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昔の戦争対策

おはようございます。 昔の戦争対策ちょっと調べただけでわんさか出てきます。 焦土作戦まで考えていた松代大本営、田中角栄が壊すまで全国にあったという師団道路、国民皆武道、防空壕など。 マスゴミちゃんがまったく流さない昔の戦争対策を教えていただけませんか?満州など昔統治下にあったエリアもお分かりでしたらお願いします。 よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • chomicat
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回答No.1

後期高齢者です。 今でも色々残ってますよ。 昭和初期に作られた「隣組」はその最たるもの。 京都は昔のまま引き継がれ「学区」(小学校は市民が寄付金で作ったから)は自治会として存続して活動も盛んです。奥多摩辺りでも未だあると聞いています。町内会の名前を利用して会費を集めるのだけを目的にしている処もあるようですね。 戦時体制を維持する為に国民総動員法を発令するのは、国にすれば全国民の動向を把握し、又政府からの通達、把握など戦時に国民を保護すると云うか操作しやすい様にすると言うか、色々想定して作られたのが大元になっていた全国の組織形態でありました。 街中で言えば現在の政令都市ででも防空壕はメインストリートの植樹部分に敵が本土の制空権を握り空爆や機銃掃射で市民が殺されるのを防ぐ避難所として昭和22年頃まで残っていました。 大体10人くらい入れるもので完全地下あり、木組みに土を盛り上げ被せた物ありで色々な形でした。 又、各家でも台所の四畳半乃至六畳の畳を上げて地面を掘り下げ防空壕にしていた家も少なくありません。 現在でも大きな防空壕は(山の洞窟などを広げた所など)残っている所があるようです。(今でも新に発見される事があります) 師団街道は現在でも京都にはあり、地図にも名前がそのまま書かれていますし人も師団街道を云々と云います。 満州はヨーロッパのユダヤ人を救済し新国家建設を行う事を求め、社会的なインフラを整備し都市建設を行ってましたから、戦時中に万が一の対処云々と云う概念は無かった(一部の政府関係者にはあったかも)と思います。 余談:杉原千畝のの事はご存知でしょうけれどもっとユダヤ難民を救済した犬塚大佐の事はご存じない方も多いと思います。その救済を容認した東条英機を戦犯としたアメリカは間違ってますね。 況してや戦時中、政府の圧力があったとは言え戦況を日本の勝利の如く書いた各新聞社・・特に愛国新聞とも言われた朝日の戦後の様変わりには私たちの年代には欺瞞塵新聞・・他の新聞社も然り・・としか言いようが無い。 朝鮮半島も然りです。 何しろ大和(朝鮮人は日本本国をそう呼んで居た。昭和40年頃は朝鮮で焼肉の事を大和焼きと云っていたし、元々焼肉にするような牛は朝鮮には居なかったし、焼肉の元祖・・鋤焼・・は日本発祥)と朝鮮の行き来は自由でしたから、李朝と役人以外は農奴の国の人間は日本へ日本へと。(全ての強制連行は真っ赤な嘘、軍事施設で働いていたのは動員令による日本人学生等が殆ど、朝鮮人は給料がいいので勝手に渡ってきて潜り込んで働いていた。李朝関係者などは日本の大学へ留学していたのも事実) 戦前の普通の家の幼児は戦争に行って特攻で死ぬ目的で身体を鍛える為剣道を習うのが常(田舎はどうか知りませんが、高等小学校で銃剣術の授業は必須)で水練(大日本武徳会等:今でも盛ん)はほぼ100%。 女性は5年生位から薙刀の稽古があったのが普通。 男児は戦争に行って死ぬ(特攻が代表)と云う意識を高揚する事を目的に都会では男女は別の組。 軍事教練は国民学校(小学校)低学年生でも一日一度は。 町内では在郷軍人主導で男女共、月数度の軍事教練(竹槍や消火バケツリレー、畑の開墾、山の整備など)を行う事で銃後(日本国内の事)の戦争に対する態勢を維持しているのが常でした。 当然、主食を初めとする主だった食物は物価統制で国が管轄し、配給制度や外食券等が全国行き渡っていたのも、云わば戦時体制でしたね。 庶民から見た戦時中の細かい事が知りたければ徳川無声の著作、夢声戦争日記 (文庫本であります、確か12巻ほど、改訂版もあり)をお読み下さい。結構気楽に庶民は過ごしてましたから) 当時疎開したじかに戦争体験をしている人たちはもう全て超後期高齢者。 集団疎開した人も縁故疎開(個別に各家庭の伝で田舎に疎開する)した人も普段の食事には苦労しましたが、其れはそれ、金を出せばなんでも出てくるのは今と同じ。 でも米を持っている、野菜を持っている農家は例え其れが小作農でも(地主、庄屋から土地を借りて農業している農家、日本の殆どがこれだった。今農地を持っているのは戦後アメリカが農地開放令で地主から土地を取り上げ無償で分け与えたもの。先祖代々が聞いてあきれる)で疎開してくる都会人には冷淡冷血だった、えらそうに。 余談ですが 今も田舎と都会人の軋轢は大きいのですけれど、昔ももっともっと。 あちこちの飛行隊には飛行機が無い、ガソリンも無いから、地方の兵隊は毎日山へ入って松根油(松の根の油はガソリンに似て居るので盛んに伐採、結局まったけが採れなくなった・・)を採るのに毎日を。 表立っては戦時対策としては体制作り、でも庶民は関係なく、表立っては訓練に参加しても、日常はもっとのんびりとが実情。東京のど真ん中でも戦時中牛肉の配給もあったとか。 軍部の想像していた焦土作戦なんか絵に描いた餅。 万が一日本に連合軍が上陸しても、山深い日本じゃ、国民個人個人の抵抗に会って、ベトナム戦争以上に難儀して挙句は退却を余儀なくされたと思うし、最前線の領土(特に北方アリューシャン辺り)の終戦後の現地日本軍の判断による戦争で、ソ連の北海道侵攻が止められたのも事実ですから) 取り留めなく書きすみません。

noname#188362
質問者

お礼

ありがとうございます。若い人にも啓発していただきたいと思います。若者は戦争対策まったく考えてません。

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