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言葉が先か?意識が先か?
- 言葉が先か?意識が先か?という哲学的な問いについて考える。構造主義の立場では、意識は言葉を使用して作文を作ることにより生まれるとされる。
- 意識とは何かについて哲学辞書を引いて調べてみたが、明確な定義がなく混乱している。
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こんにちは。 ★ 正しく理解しているかわかりませんが、構造主義の立場では、私たちが思考したり感じたりするときに、まず頭の中で「言葉」を使用し作文を作ることにより「意識」が生まれるとの立場のようです。 ☆ わたしは 必ずしも《構造主義》一般をではなく ソシュールもしくは丸山圭三郎の言語学的世界観における存在論ないし人間学を相手にしてものをもうすのですが たぶんそこでは 次のように言っていると思います。: すなわち ★ まず頭の中で「言葉」を使用し作文を作ることにより「意識」が生まれる ☆ という表現で解釈するのは 微妙なように思います。 細かくなりますが: ( a ) ひとは すでに――言語を持ったときから―― 言葉の海を航くという存在のあり方をして来ており 世界における何ごともこの言葉をとおして対象と関係しそれとして意識し概念として把握している。 ☆ すなわち《言葉をとおして意識する》のなら 《意識よりも言葉が先だ》となるかのように受け取られるようですが これにはむしろ それでは《言葉は どのように生まれたのか? それに関連してそもそもヒトとはどういう生物としての存在であるか?》 この問いが先行していると考えられるのです。 つまりむろんその問いについての答えが 問題である。そして次のように捉えます。 すなわち: ( b ) 〔丸山圭三郎によれば〕 動物は 世界を《身分け》によって捉えている。つまりこれは 身におけるものごとの知覚をとおしてそれについての反応としての本能によって行動するという意味ですが しかるに人間は それに対してひと言で言うならば 《言(こと)分け》によっているのだと説きます。 ( b-1 ) 言分けとは 何か? ( b-2 ) まづ 動物が身分けによる世界知覚(かつ行動)であるところを すでにそこから一挙に《言分け》の世界に飛躍したかたちで 生まれて来ており存在しているのだと説きます。 ( b-3 ) すなわち ひとはもともと言葉とともに生まれて来る。言いかえると 言葉としての世界を《文 ないし 文化》と呼べば すでに初めに人は《文化人》である。つまり 《身分けによって生きる世界》を卒業して来ている。その意味で《自然人》ではなくなっている。と。 ( b-4 ) こうであるならば 動物における《身分け》によるモノゴトの知覚 としての意識でもなくなっていて 言分けとしての――すでに初めから言葉の海を航く――認識およびその意識の中に生きている。 ☆ こうだとすれば 次のように帰結されないでしょうか。: ( c ) なるほど《言葉が先にあって意識がそのあとに来る》と言っているようなのであるが その意味は微妙に違っている。それは なぜならすでに初めに《意識は 言葉という世界――しかも世界の全体を占める言葉の海――から派生して来る》と定義によって前提しているから。 ( c-1 ) 言いかえると 人はすでに初めから 動物のような自然存在ではなくなっている。つまり自然人ではありえなくなっている。すでにつねに言葉で世界を認識し その意識をつうじて生き動き存在している。そういう意味での《文化人》である。 ( c-2 ) この文化人であるというのは 全面的にすでにそう成ってしまっているのだと言うからには 言葉と意識との先行後行を決めることには あまり意味がない。のではないか? ソシュール≒丸山圭三郎の仮説では 《意識は 言葉に付属している〔に過ぎない〕》とまで言っているのではないか? ☆ このように考えます。 わたしは 人間は《自然人》であるところを残していると捉えますので 全面的な《文化人》説には与し得ません。 この意味での《文化人》であるというその中身は――丸山によれば―― 動物が本能によって生きているかぎり何も考えずまた悩まずにいて或る意味でしあわせである。しかるに人間は この意味での《しあわせ》なる世界から一挙に抜け出して来て成った生物である〔と仮説する〕からには 《錯乱せるひと(ホモ・デメンス)》であると見ざるを得ないとまで言います。 その根拠には ひとつに例の《言語記号の恣意性》なる仮説があります。 《恣意性》とは 文化〔人〕としての恣意性であって そこには《言葉以前の動物的感覚としての自然人》に対応する要素はないということのようです。 つまり 特には《ことば》の成り立ちについて言っているのであって それは 《シニフィアンとシニフィエとの関係は 恣意性として成り立っている(つまり 何の関係もないということ)》というのですが そうではないとわたしは反論しています。 自然の感覚としてのつながりが シニフィアン(音としての言葉)とシニフィエ(意味)とのあいだにあると実証することをこころみました。つまりそれによって 言語記号の恣意性なる仮説は ただの神話であるに過ぎないと考えてわたしは 全面的にソシュール≒丸山の理論を否定します。(ただし もっともソシュール自身は この言語記号の恣意性なる仮説を 著書として世に問うことはしていません)。 もう継ぎませんが よかったら次を参照ください。 【Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3187871.html (そこでの noname#80116 は わたしbragelonne です)。 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html
その他の回答 (4)
霊的に本質的なのは、会話としての基本でもある意味・ 印象・概念などの一瞬の認知かと これはインスピレーションなどが分かり易いかと思いま すけど? この一瞬の感受で、時には本一冊分の情報を書き出す事 さえ出来ますし、始まりとしても情報量は膨大になり得 ますよね 意味・印象・概念などの一瞬の認知・感受、やり取りと いうのは集中・散漫どちらでも起こり得るので、意識以 前か?、無意識・潜在意識的ともいえるかと? なので、意味・印象・概念などが本質的であり、言葉・ 顕在意識よりも先といえるのでは?と思います 言葉か意識か?とするのなら、顕在であれ無意識であれ 、それらの意識がなければ、またそれらの意識に拠って 言葉に構成されるのでしょうから、やはり意識が先とは いえるだろうとは思います
