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仁明天皇はどこで生活していましたか?
仁明天皇は皇太子のころ、どこで生活していたのですか。 姉の正子内親王とは別の場所でしょうか? 即位してから生活していたのは大内裏ですか? 離宮などももっておられたのでしょうか?
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こんにちは。 仁明天皇の生活の場所については、他の天皇・皇族も同じですが、わからないことが多い上に、説がわかれている事柄もありますが、この時期の基本史料である『日本紀略』をベースに、『日本後紀(ほぼ『日本紀略』によって復元)』『続日本後紀』や他の史料よって、関連記述を抜き出すと、(1)立太子以前、(2)東宮時代、(3)天皇時代の3期に区分できます。 (1)立太子以前については、史料がありません。仁明天皇の生年については弘仁元年(810)とされています。この年の9月19日に大同5年が改元されて弘仁元年になっていますが、生年月日は不明です。嵯峨天皇の子女で弘仁元年生まれとされるのは、源信、仁明天皇、正子内親王の3名。この内、仁明天皇、正子内親王は橘嘉智子(当時夫人、後弘仁6年皇后冊立)の所生とされ、同年の生まれから双子とされていますが、当時の史料で確認されたものではなく、伝承・類推ですが、確実性が高いといわれています。*弘仁の改元直前には薬子の乱が起こっていますので、あるいはこれを嫌って、本来同年の大同5年生まれのものを、弘仁元年の生まれとしたものかもしれません。 さて、この時期の仁明天皇の動静ですが、誕生月日がわからないように、記録がありませんので推測するしかないのですが、母である橘嘉智子が夫人、皇后でしたから、内裏にいたと考えられるので、正良親王・正子内親王は同母兄弟ですから、橘嘉智子のもと内裏(内裏の後宮)で生活・養育されたものと思われます。 (2)東宮時代ですが、弘仁14年4月10日に嵯峨天皇は「帝還于冷然院」の記述があるように、内裏から後院の冷然(冷泉)院に遷り、ここで詔を発して、淳和天皇に譲位します。そして、数え年14歳の正良親王は、18日に「立正良親王(仁明)為皇太子」として立太子し、翌19日に「皇太子移権中納言藤原朝臣三守宅。即差三守等迎之。兵衛陣列御車前後。至待賢門。更御輦入坊。」として、東宮坊に入ります。この内、「移権中納言藤原朝臣三守宅」とあるのは方違いなどのために、一時的に「三守宅」に移ったと考えられますが、問題はそれ以前はどこにいたのかです。候補として考えられるのは、宮中と冷然院です。10日の嵯峨天皇の冷然院絵の還御から、18日の正良親王の立太子まで間がないことから内裏に居続けていたとも考えられますが、18日の記述には、「(淳和天皇)出自東宮。還御内裏先立侍従従四位恒世王為皇太子。太子上表固辞。乃立正良親王為皇太子。」となっています。つまり、最初正良親王は淳和新帝の皇太子に予定されていなかったということで、嵯峨天皇に従って冷然院に移った可能性が強いと考えられます。 さて、東宮(坊)についてですが、平安時代も中期ごろになると、昭陽舎などの内裏の後宮の殿舎(七殿五舎など)に存在することがありますが、この時期は内裏外で、大内裏の内にある雅院(東雅院と西雅院があった)にあったことが知られています。嘉祥3年3月21日の『文徳天皇実録』の記述には、「仁明皇帝崩。-略-献天子神璽宝剣符節鈴印等。駕輦車。移御東宮雅院。」とあり、東宮(坊)が「雅院」にあったことがわかります。その後正良親王は天長10年2月28日に淳和天皇の譲位により即位し、翌29日に、「天皇乃命車駕拝謁先太上天皇及太皇太后於冷泉院。還御東宮。」とあり、即位直後にも東宮坊を使用しているので、東宮時代の正良親王は、東宮坊に居住し続けたものと考えられます。 なお、正子内親王ですが、天長1年10月26日の「皇太子謁見後宮便於仁寿殿檻下。」