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江戸時代地方の町民・農民と武士

江戸では町人が大金を積んで御家人の養子となって武士になる事はあったようですが、地方(諸大名家)でもそういった町民・農民が養子になって武士の家督を相続するといったケースは多かったのでしょうか? 公儀の場合、御家人でも能力次第で(佐々木信濃守顕発など・特殊な幕末は除いても)勘定奉行・遠国奉行など諸太夫の要職に就任できたようですが、諸大名家においても藩主御目見え以下の軽輩が藩の要職に抜擢されたケースは結構あったりしたのでしょうか? 足高の制を採用していた藩はあったのでしょうか?

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  • ss79
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回答No.2

地方の諸藩でも士分でないものが士分に取り立てられるケースはありました。 士分の家に養子に入るというケースの例はしりませんが、篤農家とか名主で新田開発とか功労があったものに名字帯刀を許し士分の待遇を与えた例は多く存在します。 幕末にはよほどの保守的な藩でない限り人材登用が盛んになり、軽輩が士分から上士に出世することはザラになりました。 能力主義の時代でした。 西 周や橋本左内などは医師の家に生まれましたから士分ではありませんが西は脱藩して蘭学を学び直参になり目付に昇進していますし、橋本は同じく蘭学を学び、士分から書院番に取り立てられています。 長州では20以上の役所に上申書を義務付け提出しなければ処罰し改革を進めました。 薩摩藩では西郷や大久保は最下層の軽輩でしたがそれぞれ中小姓以上の身分に出世しています。

noname#30350
質問者

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御回答ありがとうございます。 庄内藩の本間家とかも士分の扱いだったでしょうか。 幕末は事情が特殊なのでかなり能力主義で人材登用されたのですね。 幕末以外で、家老とまではいかなくとも勘定奉行クラスに出世する軽輩も中にはいたのでしょうか…

その他の回答 (4)

noname#21649
noname#21649
回答No.5

>非嫡出子だったという事でしょうか。 ご指摘の通りです。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 江戸時代はそういった事例も結構多かったのでしょうね。 井伊直弼は十四男だったようです。

noname#15725
noname#15725
回答No.4

1.元禄期などに金で侍になるのが流行ったようです。また千人同心   は公然に近かったようです。 2.二宮金次郎、勝海舟の祖父。 3.足高の制はわかりません。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 八王子千人同心は平時は農業をしていたようなので、公然に近かったのでしょうね。

noname#21649
noname#21649
回答No.3

祖母の実家の3代前の娘が領主の妾で.病弱な正妻に子供がなく子供が養子ということで次期領主になった と祖母から聞いていますが.本当かどうか。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 次期当主になられたのは非嫡出子だったという事でしょうか。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

そういう例は地方藩でもあります。 ただ、お目見え以下の軽輩についてはもともと農民や町人の子弟から採用するという藩もかなりありましたので、足軽や徒士クラスについては養子にならなくてもなれる例はたくさんありますが、中小姓以上のクラスになるとなかなか養子にはいることも難しかったようです。 能力次第で軽輩から取り立てられる例ももちろんありますが、それでお家騒動の元になったりすることもよくありました。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 軽輩については農民や町人の子弟から任用される事がかなりあったのですね。

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