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正良親王と正子内親王は双子だとされていますが
正良親王(仁明天皇)(810-850) 正子内親王(810-879)(810-879) の母親は橘嘉智子で、生年が同じなので双子だと言う説があるそうです。 しかし、かつて双子は畜生腹などといわれ 特に男女の双子は心中したカップルの生まれ変わりだと忌まれた と聞いています。 そのため、双子の片割れは抹殺されたり 里子に出されたとも。 しかし、正良親王は即位して仁明天皇となっており 正子内親王は淳和天皇の皇后となっています。 (二人の間に生まれた恒貞親王は承和の変で廃太子となって かわいそうな運命をたどりましたが) 正良親王と正子内親王には「双子なので忌まれた」という影が感じられません。 それはなぜなのでしょうか。 推測でも結構です。 回答をお待ちしています♪
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何年か前(十数年前か数十年前か)に、杉本苑子さんの『檀林皇后私譜』を読んで、正子内親王に興味を惹かれ、調べたことがありました。 確かに、正良親王と正子内親王はいずれも西暦では810年生まれとされています。 別の資料を見た時に、正子内親王の生年は「大同4年」とされていて、正良親王の生年は「弘仁元年」とされているものがありました。 大同4年11月1日=西暦809年12月11日で、大同4年12月1日=西暦810年1月9日だそうです。 このことから考えますと、正子内親王が生まれたのが、「大同4年でありかつ西暦810年でもある」とすれば、正子内親王の誕生は、大同4年11月21日~12月30日=西暦810年1月1日~2月8日であったと考えられると思います。 そして、大同5年9月19日=西暦810年10月20日に「弘仁」へと改元されていますから、正良親王が生まれたのが、「弘仁元年でありかつ西暦810年でもある」とすれば、正良親王の誕生は、弘仁元年9月19日~11月30日=西暦810年10月20日~810年12月30日であったと考えられます。 私が調べた範囲内では、正良親王と正子内親王を双子とする説の根拠は、ご質問者さまがおっしゃるとおり「同じ810年の生まれなので」というものしか見つけられませんでした。 誕生日が1月1日と10月20日ということでしたら、「同年の生まれ」でも不思議はないと思いますし、最大で1月1日と12月30日の1年の開きが出ますからね(私の友人も、その姉と誕生日がまる1年離れていません。友人の姉:前年の9月生まれ、友人:8月生まれ)。 ですから、そもそも正良親王と正子内親王は双子ではなかった可能性もある訳ですよね? 双子ではなかったので、 > 「双子なので忌まれた」という影が感じられません。 ということもあるのではないでしょうか。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 こちらに移られましたか。 (1)極端な例・・・1月に出産(前年に仕込み)。すぐに妊娠。11~12月に出産もあり得るかもしれませんね。 (2)当時、と、言っても、昭和の初期頃までは、全てと言っても良いほど「自然分娩」。さらに、胎児としても双子や三つ子であると、母体内での成育もひ弱。従って、1人は助かっても、後の胎児は死亡。もあり得ることでは・・・。 また、日本では戦前まで双子は同じ服にしないとだめとかという迷信はもとより、どちらかは隠すということが一般的だったようです。つまりどちらか一方を外の世界に出すが、どちらか一方は幽閉か、生まれてすぐ殺害するという風習がありました。 特に男女の双生児の場合は畜生腹とか畜生孕みなどと称され前世の心中の名残などといわれました。 (3)双子や三つ子が「忌み嫌われる」ようになったのは、戦国時代からです。例えば、大名家に双子が生まれ、二人が成長して、家臣の分断や領土の分断を恐れて、どちらかを「養子」に出したり「出家」させたり「殺したり」しています。徳川家康も双子の一人とされています。しかし、家康の母は「於大の方」。恵最の母は松平乗正の娘「ひさ」。 樵臆恵最 (1542~?) 松平広忠の三男。松平忠政(家康の異母兄)同腹弟。家康は天文十一年、二月二十六日に岡崎城で生まれたという。驚くべき事に、恵最は家康と同年同日同時刻に生まれている。このため廃嫡され、僧侶となる。