個人的に流行の横レス失礼します。
A.この10円玉には10円分の価値がある。
普通は何の問題もない表現ですが、厳密に申し上げれば、間違っています。
この表現は、金属貨幣の時代なら、一定の条件付で、正しいと判断されます。
しかし、この金属貨幣の時代は、100億円の取り引きをしようとすると、100億円の価値をもった金属貨幣が必要となります。実際、現実にそんな事は不可能ですし、合理的どころか、あまりにも不経済な方法です。そこに貨幣の歴史があるわけです。Aが少なくとも妥当するのは、歴史的にはほんの一瞬出現した、金本位制の崩壊以前までのことでしょうか。それとも、信用創造の起源をアテネの港に遡れば、それが妥当したようなことは、かって一度もなかったと言っても良いでしょうか。
それはさておき、現在の法定通貨制度という枠組みの中では、Aの表現は誤りになってしまいます。
Aを厳密に表現しなおすと
Å.現行の法定通貨制度が有効な、ある種の仮定として閉鎖的な時間と空間の中でなら、この10円玉は、10円分の価値があると仮定されている。と。
問題は、10円玉に価値があるのではなく、法定通貨制度という枠組みによって、10円玉に10円の価値を持たせているのだという点です。これは、金属貨幣とは、ある意味正反対で、金属貨幣の場合、正に、Aが成立するから、正確には、Aが成立していると信じられているから、貨幣制度とか交換が成立するわけです。しかし、Aは、上に書いたように、実際のところ現実的には、あまりにも不経済な方法ゆえに、歴史的に変動してきたわけです。
さて、質問に戻って、価値は実在するのか? と言う質問に対して、Aを認めない場合の結論です。
Å.現行の法定通貨制度が有効な、ある種の仮定として閉鎖的な時間と空間の中でなら、この10円玉は、10円分の価値があると仮定されている。
10円玉が10円の価値をもつのは、現行の法定通貨制度が有効な、ある種の仮定として閉鎖的な時間と空間、が、10円玉をして、10円の価値を持たせているとしたら、その制度の実在性を科学哲学の対象として、検討する実在する対象とする充分な『価値』はあると。
あと、価値は実在しない、と言った場合、世界は実在しない、或いは、社会は実在しない、等々と言った言葉との対照抜きで、その価値は実在しない、と言う言明は、単独では価値を持ち得ないと言うことが、ソシュールから学ぶことかと思いますが、どうなんでしょうね。
ここでいう「10円分の価値」というのは「実在的」と見なしうる。
「価値がある」という述語は、記述的と見なしうる。
だが、「価値」そのものを実在すると言うことはできない。
こういうのは、解釈学的な表現なのでしょうか、その場合、言語に懐疑的である私以上に、懐疑的な印象を受けてしまいますが、なんなんでしょう、まぁ、独り言です。
ナイスサプライズにつき、敬称略(笑。
ご質問者様に一言、失礼しました。
お礼
fishbowl66さん、書き込みありがとうございます。 現行の10円玉の件、仰りたいことはよく分かります。 マネーについては次回質問させていただきますので、もし輪行にお出かけでないようでしたらよろしくお願いいたします(笑)。 たいへん参考になりました。 ありがとうございました。