と、天長2年1月4日の「掖庭公主参覲後冷然(冷泉)院。」の記述が注目されます。皇太子が「謁見」したと記述していること、嵯峨上皇・皇太后(橘嘉智子)の住む冷然院に「参観」した記述などから、この「掖庭公主」と「後宮」は同一人物であり、嵯峨上皇・皇太后(橘嘉智子)の女で、正良親王の同母兄弟の正子内親王だと考えるのが自然です。となると、、弘仁14(823)年4月の淳和天皇即位・正良親王立太子の翌年に、天長1(824)年10月26日の記述になりますので、遅くも天長1(824)年、早ければ前年の弘仁14(823)年にも、正子内親王は淳和天皇の後宮に入ったものと思われます。つまり、正良親王・正子内親王は、嵯峨天皇が在位の時は一緒に住んでいたことが考えられますが、嵯峨天皇の退位にともなって立場が分かれ、片や東宮となり東宮坊に暮らし、片や後宮に入り内裏に暮らすようになったということになります。 (3)天皇時代ですが、この時代は史料も多くなりますので、比較的に詳細です。関連の記事を上げると次のようになります。 天長10年2月24日 皇帝還御西院(淳和院)。為譲位也。 天長10年2月29日 天皇乃命車駕拝謁先太上天皇及太皇太后於冷泉院。還御東宮。 天長10年3月7日 天皇還自東宮。権(仮)御松本院。 天長10年4月21日 延十禅師於内裏転経。 天長10年4月22日 天皇還御内裏。 即位後短期間そのまま東宮坊に居住したものの、すぐに松本院に仮に移り、即位後2か月で内裏に入っています。 ところで、天皇が日常居住した殿舎(常殿)について、宇多天皇以降、清涼殿が使用されていますが、それ以前は「仁寿殿(じじゅうでん)」が常殿として使用されていたとされています。仁明天皇の常殿についても従来仁寿殿と考えられてきましたが、現在清涼殿が常殿と使用したとの有力な説が出てきています。 仁明天皇の内裏を含めた大内裏以外の行幸は、冷然院・嵯峨院への朝覲(父母の訪問)行幸と、同じ性格を持つ淳和院への行幸以外には、神泉苑・栗栖野・栗隈野・箕津野・葛野川・交野・芹河・水沼野・河陽・北野・双丘・水生野及び嵯峨上皇崩御後の冷然院などに遊猟などに行く程度で、それもほぼ日帰りです。その中で、承和9(842)年4月11日に「天皇還御冷然院。修理内裏也」、承和9年11月17日に「還自冷泉院。御于本宮。」とあり、この期間に内裏の修理のために、冷然院に滞在しています。この期間の間に承和の変が起こっています。 以上、まとめるとおおよそ次のようになると思います。 (1)立太子以前 嵯峨天皇・橘嘉智子皇后=内裏 正良親王=内裏か 大伴親王(淳和)=途中から東宮坊 (2)東宮時代 嵯峨上皇・橘嘉智子皇太后=冷然院・嵯峨院 正良皇太子=東宮坊 淳和天皇=内裏(仁寿殿) (3)天皇時代 嵯峨上皇・橘嘉智子太皇太后=冷然院・嵯峨院(太皇太后は途中朱雀院) 仁明天皇=東宮坊→松本院→内裏。途中冷然院。 淳和上皇=淳和院 後代になると変化しますが、この時代には天皇及び妻妾・子女は内裏、太上天皇及びその妻妾・子女は内裏・大内裏以外の後院、皇太子は大内裏の中ではあっても、内裏の外の東宮雅院に居住することが基本的なスタイルとなっていたとされます。これは、嵯峨天皇が冷然院に移って譲位した時に、意図されとものとされています。 最後の、離宮の件ですが、これに該当するものとして「後院(ごいん)」があります。天皇退位後の御所(院)としてや、内裏の修理・火災などによる臨時内裏などに使用されたものです。当時は、冷然(冷泉)院・嵯峨院(後の大覚寺)・朱雀院・淳和院があったことが知られています。この内、冷然(冷泉)院・嵯峨院(後の大覚寺)は、嵯峨上皇の系列の嵯峨上皇・橘嘉智子太皇太后・仁明天皇が使用し、淳和院は、淳和上皇系列の淳和上皇・正子皇太后・恒貞廃太子(淳和天皇息・仁明皇太子。承久の変で廃太子)が使用しています。 以上、参考まで。なお、『日本紀略』を中心に関連の記事を抜き出したものを、あげておきます。