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子供を育てるうえでのリスクと親のエゴ
- 子供を育てるうえでのリスクと親のエゴについて考えてみました。結婚や子育てには多くの理由がありますが、リスクも存在します。学校でのいじめや就職の難しさなど将来の不安もあります。また、子供を親の思い通りに育てることも一種の親のエゴかもしれません。しかし、私は結婚したら子供が欲しいと思っています。親のエゴやリスクとどう向き合うべきなのか、経験を持つ方の意見を聞きたいです。
- 結婚や子育てには多くの理由がありますが、子供を育てるうえでのリスクも忘れてはいけません。学校でのいじめや就職の厳しさなど、将来の不安も存在します。また、親が子供に自分の思いを押し付けることも一種のエゴかもしれません。しかし、私は将来子供が欲しいと思っています。親のエゴやリスクをどう乗り越えて子育てをするべきなのか、経験を持つ方の意見を聞いてみたいです。
- 子供を育てるうえでのリスクと親のエゴについて考えてみました。子供を育てるということは多くの責任が伴いますが、それにはリスクも存在します。学校でのいじめや将来の就職の難しさなど、親としての不安もあるでしょう。また、親が子供を自分の思い通りに育てることも一種のエゴかもしれません。しかし、結婚したら子供が欲しいと思っています。親のエゴやリスクと向き合って、子育てをしていくべきなのか、経験を持つ親の意見を聞いてみたいです。
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40代男性、既婚、上が小学4年息子、下が2歳息子です。 まず、人間である以上、子供を作り育てるのは「社会に対する義務であり、貢献である」ということです。このあたりのことが昨今の「子供を生むかどうかは、女性の権利」という言葉に隠されてうやむやになっています。 確かに女性の人権を考えれば「女性の権利」でもあり「個人」の枠内ではそういえますが、全体の奉仕者(すべての社会人は全体への奉仕をなんらかの形で行っています)という自覚からすれば、子供を海育てることは社会全体に対する貢献である、といえます。 なぜなら、子供が居なくなれば「社会」そのものが成り立たなくなるからで、日本のように1億も居ればべつですが、グアムなどのように小さな島では半数が子供を生まなくなれば50年を待たずに島民は絶滅するようなものだからです。 外国に行くと驚くほど子供が優遇されているのに気がつくと思います。たとえば飛行機の優先搭乗などは、チェックインの際にも並ばずに優先的に通してもらえます。しかし、逆を言えば「子供は社会の宝」ですから、車内に放置するようなことがあれば保護者はすぐに「保護責任放棄」で逮捕されます。 それぐらい子供は未来の社会に対する貢献、という考え方が浸透しているといえます。 ですから、子供を産み育てるだけで十分に社会貢献であるといえます。そのことを念頭に細かく回答したいと思います。 子供を持つリスクについて >子供を育てるうえでのリスクも多く浮かんでくるのです。 それは家庭の金銭的、子供の身体的な問題ではなく、学校でいじめ被害を受けたり不登校になる、学校社会を順調に歩んだとしても、数十年後は相当厳しいと思われる就職活動が待ち構え、最悪のケースも頭がよぎります。 これは子供を持つリスクではありません。子供が自分で解決すべきリスクです。私もいじめにあったことはありますが不登校にはなりませんでしたし、就職はちょうど氷河期に入った時期でしたが、一応就職できました。 親がかってにあれこれ悩むのではなく、子供自身が自分で対応できるようになるべき問題でしょう。 このような視点からみれば親が背負うのは「いじめや就職活動の不発によって、自殺したり、または事故で若くして亡くなり、子供を失うリスク」だけです。 保護者としての責任はありますが、子供自身が背負うべき責任(生まれていずれ独立するための責任感)のほうが優先されるはずです。 親のエゴについて >かといって親が最初から子供を海外で就職させるといった前提ありきで育てるのも、親のエゴや思惑が働くというか、子供を親の敷いたレールに乗せている気がして嫌だと思うのです。 これは難しい問題です。極端に言えば親のエゴが強すぎるせいで子供を自殺に追いやることもありえる、という問題まで含むからです。こうなると親のエゴで最大級のリスクを実現化させてしまうことになります。 ただ、江戸時代ぐらいまでの社会からすれば、現代はとても自由でのびのびしています。