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j実在ってなんですか?
実在がよく分からないので、そして知りたいので教えてください。お願いします。
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また、おじゃまします。今度は日常言語で実在を語ろうと思います。実在は、現実に存在している、ということの略語です。 では、現実に存在している、ということはどういうことなのでしょうか? 西洋哲学では、それらの根本存在を「神」としたため、現実に存在している自分を確かめるため、まず最初に、この「神」が「実在」するということを証明しなければなりませんでした。そこから、不幸が始まりました。日本のように「神」も「仏」もごちゃ混ぜで、死んだAさんも祖先のBさんもすべて「即身成仏」の世界観であれば、何も苦労はないのですが。だって、人から人が生まれる、って日本人は誰も疑ってません。 で、私たちも、そのようなテキトーな現実路線を走る世界観のままでいれば良かったのですが、ギブミーチョコの占領時代も含め、アメリカマイホーム主義に浸され、ややもすると、何でも「回答」を得たがるようになりました。(「Noと言える日本」などと、実は一番西洋的ですね、考えが) あわてることはありません。自分が実在する、ということは、ちょっとした自己意識のズレがもたらす、単なる認識作用です。 意識がなければ、私は、現実に存在する「私」を認識しようとは思いません。勿論「神」から生まれた訳ではありませんので、「実在」証明のために「スコラ哲学」から始めるシチメンドウ臭い学習も必要ありません。 なんだ、そんなあいまいなものが「実在」か、と思ってください。 しかし、あいまいだから「教えてGoo」なんですよね。 で、あいまいさについて。 意識は、ほんのひとかけらの認識作用なのですが、人間にとってはすべてです。 意識のもとに言語をあやつり、日常生活のすべてを成り立たせています。 そして、日常の一つ一つを理屈つけ、結論つけさせています。 ですが、実は明晰な筈の「意識」こそが、「あいまい」なのです。何故あいまいか、と言うと、「沈黙」について考えてみてください。 「沈黙」する人は、「何」について「沈黙」しているのでしょう?それは、「言語」で辿れる認識作用でしょうか?それとも「言語」にしたいが言語に出来ないもどかしい状態なのでしょうか? もどかしい、もどかしいと思うこと、これの方が何だか「意識」臭くないですか? そこで、やはり、小説とか音楽とか、「言語」によらない「言語」を超え出ようとする新しい認識への旅を、人は求めたがるのです。 もやもやとした「実体」の中で、なんだかつかみようのない一瞬、私たちは、今までの認識を常に滑り落ちているのです。それが「現実に存在している」ということではないでしょうか? 米実存主義で言う、「現実に存在する」という考え方は、これとは違います。 これについては、「実存」とは何か、という質問の時に話し合いましょう。
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- nakaG
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哲学のカテで「実在」を述べよと言われるとかなり難しいでしょう。哲学そのままになってしまうでしょう。 哲学辞典をそのままで ◎実在論(realism) 事物が認識主観の外に実在すると主張する立場を実在論という。その実在すると考えられるものの種類によって種々の実在論がありうる。 ◎現象と実在(phenomenon、appearance;reality) 【哲学的思索の一般形的式】現象とは何かの現れた姿を意味し、その場合の「何か」が実在である。実在は現象の背後にあってこれを支える本体あるいは本質とも呼ばれる。 【講談社現代新書-現代哲学辞典】
お礼
なるほど、わかりやすいです。このような御礼しかかけなくてすみません。(ホントにモニターの前でただうなずいてるだけなんです!) ご回答ありがとうございました。
- Head_Syndicate
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ええと…。それは存在するということに対する問いでしょうか? それとも…「実存主義」の「実存」?
お礼
りょっ、両方お願いします!よく分けられてないんです。実存?実在?、「実存主義」の「実存」は全く分かりません。考えた機会がないんです。前者の方はいつも気になっているので、ぜひ両方ご教示願えますでしょうか?わがまま言って申し訳ないです。 ご回答ありがとうございました。
お礼
>「沈黙」する人は、「何」について「沈黙」しているのでしょう?それは、「言語」で辿れる認識作用でしょうか?それとも「言語」にしたいが言語に出来ないもどかしい状態なのでしょうか? 確かにそのとおりですね、非常にビリビリきてます。感覚が刺激されます。 >そこで、やはり、小説とか音楽とか、「言語」によらない「言語」を超え出ようとする新しい認識への旅を、人は求めたがるのです。 それは、新しい認識と言うよりも、現存する認識とでもいうのではないでしょうか?僕は、今は小説は旅立てないが、詩は旅立てると思います。音楽はすでに旅立っていると思います。恣意の形骸化されたもの、それを認識するもの、この二者が世界と目だと思います。音楽は世界の一部です。詩はどうでしょう?大きな一歩が必要ですが、詩の言葉は自立できるように思います。小説は無理です。ストーリーをかたるものは、ストーリーでないからです。偉大なる建築を指した言葉、図面のようなものと考えます。図面は図面として、その指し示すものを我々に語りかけてきますが、我々が聞くのは建築の声ではありません。重要なのは、絵画はそのものを認めえられますが、図面は建築が想定されるからこその図面であり、図面そのものは、過去を記した伝記書のように、そのものは人の記憶から素通りしてしまいます。これは、「芸術」における「物質」主義的でしょうか?読むという行為を現実的でないということです。世界を見るという事でまず一つ読んでいます。言語という仕掛けは、概念を語る?もので、世界を語る名辞作用の一式とは別のものです。概念世界こそが、我々共通の世界であることに至らすのが言語ではないかと思います。まためちゃくちゃになってしまいすみません。 >もやもやとした「実体」の中で、なんだかつかみようのない一瞬、私たちは、今までの認識を常に滑り落ちているのです。それが「現実に存在している」ということではないでしょうか? そう思います。流流としてながれる世界に、 今日も大変勉強になりました。ありがとうございました。