抜けている記述もあるかと思いますが、参考まで。 弘仁14年4月18日(823) 立正良親王為皇太子。 弘仁14年4月19日 皇太子(正良=仁明)移権中納言藤原朝臣三守宅。即差三守等迎之。兵衛陣列御車前後。至待賢門。更御輦入坊。 天長1年10月26日(824) 皇太子謁見後宮便於仁寿殿檻下。聊設酒肴賜坊官已上禄。 天長1・12月1日(824) 皇太子参謁於中殿。 天長2年1月4日 掖庭公主参覲後冷然(冷泉)院。 天長2年1月6日 掖庭公主自冷然院環。 天長3年5月1日 恒世親王薨。 天長4年2月27日 正子内親王乎皇后止定賜布 天長4年4月6日 幸南池。召文人。有御製。皇太子以下応製献詩。 天長4年5月14日 此夜皇后誕生皇子(恒貞)。 天長5年1月2日 皇太子已下参賀後宮 天長7年1月3日 群臣拝賀皇后。宴賜衣被。又賀皇太子。宴賞如常。 天長7年1月4日 天皇御紫宸殿。皇太子献御杖。 天長7年1月5日 皇后謁冷泉院。為賀正也。 天長10年2月16日 皇太子観於椒房(皇后御殿)。於是尚侍継子女王等侍内宴。奏琴歌。賜禄。 天長10年2月24日 皇帝還御西院(淳和院)。為譲位也。 天長10年2月29日 天皇乃命車駕拝謁先太上天皇及太皇太后於冷泉院。還御東宮。 天長10年3月7日 天皇還自東宮。権御松本院。 天長10年3月8日 天皇始臨朝 天長10年4月21日 延十禅師於内裏転経。為可還御故。先鎮之焉。為嵯峨院。下詔曰云々。嵯峨院者。先太上天皇光臨之地。 天長10年4月22日 天皇還御内裏。 天長10年7月16日 天皇幸神泉苑。観相撲節。 天長10年8月10日 天皇謁覲先太上天皇。及太皇太后於冷泉院。
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- fumkum
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天長10年9月25日 天皇幸栗栖野遊猟-中略-便幸綿子池。-中略-日暮還宮。 天長10年・12・13 芹川野・栗隈山、遊猟 承和1年1月2日(834) 朝覲後太上天皇於淳和院。 天長10年・10月11日 車駕幸栗隈野。放鷹鷂。日暮還宮。 承和1・1・2 天皇朝覲後太上天皇於淳和院。 承和1・1・4 天皇朝謁先太上天皇。及太皇太后於冷然院。 承和2年1月3日 天皇謁覲先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。 承和2・2・27 行幸水生瀬野遊猟。 承和2・3・12 勅後太上天皇御封二千戸。皇太后宮御封一千戸。准冷然院御封行之。 承和2・5・11 天皇幸神泉苑。是日令捕池魚。 承和2・7・8 行幸神泉苑。観相撲節。 承和2・10・13 行幸箕津野。遞放鷹鷂。-中略-日暮還宮。 承和2・12月15 行幸芹川野。 承和2・12・22 天皇幸神泉苑。放隼拂水禽。 承和3・1・3 天皇拝賀先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。 承和3・1・22 行幸神泉苑。 承和3・2・13 行幸神泉苑。放鷂隼。 承和3・2・20 天皇幸神泉苑。放隼。愛其逸気。 承和3・5・3 天皇御神泉苑釣台 承和3・5・25 以平城京内空閑地二百三十町。奉宛太皇太后朱雀院。 承和3・7・8 天皇於神泉苑。観相撲節。 承和3・12・22 天皇於神泉苑。放隼。獲水鳥百八十翼。 承和4・1・3 天皇朝覲先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。賜扈従者禄。車駕還宮。 承和4・11・8 天皇於神泉苑。放隼。 承和5・1・3 天皇朝覲先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。 承和5・2・12 行幸水生瀬野。遊猟。 承和5・7・11 天皇幸葛野川。