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正直「行きすぎた」平和学習に疑問
自分の友達が学生の頃、精神的な病を持っていて「平和学習のいきすぎた表現」について、疑問を持ってました。 友人は普段から血なまぐさい映画だったり、色物とか、性や力や言葉の暴力を嫌ってました。 先生に「いつ発作が起きるかわからない状態でもいかなきゃいけないの?」ときいたら「当たり前だ、日本人として知るべき」というんです。 今は戦争が起きないとも言えないけど、 外交が主力でどちらかと言えば 「ネット中傷」や「人間関係」言葉や身近な人間関係に精神を削ってる人もいます。 おじいちゃんやおばあちゃんの「昔のトラウマ」もわからなくもないけど「恐怖」やトラウマを植え付け、精神を病まれる人も知ってるし、私もそういう空間が好きではありません。 「学習」のためとはいえ、日本軍の防空壕を再現するまでする必要あるのかなとか思ってしまいます。 衝撃だったのは何か血がついた服がおいてあったり。 戦争の起因する原因を追求することが必要であり「ナゼ負けたのか」ではなく「もう悲惨を起こさないための外交」だったり、 時代がもう武力行使ではない気がする。 例えその人が人の命を大切にする人にするとしたら、隣の人にネットやノートで中傷することをやめることが必要だと思ってる。 解決策は時代によっても変わってくるのは私だけでしょうか
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- citytombi
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精神疾患でそういう場面が苦手な人と、悲惨さをいかに伝えて気持ちとして取り込ませるかは別だと思います。 かつて広島原爆記念館に、身体が焼けただれてさまよう人の様子を人形で表していましたが、それが撤去される時にも物議をかもしましたね。 撤去されたら悲惨さが伝わらないという意見がありましたが、館側は“他の資料で悲惨さは十分に代替でき伝わる”というもので、イメージ展示ではなく現物・実物や写真展示の方がリアルティがあるということでした。 オブラートで包むんじゃなくて、現実を伝えた上で「その先」を考えさせることが必要なのでしょうね。 防空壕にしても血の付いた服にしても、「何でそうなったのか」が必要なんです。それが考えられない人のために必要な展示もあります。
お礼
回答ありがとうございますその友人とは今も呑みにいく中ですが、結局はビジュアルで分からせると言うよりも時代の流れや人々の考えをとりあえず蓋をして、「国の政策に巻き込まれただけの住人に」「脳みそが~」とか「周囲には臭気が~」といわれてもただただ不安感をあおるだけになります。その中でちゃんと第二次世界大戦、だけではなく、東京大空襲や、戦争に至った経緯はわかるようなわかんないような。 私たちが何発投下されたのかとか、どれだけの家屋が被害にあったとかそういうことが知りたい訳じゃないと思うんですよ。 おじいちゃんたちは(ナゼ戦争になったのか)すら知らないと思います。 また、かつてその病んでた友人は「学校は官僚を育てる機関だ」とも言ってました。先生やお年寄りを大事にしろ、口答えはするな、殴られる(経験もした)結局の洗脳教育は変わってない。もしも、自分達の意識を変え、二度と武力行使がなくなる世界に変えたいと願っても政治までは変えられるかはわからない。意識は変えられるけど、根本的な問題は?感想を書けと言われても「気持ち悪くて途中から覚えてません」としかいえないとも言ってました。 多分そういうおじいちゃん世代って「こんな展示物でも生易しいもんだ」と思ってると思いますが、いくら悲惨さをもっと過激に再現しようにも血なり生々しい体験でなり伝えたとしても、そもそものベクトルがちがうとなった場合には無駄に人の心を傷つけるだけだと思ってます。 とりあえず私も近年誘われたけど、「知りたい」「どうしたらなくなるのか」を考える以前に胸が苦しくなったり気持ち悪くなったりするのはある意味では「展示する意味」で、里にかなってるとは思います
補足
あと、血のついた服や戦闘機などの「資料」はビジュアルで数が、悲惨さがわかるような説明をしてるのに「原因」や経緯についてはものすごく長いパネルで「とりあえず役目を果たしてる」感があり残念です。紙芝居形式にしろ、アニメを流すにしろ、ド○えもんの漫画にして、低年齢でもわかるように工夫できないものかと常々思ってます。