• 締切済み

信長の対謙信対策って

信長は軍神上杉謙信に対してどのような戦略を持っていたのでしょうか?七尾城攻略に手間取っている謙信を遠巻きに城外に長大な陣城を築き、越後軍に倍する後詰軍で陣城に籠って謙信を誘き寄せ鉄砲・弓・大筒で狙い撃ち消耗戦に持ち込んで最終的に勝つ「長篠戦型」の戦い方を考えていたのでしょうか?でも相手は若輩勝頼ではなく天才上杉謙信ですよ。

みんなの回答

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3048)
回答No.5

抵抗勢力の火を消さず争い続けさせる、そのために救援軍を出すのです。 加賀までは平たんで豊穣ですので制圧できれば制圧する、七尾を攻めれば後ろをつつき相手が向かってくれば固く守る、それ以上は当面やりません。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11216/34839)
回答No.4

>でも一説には京都を守るために安土城は対謙信対策で築かれたとか? これについては#3さんと同一意見です。信長は主に経済的な視点から安土城を築いたのだと思います。清州で生まれ育った彼にとっては「商業」というのは経済を考えるうえで非常に重要だと思ったのでしょう。だから、交易の十字路にあたる場所を天下の本拠地にと思ったのではないでしょうか。 一説には、安土城も信長にとっては「一時的な仮住まい」で、実際に天下を統一した暁には大阪の旧本願寺に本拠地を構える構想であったのではないか、というのもありますね。秀吉が大阪城を築いたのは、信長からその構想を聞いてたからではないかという話です。 謙信公は確かに「軍神」なんですけれど、戦略眼はなかった人で、どの遠征においても割と出たとこ勝負です。そしてほぼ毎回、国元、特に新潟県北部の揚北衆に反乱を起こされています。 当時の在郷の武士たち、つまり国人衆は自分たちの土地(領地)が増えることが何よりも最優先の課題であり、それが保証されるからこそ戦国大名にも付き従っていました。それができない大名は容赦なく反乱を起こされたのです。だから謙信公もその国人衆の期待に応えていたとは言い難いので容赦なく反乱を起こされたのですが、ただ越後の国人衆には不幸なことに、戦ったら絶対に勝てない人だったのでどのみち鎮圧される運命にありました。けれど国人衆にとっては「やってらんない殿様」なんですよ。 だから長期の軍事作戦が行えないですし、やると必ずといっていいくらい手薄な国元で反乱が起きてしまうんですね。例えるなら「すっごく短い鎖に繋がれた虎」なんですよ。上杉軍の行動範囲はどう頑張っても越前まで。しかも越前や能登は一向一揆が盛んで独立心旺盛な地域。謙信公が統治できるとは到底思えず、仮に謙信公が越前を越えようとしても越前や能登で反乱が起きる可能性を考えると非常に難しかったでしょうし、あとなんといっても揚北衆が(また)反乱を起こす可能性が高いと思われます。武田家滅亡後なら、信濃から春日山城を目指して織田軍が侵攻してくる可能性もあります。 謙信公の性格を考えると、信濃に北陸にと交互に出兵を強いられるうちにじわじわと勢力を失っていかざるを得なかったのではないでしょうか。 私、何かの本で読んだのですが「上杉謙信は今の時代が戦国時代であることに気づかなかった」という話は、腑に落ちましたね。 上杉謙信は時代はまだ室町時代のままだと思っていたっていうのは的を射てると思います。だからこそ関東管領などの有名無実化したものもありがたく頂戴したのだと思います。 あとインパール作戦はインパールまで日本軍を引きずり込んだというより、インパールよりインド寄りにあるコヒマが陥落寸前になったので逃げるに逃げられない状態でありました。 インパール作戦の天王山はインパールそのものを巡る戦いではなく、コヒマを巡る戦いだったのではないかなと思います。コヒマのイギリス軍は宮崎支隊の急襲を受けて大量の物資を置いたまま退却する事態に陥りますが、首の皮一枚で残って高所に陣地を構えて死守に成功します。陣地の守備に失敗していたら、もしかしたらインパール作戦はまた少し違った展開になっていた可能性があります。

hamuhaiiko
質問者

お礼

度々有難うございます。 結論的には信長の対上杉戦略は時間稼ぎでしょうか? つまり直接対決を避け局地戦では負けても構わないから、時を稼いで謙信の命尽きるを待てと、 ナポレオン直卒軍を避け続けるに対する対仏同盟軍のような。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (428/1337)
回答No.3