お礼
なるほど。インスピレーション。直感と訳していいでしょうか。 確かに直感は言葉に先立ち意識されて来るように私も思われます。 No・1の回答のxiongqinさんと同じように意識が言葉先立つ。 いろいろな方から、意見をお聞きしましたが、やはり意見が分かれますね。 私は、考えることが遊びで(お金がそんなにかからない)、構造主義を信仰して絶対言葉が先と固執しておらず、むしろいろいろな考えがあることが楽しいです。 回答ありがとうございました。
食欲を覚えるのは動物でも可能です。何か自分が食べたいもの(目的物)を頭の中に意識しているのかもしれません。その目的物が視野に入ったら即座に体が反応してそれに飛び掛るのでしょう。しかし彼らは自分で「おれは今、鹿の子供が食べたいんだ」と考えながらうろついているわけではないと思います。あくまで意識下で何らかの欲望を感じているだけでしょう。飛び掛るのは本能です。 人間はちょっと違うと思います。猟師は明確に「おれはいのししを探しているんだ」と思いながら山野をうろつきます。>自分がそれを意識していることを意識しながら というのはそういう二重構造のことを言っているのだと私は思います。そして、彼はそういう思いだけで生きているのではなく、それ以外にもあちこち景色自体を楽しんだり、里の村のことを思い出したりしています。そういう心の総体を最後の「…ながら意識する」と表現しているのでしょう。ここでそういった多重構造の複雑な意識を持つには、言葉が不可欠になるということです。 >意識の明確な定義はない。すべての定義は意識によって成立するものだからである。」 これは 意識の明確な定義はない。すべての定義は意識(された言葉(明瞭なものかどうかはおいといて))によって成立するものだからである、とすれば如何でしょうか。 意識は精神活動のすべてですから、言葉を用いるもの、あるいは言葉で現せるものがほとんどだと思います。逆にいえば、言葉がなければ意識されることはない(ものがほとんどである)ということでしょう。
お礼
コマアスさんお久しぶりです。覚えてらしゃるかわかりませんが、以前bragelonneさんとキリスト教の考え方のやり取りをしていた者です。 この哲学サイトの皆さんは本当に私では太刀打ちできないほどの膨大な知識をお持ちで、私はしばらく、ネットを離れ、読書してバージョンアップしていました。 前置きは置いておいて、コマアスさんのたとえを使った回答にかなり頭がすっきりしました。 コマアスさんはやはり言葉が意識に先立つという立場なのでしょうか? ここでベストアンサーでもいいのですが、もう少しいろいろな考えの投稿があればもう少し頭が整理されそうなので、このままにしておきます。 明日にひびくので今日は寝ます。
- bgm38489
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両方の定義を一つにまとめると、 意識を「意識」として感じるときには、その意識を言葉に翻訳して意識としてとらえなければ、意識として感じることができない、 恐らくそういった意味でしょうね。 すなわち、ぼんやりした意識を言葉にして初めて、明確な意識となるということです。
お礼
bgm38489さんは言葉と意識は同時に生成するという立場と考えてよろしいでしょうか? ぼんやりした意識というのが私にはまだ曖昧ですが、無意識も考慮に入れるのでしょうか? 以前投稿した時、無意識の存在は現在では否定されると回答がありましたが、本当でしょうか? 再投稿していただければ幸いです。
- Xiong Qing Ying(@xiongqin)
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爺で~す。 言葉が先と云うことは絶対に有得ない。 意識があって行動が起こる、しかし、それを他人に行動でなく伝えたい意識が表れ言葉が生まれた。 意識の後に言葉が生まれた、 その後が文字ですか 「人は何かを意識する時、自分がそれを意識していることを意識しながら意識するということになる。意識の明確な定義はない。すべての定義は意識によって成立するものだからである。」 意識があることは、只、それだけである。 その意識を意識することは意識の中にあるのですから、まったくの文字による表現のみであり意味をなさない。 それは、意識する。それだけです。 参考にならないかな~、あんまり難しく考えて分裂しないようにね
お礼
さっそくのご回答ありがとうございます。 久しぶりの投稿ですが、哲学サイトはありがとうポイントが半端じゃない専門家がいて助けられます。 xiongqinさんは言葉は後という立場ですか。 ということは、例えばまず羊(名前はまだない)という物体を見たとき、最初に見た人がその物体をまず意識して認識し、では羊と名つけようと皆と合意したという立場ですね。 構造主義を始祖と言われているソシュールはその考えは逆という立場のようなのです。 意識の定義を私なりにすれば簡単に「物事に気づいている状態の心」でいいのでしょうか? そろそろ寝ますが他の意見も聞けるといいです(お礼率100%を目指してますが手抜きになった場合はすみません) 再投稿もお待ちしております。
お礼
bragelonneさんお久しぶりです。私の投稿をここまで深く掘り下げてくださり、bragelonneさんのアガペーを感じます。 「そもそもヒトとはどういう生物としての存在であるか?この問いが先行していると考えられるのです。」 奥深いですね。 ヨハネによる福音書第1章1節 「初めに言葉があった。」 聖書は意味深な問いかけで、始まります。 ところでbragelonneさんのアマテラスの哲学体系は完成したのでしょうか?うまくいくことを祈念いたしております。 私はまたネットから離れ、読書して修行致します。 また、泥沼にはまったらご助言いただければ幸いです。 今回、回答をくださった、すべての方々にこの場を借りて感謝を申し上げます。