様・殿」ともに使われ、 「様」の方が「殿」よりも敬意が大きいとされる一方で、 「書き言葉」では必ず「殿」が使われていたところ、 室町末期・江戸初期には「様」が新しい使い方として登場した状況が伺えます。 なお、過去には下記のような考え方も存在したようです。 『続史籍集覧.第2冊/近藤瓶城編/近藤出版部/1930.2』 「式目抄(貞永式目諺解)」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920236/19 <19/318>(31頁) …右大将家ハ頼朝ノ御事也家ハ公卿ノ美稱也惣[シテ]ハ家ト云モ殿ト云モ 同心也御殿ト云時ハ家ノ心也ナニ寺ナニ院ナニ房トカクモ殿トカクト 同シ去程ニナニ院殿ナニ寺殿トハカヽサル也 武家ノ書状ニナニ殿トカイテ御宿所トカクハイヤカキナレトモシ習ハシタル事 ナレハ是非ニ及ハス當時ナラハ右大臣殿様ナトカクヘキ歟 舊ハ物ヲ分別[シテ]カケリ此巻ノ内ニ様ト云字ハ一處モナシ 様ト云ハ賤キ者ノ口ヨリ云習ハセリ人ヲ敬テ様ト云事ナシ モシ敬字ナラハ天子ニ付ヘキカ天子ニ様ト云事ナシ 私様トモ云ヘシ尊敬ノ字ニハアラザル(ヘシ)… 上記を踏まえ、武家の「書札礼」を少し調べてみますと、 鎌倉・室町時代の書名などは多く散見されますが、 肝心の江戸時代の情報は上手く探し出せません(><) そこで先ずは室町時代でもやや後で成立した書札礼『宗五大艸紙』に当たってみますと、 ・『群書類従:新校. 第十八巻/内外書籍株式会社編/内外書籍/1932.7(昭和7年)』 解題 宗五大艸紙 一卷 伊勢貞賴 ※大永八(1528)年成立※ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879799/14 「新校羣書類従 卷四百十三 武家部十四 宗五大艸紙」<67~100/427>(77~142頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879799/89 <89/427>(120頁上段) 一 殿文字(に)其品あり。[※1]賞翫。[※2]同。[※3]等輩。[※4]「下様へ是を書なり」(下輩)。 [※5]此殿を書きたるハ、かなにどのと書たるよりハ、少賞翫。 又かなにてどのと書たるハ、かかざるほどの事也と云々。 「殿」文字の書体に対する優劣は大永八(1528)年頃には既に存在したようです。 なお『宗五大艸紙』では、事細かい書札礼が記述されているものの、 「様」には触れられていませんので、『日本大文典/ロドリゲス』の記述とも合致します。 『古事類苑』を覗いてみますと、 ・『古事類苑.文学部3/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』 「文學部六 書簡文」の中で目につくのは、 <56/70>(463頁)〔近小牘禮 一〕様之事 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897780/56 『近小牘禮』は遅くとも天和二(1682)年には成立していたようですから、 室町時代末頃から天和二(1682)年頃までの間には、 「書き言葉」としての「殿」「様」の混用が進んだのは確かなようです。 ただ、『古事類苑』「文學部六 書簡文」でも、事細かい書簡の決まり事や 「書き言葉」としての「様」文字の初期例などの情報はあるものの、 一部に個人間の私信に「様」の使われた用例はありますが、 肝心の「殿」「様」の使い分けについては言及されていません。 前置きが長くなりましたが、そんな中、下記論文に出会しました。 〇「明治維新における公文書書体の転換とそのメカニズム ─視覚メディアとしての公文書書体─/青山由起子/2005-12」 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_D1003624 下記論文と重複する箇所もあり、全ては読んでいませんが、<19~24/199>などから、 徳川幕府は室町幕府の書札礼を踏襲していたのは間違いないようです。 あと、下記では老中側ではありますが「殿」「様」の使い分けについて言及されています。 〇「江戸時代における「御家流」と「唐様」─書体というメディアの情報伝達/青山由起子」 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81002817 <6/12> 2.江戸時代の社会における「御家流」と「唐様」の役割 …江戸幕府における公文書には、老中奉書がある。… …高木昭作は『江戸幕府の制度と伝達文書』において、 老中奉書が書状をベースにして成立したこと、 老中制度の成立が奉書のあり方にも影響を与えたことを指摘し、 同時期の奉書と書状における様式と文体について、その類似と差異を検証している。 