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『「いき」の構造』について
今論文の関係で九鬼周造氏の『「いき」の構造』を読んでいるのですが・・・ 九鬼氏は『意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」』を理解した後に『客観的表現を取った存在様態としての「いき」』を理解する。という書き方をしています。 私はこの『意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」』と『客観的表現を取った存在様態としての「いき」』がよく理解できません。哲学に詳しくないからかと思いますが、どなたかご教授お願いします。
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九鬼周造氏の「いき」の構造の中で、直方体を用いて説明してあるページが在りますね。その辺りを読むと判ると思いますが、「いき」は派手ではいけないし、かといって野卑でもいけない、というアンビバレントな中途半端な状態を維持すること、と述べられていますね。 その感覚を理解、且つ維持することを「意識現象」の範疇に置いています。想像すると判るかと思いますが、「私はいきです」と表してもいけない訳で、精神的な抑制状態を続けるので、楽ではありませんね。 「客観的表現」は、先の「意識現象」を心に秘めながら、嫌みにならぬようにそれを表出行為にあたります。これも勿論出し過ぎても隠しすぎても駄目な訳でして、下品な表現としてはチラリズムに近いですね。 九鬼周造氏がその一文で述べたかったことは、「いき」を理解した後、それを表す、と云うことですね。「形」から入らず「心」から入る、と云った感じに近いかと思います。
言葉の理解力とは、自分で例を見つけて広がりをもたせながら、かつ、話者のコンテクストに沿って狭めながら進む、想像力です。 この箇所だけがわからないということはありえない。 ほかのところでひっかかっても自力で進めるように、広く狭くを同時に考える想像力を養ってください。 深川芸者といってわかりますか? 江戸っ子の代表みたいな芸者です。 「いき」が意識現象の名の下に成立するありかたのとき、 芸者になりたての妓は、いきにしなくちゃ、いきにしなくちゃ、と、 縦縞の着物をすこし崩して着付け、帯をぐいぐいとナナメにまきつけ、 かかとをお風呂でぴかぴかに磨き、結った髪からわざとほつれ毛を取り出し、 えりが大きく抜けているか心配して半時間に一度は首や袖の具合を動かし、 背中に男の視線が来ているかもしれないから後姿に気をつけなくちゃ、と、 「いきにして」います。 「いき」が客観的表現を取ったありかたとなったとき、 ベテランの芸妓は、自分がどう映るか、どう見られているか、をまったく気にせず、 いきが身に付く、板についているのです。彼女が縞を着れば、帯を結べば、 それが「いきになる」のです。
- pasocom
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『意識現象の名の下に成立する存在様態としての「いき」』とは、「いき」という言葉が持っている「定義」とか「性格」「性質」という側面のことだと思います。簡単に言うと「いきという事の意味」でしょうか。 それを理解してからの、『客観的表現を取った存在様態としての「いき」』とは『いき』と呼ばれるような「見てくれ」「容姿」などの具体的な「状態」のことだと思います。
お礼
お返事ありがとうございます。 意味と状態ですか・・・理解が深まりした。ありがとうございます。