戦前ぐらいでも農家の子は農家、大工の子は大工、でありしかも次男以下は跡を継ぐことができず、部屋住み(嫁ももらうことができない)だったり、よほどの頭の良さか、幸運がなければ別の職種についたりすることは難しかったのです。 これに比べれば子供がどのような職業に就こうとも自由ですし、いくら親のエゴがあっても、それを振り切って就職したり、好きな道(芸人でも芸術家でも)に行くことも自由です。 質問者様は親のレールの上を歩いて来てそれを疑問に思わなかった、ということですが、それは成長過程における「自負心・克己心」の成長の問題であって、親のエゴがそうさせたということではない、と思います。 なぜなら、どのような親でも「可能な限りよい学業環境」や「可能な限りのチャンス」を子供に与えようとするのは当然であり、しかしその「良い」という基準は一般的に親である自分が経験したものが基礎になっているからです。 この部分までエゴで割り切ってしまうと、かえって「家系や血筋がもっているよい遺伝子」を妨げることになりかねません。たとえば家族に理系が多ければ理系のノーベル学を取れるような学者になれるかもしれませんし、法律家や医者の家系ならその家業を継ぐことも大いにありえる、からです。 もちろん、血筋がすべてではありませんが、それなら「自分の人生をよりよくする」のは親の責任ではなく、子供の自分自身の責任である、といえるでしょう。 親の押し付けは当然にありますが(今うちでは押し付け中ですが)、親は子供に教育を受けさせる義務もある以上、エゴは当然出ます。 私は親のエゴは自覚しながら、一定の年齢に達した子供が自分自身で将来をつかみとるために、考えられるようにしていけば良い、と考えています。 最後に、一口に子供といっても成長段階によって様々な要諦があります。 小学生までは本当に「保護」が必要な子供であり、子供の選択はあまり重要ではありません。なぜなら、好き嫌いでの判断しかないからです。 中学生になると「自己」が確立され始めます。父親に対する反発なども出てくるでしょう。ここからが「自分で考える」時期だと思います。 高校生になれば「自分で意思決定し、そのリスクを負う」ということを学ぶ必要があります。社会に出れば自分で決定し、それに不利益があれば自分で負担することになるからです。 大学生や専門学校に行く頃には「自分で決めてリスクも負える」ような準備ができている必要があるでしょう。もちろん親のサポートは必要でしょうが、小学生のときのように親が前に出るのではなく、後ろから支えるようなサポートです。 社会人になったら(逆にならなかったとしても)それは「自分の選択である」ということです。いくら親のエゴでそれを望んだとしても(たとえば医者にならせたくてなったとしても)、そのレールから外れることはいくらでもできた、ということです。特に20歳を超えれば何の障害もなく、レールから外れることができたはずです。もし、医者になるのはいやだけど、ここで「医者はイヤ」と言って、大学を辞めて不自由な生活をするのはもっとイヤ、というのであれば、それこそ自分のエゴでしかありません。 何事にも「選択」にはリスクが付きまとうものだからです。 ところで「子供をもつ幸せ」は御質問なされないのですか? 勝手に書いておきますが、幼稚園まではとにかくかわいくてかわいくて毎日の成長が楽しみで幸せです。「子供は3歳までのかわいさで、親に一生分の恩を返す」ともいいますが、まさにその通りです。 小学生になれば、具体的に「教育」が関わってきますが、きちんと受け答えができるようになってくる子供たちはなによりも将来がたのしみです。その代わり小学生までに「躾」はきちんと終えるようにしたいと思います。 中学生は、反抗期ですから、自分や社会・大人に対する考えを持つ頃でしょう。「頼もしい」の一言につきます。うちの子はこれからですが思う存分けんかできるように今から体力を鍛えているところです。 高校生や大学生はある意味「大人」ですね。運転免許も取れますし、場合によっては彼女を連れてきたりするでしょう。その際のリスクと責任をどこまで教えらるかは、若干不安ではあります(笑) 子供がどのような社会人になるのかは私には分かりません。しかしどのような職業に就くとしても「誇りを持って」選択してくれることを願います。今はその準備を手伝っている、というのが子育ての本質なんだろうと思います。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。 子供自身の手で将来を得るための手段としてのエゴですね。 子供を持つ幸せを質問出来なかったことが、自分の浅はかさなのかなと感じました。 自分の選択に誇りを持たせられるよう、自分自身の知見も深めていきたいと思います。