#1です。 軍神の名に吊られて、思い込みが過多に思えますよ。 長尾景虎が関東管領の上杉家を継いだばかりに窮屈になったのです。 北条に関東を追い出された上杉家の為に秋の稲刈りが終わると 小田原に出向き、北条は堅固な小田原城に籠り相手にしません、 雪が降るのを待ってます、仕方なく越後に帰ります、これを 繰り返している内に武田に信濃の殆んどを取られてしまいました。 戦国時代は領地の奪い合いですから局地戦に強くても、領地の 拡大が無いと、恐るるに足りない存在なのです。 取手川の戦いの時、信長は赴かず柴田勝家が出陣してます。 上杉より西国の毛利の方が重要だったからです。 安土城の建立は天下布武として、日本中の富を集める為のもの だったと、私は考えています。 東山道、東海道、北陸道は安土城を通ります、北前の富は敦賀 から琵琶湖を通して安土城に。 石山本願寺獲得に拘ったのは、跡地を商業都市にして、堺、浪花、 福原(神戸)の巨大な商業圏を作り、瀬戸内を通り、海外の富を 集め淀川で琵琶湖まで来て、その後は安土城に運ぶ構想と考えた のですが如何でしょうか? 豊臣秀吉は石山本願寺の跡に大阪城を立て、せっせと個人の蓄財 をしました。 上杉謙信は関東管領の役職を得て喜んでいましたが、信長は朝廷の 官位の勧めには眼もくれず全く興味を示しませんでした。 上杉謙信と織田信長の違いは、天下布武の大きな構想を持っていた 事です。 後継者の豊臣秀吉は天下布武の意味を解って居なかった様です。 織田信長は商業により得た財により強力な軍隊で天下布武を 目指しました、徳川家康は各大名の融和により、戦の無い武士の 世を作りました。

hamuhaiiko
質問者

お礼

度々有難うございます。 確かに謙信は戦には滅法強いが任侠だけの政治力皆無の武将ですよね。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11216/34839)
回答No.2

信長存命当時は徳川家康を通じて北条家とは良好な関係でしたから、謙信が北陸方面で軍事作戦を開始したら北条家をそそのかして北条が関東から越後に侵入するように仕向けるでしょう。 上杉軍も武田軍と同じように長期の軍事作戦は行えない軍事組織でしたから、数ヵ月持てばそれで良いと考えていたでしょう。優先順位は低かったと思います。 武田家以上にカリスマ君主謙信の力で保たれていた組織だったので、謙信が亡くなったらどのみち大した脅威にはならなくなったと思います。もし跡目争いが上杉景虎の勝利に終わったら、北条家と足並みをそろえると思うので、信長とは友好(主従)関係になっていたと思います。

hamuhaiiko
質問者

お礼

有難うございます。 信長は用心深いですからね。 でも一説には京都を守るために安土城は対謙信対策で築かれたとか? だとしたらインパール時の英軍の作戦のように、江南まで謙信を引き付けて補給線が伸びきったところを叩く作戦だったのでは?

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (428/1337)
回答No.1

七尾城を大軍で攻めたのは上杉謙信で、信長と戦ったのは、手取川の 戦いのみです、信長が越前、加賀を超えて能登に攻め込む理由が、 有りません、何らの利益が無いですからです。 謙信は小田原の北条に掛かり切りだったので、信長は西国方面に 力を注いていて、謙信対策は特に注視していなかった様です。 信長と謙信の間には強力な武田がいましたから、武田には常時 注視していましたが。 武田信玄と上杉謙信の争い事も、信濃を粗、手中ににした、武田信玄 に軍配を挙げますが。

hamuhaiiko
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 敵に回った謙信の存命中は信長も生きた心地がしなかったのではないでしょうか?

すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A