穎新(えいしん)と名付けられた。忠政と共に家康と会い、兄弟と認められたという。桑谷広忠寺を建立。これは広忠を弔うためである。広忠寺住職となると、名を樵臆恵最(しょうおくえさい)に改めた。広忠寺には父広忠、生母妙琳、兄忠政の墓がある。 しかし、これには、当時としては「時間」の感覚があいまいだったため、例えば、二人とも19:30に生まれた・・・と言うようなものでなく、どちらも夕方に生まれた・・・などと解釈した方が良いかもしれません。 (4)古くは、『古事記』『日本書紀』に登場する、あのヤマトタケルノミコト(ヲウスノミコト)が双子で、兄のオオウスノミコトを殺害してます。 (5)記紀をひもとくと双子はたまに見かけますね。確か、佐保姫・佐保彦も双子のように記載されていたと思います。
お礼
bungetsuさん、かさねがさねありがとうございますう♪ なるほど、出産したのちすぐに妊娠したということが考えられますね。 出産後は妊娠しやすいと聞いたことがあります。 家康も双子でしたか。 で片方は出家させたと。 うむう、実に興味深いです。 探せば、ほかにも同年同日生まれで実は双子だった 武将と僧侶がいるかも・・ですね。 佐保姫・佐保彦も双子ですか。 私はアメノワカヒコとアジスキタカヒコネ、 一言主大神と雄略天皇も双子なのかなあ、と思っています。 (一言主大神は雄略天皇の山彦かもしれませんが) >双子や三つ子が「忌み嫌われる」ようになったのは、戦国時代からです。 すいません、もしよろしければこの根拠を教えていただけませんでしょうか。 飛鳥時代、奈良時代、平安時代と双子と思われる人物がみあたらないのは 双子の片割れが歴史から抹消された結果なのでは? と私には思えてならないのです。 飛鳥時代、奈良時代、平安時代には歴史に残る双子の人物はいなかったのでしょうか。 あっ、また追加質問になってしまうので 別に質問をたてることにします。 よろしければそちらにカキコミお願いします。ぺこり。
- eito_waka
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畜生腹の考えがいつごろ成立したのかを調べてもわからなかったので、 完全な推測になりますが、当時は畜生腹という考えがなかったのではないでしょうか。 8世紀初めに書かれた「古事記」や「日本書紀」では初代天皇の神武天皇の祖父(山幸彦)は三つ子の末子だと書かれています。 記紀は天皇の命で編纂されていますので、当時、双子や三つ子が忌み嫌われていたなら、 こんなふうにに三つ子のままにせずに、改編されていたはずです。 又、この記紀では「最初の頃の何組かの神は男女の双子神だった」とも受け取れる記述をしています。 このように日本ではもともと、双子や三つ子は不吉だとする考え方はありませんでした。 そもそも『生まれ変わり』は日本古来の考え方ではなく、仏教の考え方になります。 一般的に、畜生腹は昔は医療技術が未発達のため多産が危険だった事と、 仏教の輪廻転生の考え方が合わさって出来た俗信といわれています。 810年当時はまだ、畜生腹という俗信が生まれていなかったという事ではないでしょうか。
お礼
ありがとうございますっ! 確かに記紀には双子の話が記されています。 双子は忌むものどころか、神聖なるものであったのかもしれません。 しかし、記紀の双子の記述はかなり古い記録ばかりです。 記紀編纂以降の記録には双子の記録はほとんどないと思います。 (ありますか?) 9世紀に「双子は忌むべき存在」といった概念がなかったのであれば 正良親王と正子内親王以外にも双子の記録があってもいいのでは? と思えるのです。 正良親王と正子内親王にしても、はっきり双子だと記されているわけではありません。 母親が同じで同年の生まれであるところから双子だと考えられているわけです。 その点がちょっとひっかかっています。 もしかすると双子の出産に危険性が伴うため 正史に記されるような双子の存在がなかった、のかもしれませんね。 大変参考になりました。ありがとうございました。
お礼
ありがとうございますっ! 正子内親王の生年は「大同4年」で、正良親王の生年は「弘仁元年」! ということは、檀林皇后は出産後すぐに妊娠したので 正子内親王と正良親王は同年生まれでも双子ではないという可能性が大ですね。 そう考えると、正子内親王が抹殺されるどころか淳和天皇の皇后になっているというのもナットクできます。 慧眼だと思います。 尊敬します!