観魚。 承和5・11・30 嵯峨太皇太后御朱雀院。 承和6・閏1・2 天皇朝覲先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。 承和6・閏1・16 行幸美都野。-略-日暮還宮。 承和6・閏1・18 行幸水成瀬野。遊猟。 承和6・2・13 天皇先幸神泉苑。次遊覧北野。皇太子従駕。-略-日暮還宮。 承和6・8・1 嵯峨太上皇不豫。天皇為之朝覲。黄曛還宮。 承和6・8・4 嵯峨太上皇聖体未平復。天皇亦朝覲。 承和7・2・2 天皇朝覲先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。 承和7・5・8 後太上天皇崩于淳和院。 承和9・1・3 天皇朝覲先太上天皇。及太皇太后於嵯峨院。-略-日曛還宮。 承和9・4・11 天皇還御冷然院。修理内裏也 承和9・7・15 太上天皇崩于於嵯峨院。 承和9・7・23 率近衛四十人固守皇太子直曹。于時天皇権御冷然院。皇太子従之。 承和9・8・3 送廃太子於淳和院。 承和9・11・17 還自冷泉院。御于本宮。 承和9・12・5 嵯峨太后還御于冷泉院。 承和11・1・3 天皇朝覲太皇太后於冷然院。 承和11・2・25 行幸交野。-略-車駕還宮。 承和11・3・26 天皇朝覲太皇太后於冷然院。 承和11・8・13 幸北野。-略-日暮還宮。 承和11・10・18 行幸水沼野。及芹河。-略-車駕還宮。 承和11・11・29 行幸水成瀬野。-略-還宮賜禄。 承和11・12・2・14 天皇幸水成瀬野。 承和12・2・25 行幸河陽遊猟。-略-乗輿廻宮。 承和13・1・3 天皇朝覲太皇太后於冷然院。 承和14・1・3 天皇朝覲太皇太后於冷然院。 承和14・4・6 幸臨于神泉苑。 承和14・10・20 双丘下有大池。池中水鳥成群。車駕臨幸。放鷂隼。 嘉祥1・1・20(848) 上幸神泉苑。放隼獲水鳥。 嘉祥1・4・17 上幸冷然院。 嘉祥1・5・22 上幸冷然院。避暑。 嘉祥1・10・5 行幸神泉苑。 嘉祥1・10・22 行幸神泉苑。転幸北野遊猟。 嘉祥1・10・26 幸双丘臨池放隼。 嘉祥2・3・5 天皇幸水生瀬野。-略-日暮車駕還宮。 嘉祥2・3・21 行幸双丘。廻幸冷然院。観魚。 嘉祥3・1・4 天皇朝覲太皇太后於冷泉院。 嘉祥3・3・21 帝崩於清涼殿。-略-率近衛等。陣於皇太子直曹。-略-奉於皇太子直曹。皇太子御輦車。廻於東宮。 以下文徳天皇実録記載。 嘉祥3・3・21 仁明皇帝崩。于時皇太子下殿。御宜陽殿東庭椅廬。-略-献天子神璽宝剣符節鈴印等。駕輦車。移御東宮雅院。
お礼
たくさん転記してくださってありがとうございます。 心より感謝します!
お礼
わあーーーっ! 丁寧な回答をありがとうございます。 とても嬉しいです。 『日本紀略』『日本後紀』『続日本後紀』などの史料などからある程度のことはわかるのですね。 正子内親王と仁明天皇が双子ではないかという説については聞いたことがあります。 >母である橘嘉智子が夫人、皇后でしたから、内裏にいたと考えられるので、正良親王・正子内親王は同母兄弟ですから、橘嘉智子のもと内裏(内裏の後宮)で生活・養育されたものと思われます。 この時代の親王や内親王は内裏の後宮で生活していたのですね。 乳母のもととか、母親の実家などで生活していたのかなあ、となんとなく思っていました。。 東宮坊というのがあったのですね。 方違の記録があるというのがおもしろいです。 正良親王は淳和天皇の皇太子に予定されていなかったのは知りませんでした。 正良親王・正子内親王は、嵯峨天皇が在位の時は一緒に住んでいた・・・ 一緒に遊んだりしたんでしょうか。 平安時代にはそういうことはなかったんでしょうかね。 細かい考察、たくさんの記述の転記をありがとうございます。 たいへんな手間だったと思います! コピーして私の宝物にします。 本当に親切にありがとうございました。