例えば、老中が制度として成立した時期の、差出人・宛所(あてどころ)・日付・趣旨が 同一でありながら、一方は奉書、もう一方は書状という二通の文書を比較し、 当時の人々がどのように老中奉書と書状を書き分け、また区別していたかを明らかにする。 その二通とは対馬の大名宗氏の当主義成(1604~1656)に対して 幕府の指示を伝達したものである。 この二通には、文末の書止(かきとめ)が「恐々謹厳」か「恐惶謹厳」か、 宛名が殿付きか様付きか、さらに脇付の有無、本文冒頭の前置きの挨拶の有無、 「尚々書(なおなおがき)」の有無などの相違があり、 また将軍の意向を伝達する表現においても微妙に敬語を変化させていることから、 老中が一方は奉書、他方は書状の形式に区別して書き分けられていると述べている。… 以下 諸事情によりまして分割投稿御容赦下さいm(_"_)m
お礼
丁寧なご回答ありがとうございます。 要点をピックアップしてみます。 (1)『大野晋の日本語相談/大野晋/朝日文庫/1995.11.1』の中の 「「殿」と「様」にはどんな違いが?」(57~60頁)によると 室町時代には、「話し言葉」では「様・殿」ともに使われ、 「様」の方が「殿」よりも敬意が大きいとされる一方で、 「書き言葉」では必ず「殿」が使われていたところ、 室町末期・江戸初期には「様」が新しい使い方として登場した状況が伺えます。 (2)『近小牘禮』は遅くとも天和二(1682)年には成立していたようですから、 室町時代末頃から天和二(1682)年頃までの間には、 「書き言葉」としての「殿」「様」の混用が進んだのは確かなようです。 ただ、『古事類苑』「文學部六 書簡文」でも、事細かい書簡の決まり事や 「書き言葉」としての「様」文字の初期例などの情報はあるものの、 一部に個人間の私信に「様」の使われた用例はありますが、 肝心の「殿」「様」の使い分けについては言及されていません。 (3)「江戸時代における「御家流」と「唐様」─書体というメディアの情報伝達」 この論文は、質問する前に読んでいたのですが、深読みしませんでした。 「老中が一方は奉書、他方は書状の形式に区別して」いたのですね。 続きは今から読ませていただきます。
- 60818
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http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/mondai_06/pdf/sanko_2.pdf 将軍から下される手紙はひらがなで「とのへ」 老中からは漢字とひらがなで差別。 ひらがなで見下された大名からは様で返すのでは? 基本は殿だが公私混同、根回しの手紙が様でたくさん残っているのでは? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E4%B8%AD%E5%A5%89%E6%9B%B8
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 >基本は殿だが公私混同、根回しの手紙が様でたくさん残っているのでは? そうですね。 ネットで知る情報は、偏ってしまう虞がありますね。
- 60818
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http://allabout.co.jp/gm/gc/395389/ ・役職に宛てる公文書ですから、殿が正解。(私文書ではない) ・当時も公文書は上様、殿様以外はすべて殿という様式だったのでは? (将軍以下の直参は対等の立場では?小大名でも官位が高い人もいます。上様が見る文章に家老が様で書かれていたら、不遜では?) http://www.ninjal.ac.jp/publication/catalogue/kokken_mado/15/04/ 最近の役所は様に変更したみたいです。 https://www.city.katsushika.lg.jp/keikaku/reiki_int/reiki_honbun/g1230119001.html
お礼
ご回答ありがとうございます。 「殿が正解」とすれば、老中に出す書状は「様」の方が多いですから、また新しい疑問が出てきます。 老中が出す奉書などの公文書は、全て宛先の敬称は「殿」で一貫していると思います。 また、大名が家臣・家来に出す書状も「殿」または「との」で一貫していると思います。
- mm058114
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全然分からないけど、 同格、目下が殿 目上が様 今でも変わらないのでは?
お礼
ご回答ありがとうございます。 私も、そのように思います。
- kine-ore
- ベストアンサー率54% (808/1481)
敬称「殿」の書体は楷書で書かれた極上の「殿」から、さらに書体は七種類(「でんどの」「宰相どの」「ふたつかけ」「ひとつかけ」「ぐるどの」「ばんどの」「仮名どの」)に使い分けらていたようです。 そして、公的な性格の文書においては、次の書籍に記されているように「殿」で定められていた経緯があったようです。 横井時冬「消息文変遷 : 一名・かりのゆくへ」金港堂(明27.3) 「奥祐筆山下氏口演筆記」(123頁/コマ番号80) 「一、すべて様字ばかりといふにあらす、役義に関し、役人より役人へ打合なとする文には、いかなる目上の人へ対しても、殿の字を用ふ、殿の字書やう、京都将軍の時に同し」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/866013
お礼
ご回答ありがとうございます。 「奥祐筆山下氏口演筆記」は、たいへん参考になりました。 しかし、明治になってからの聞き取りですから、おそらく幕末のころの話ですね。 そして 「役義に関し、役人より役人へ打合なとする文には、いかなる目上の人へ対しても、殿の字を用ふ…、」 ということですね。 これは分かりますが、お家の存続に関わる「養子願い」で、老中宛に「殿」を用いても非礼ではない、とする風潮になっていたのかという疑問です。
- kusirosi
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目上の人には「様」は、いつでも共通ですが、 殿 の対象は、時代を経るにつれ、大衆化(急降下\(^^;)してるので、 注意必要です。 元々は貴人の邸宅のことを指す(殿中とかいいますね)語であるが、 婉曲的にそこに住む貴人のことを指す。 (昔の上流階級では人の名前を呼ぶことは非礼にあたり、公家・武士は相手を呼ぶとき に官職名や相手の邸宅がある地名に殿をつけることが多かった。その呼称が家名として定着することもあった。 「殿」とは、は平安時代には摂政・関白級を指していたが、次第に 貴人一般を指す敬称になった。 武士の時代には主君のことを指すようになった。 江戸時代には大名や旗本を敬っていう語となり、それ以下の身分の者が称することは 表向き、禁じられたが、農村では旧国人の有力豪農(庄屋名主)を 村人が「殿」、と呼ぶこともあった。 時代を経て、室町時代末期には「殿」の敬意は低下し、より敬意の高い言葉として「様」が併用されるようになってきたが、江戸時代には、表向きは、大名旗本以上への継承でした。 まー、妻が夫を、おだてて働かす時も「殿」と呼んでましたが\(^^;)... 明治以後は、陸軍で身分分の低い職位のものへの表書き、「殿」が使われたように[ 「殿」は、同格・目下の者への私信に用いられることが多くなった。 官庁から個人への通知に、もっぱら「殿」が使われていたが、 これも最近では、「様」が、多くなり、 時代劇の中でしか、殿 が見れなくなる日も近いかも。( ^^) _旦~~
お礼
ご回答ありがとうございます。 何かにつけて権威、形式が重要視された江戸時代も後半になると、 小大名が幕閣最高位の老中の宛名に「殿」を用いるほど、 「殿」の値打ちが下がったという解釈ですね。
お礼
度々のご教示ありがとうございます。 仙石政明養子縁組願書(案)では、老中「様」になっていますね。 前回のお礼欄に、「養子願い」について他藩の例をネットで調べると全て「殿」でした、と書きましたが、私の見落としでしたので訂正します。 角川叢書『名門譜代大名・酒井忠挙の奮闘』で読んだのですが、正徳2年6月(1712年)、前橋藩主酒井雅楽頭忠挙も「仮養子願い(案)」を老中「様」で書いています。 これは「案」ですから至る所を書き直していますが、清書せず下書きのまま懇意の老中阿部正喬に見せており、正喬は一部修正した方がよいとの意見の附札を付けています。 ですから、宛所の敬称は「様」の文面で清書して提出したと思います。 「仙台藩主から朝廷・公家・幕閣や主要役人に挨拶状を出す際の例文集」は、正徳三巳年に書かれているので、ちょうど同じ頃です。 そして、この当時(も)「様」が「殿」より敬意が高いと認識されていたのですね。 仙石氏の事例が1684年、酒井氏の例は1712年ですから、5代綱吉から7代家継当時の公文書には「殿」も「様」もどちらも使用されていた、と言えそうです。 しかし、「養子願い」など幕府への公文書では、圧倒的に「殿」が多いですね。 ただ、「仮養子願い」は願い出た藩主の元に返ってくるから後世に残っていますが、同様にその他の願書類も附札が付いて返ってくると思うのですが、なぜかその他の願書類が残っている数は少ないですね。 「仙台藩主から朝廷・公家・幕閣や主要役人に挨拶状を出す際の例文集」は、仙台藩主から見た他藩藩主の格付けが分かり、実に面白いです。 また、#7で教えていただいた『大日本古文書.家わけ 伊達家文書之八』も面白いです。 今回のように何か目的を決めて精読するといろんな「発見」があって楽しいです。 太政大臣近衛内前は、仙台藩主伊達重村あての書状で「仙台中将とのへ」としています。 虚ろな権威が目に見えるようです。 いつもピタリの資料を教えてくださって誠にありがとうございます。 お陰さまで疑問は解消しました。