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《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?
- 福音書『ルカ』には、罪深い女がイエスに接近し、その祈りと愛によって罪が赦されるというエピソードが描かれています。
- 罪とは、人が神や他人に対して犯す過ちや悪行のことを指し、赦されることはその罪を許されることを意味します。
- 具体的には、この物語で描かれている罪深い女は、性的な行為に関わる罪、姦淫を犯していた可能性があります。
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これでひとつの完結した話だと思われます。 さて 問いです。 1. ここで何が起こったのでしょう? A.イエスが女の罪を赦した。 2. 罪とは 何でしょう。 A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。 ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE% … A.不明。 4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう? A.一般的には結婚しない(するつもりのない)男女の性的交わり。邪淫。 5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・何を赦したのでしょう? A.キリスト教的解釈では、罪は元々ない。なので正確には罪もないから赦すも赦さないもないんだけど、勝手に罪を犯したと思っているので、赦す、という表現にした。 6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言もしゃべらなかったようだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいにしたりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか? A.預言者であるイエスさんが来る、と聞いたので、自分の罪を赦してもらおうと思い、そういう行動をしたのではないか。愛のある行動を実際にしたので、イエスは「もういいんだよ」という意味でいったのだと思う。 7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実となった。のだろうか。 A.大筋その通りでしょう 8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう行為の中身がそうなのか? それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように? A.前出ですが、聖書では・・・アダムが深い眠りに入った・・・その後の記述で目覚めたと書かれていないので、すべて夢の中のお話。アダムが見た夢の中で起きた出来事は神様は知る芳もない。何が起ころうと夢である。だからどんなことをしてもある意味罪じゃない。(だからって何をしても良いってわけじゃない)赦すもなにもない。神は寝ているアダムの夢の中身を知らない。できるのは「ゆっくり起こすこと」だけ。 9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか? A.そういう見方もある。 10. ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか? A.そういう見方もある。非常に的を突いた良いクエスチヨン。
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- kurinal
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bragelonne様、こんにちは。 最近、時間帯が変わっちゃって。 >「あるいは 一般市民が 支配階層やそこの住人やに対して 痛烈な批判をおこなったりすること。これは 決して犯罪ではないと考えますが 支配層から見れば 都合のわるいことであり得ます。そういうことが たとえば社会のクウキとして 禁忌とされている場合がありますから この禁忌をやぶるなら 社会から村八分にされるといった仕返しが待っています。そういう場合の・法律のごときナラワシについて 話をしようとしていました。 ☆☆ (き) つまり問題は 常習犯のほうにあります。はっきり言ってそのようだと考えられます。常習犯であっても捕まらない人たちは 自分たちの秩序を保守するために いちど罪を犯した人間を世間の見せしめにして 法律という取り決め自体や取り締まりの強化に走る。 ☆ はっきりと《法律》と言ってしまっていますが 支配層の人間が言うウソ・イツワリは しばしば咎められることなく通ってしまう。のに対して ふつうの市民がその問題を取り上げたりさらには正したりするなら そのこと自体によってすでにあたかも罪を犯した者と見なされるような形があり得ます。」 なるほど、あり得ますが 「合理的ではない」ということに、なりますでしょう。 (なんとなれば?)あらゆる疑問に「答えて」こそ、の、民主主義でありましょうから。 >「法律のごときナラワシ」 これは、「前近代(・・・日本史で言ったら、少なくとも「明治」以前。江戸も近世だと言ったりするようですから、「戦国(良くて安土桃山)」ですか、)それ以前」の事象でしょう。「3割自治」との関係は、判りませんが。
お礼
くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なるほど、あり得ますが 「合理的ではない」ということに、なりますでしょう。 (なんとなれば?)あらゆる疑問に「答えて」こそ、の、民主主義でありましょうから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 全面的におっしゃるとおりです。 ということは わたしの話は 民主制のまだととのっていない社会においてかもしくは民主制が敷かれていてもなお法治主義ではなく人治主義によっていて 法律によって裁かれる人や場合というのは なかなか《合理的なあり方》にはならない社会――こういったいささか古い時代のことを言っていました。 でも 法律以前の段階では 事実としての資料や情報を統治者や管理者の側がにぎっていて これを出さない・明らかにしないということが起こり得ます。今でもです。 これを正そうとした人間は やはり法律の以前の段階で 葬り去られてしまうということも起こり得ます。そういう問題を言おうとしていました。(分かりにくかったかとは 思います)。 たとえば学校で校長を中心にした権限をにぎる人たちが 民主制をかかげつつ 問題などの処理においては きわめて自分たちの都合のよいようにしか行動しない。といった事例は まだまだ 現代・現在の日本社会における事例ではないかと考えます。 この質問では 回答者とのやり取りにおいて そういうウラ側の世界を特に取り上げようとしていたようです。一般論ではなかったようです。ご指摘をありがとうございます。
- kurinal
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こんにちは。 あのー、 宗教における「罪」という問題と、 近代以降の合理的な(刑)法における「(犯)罪(刑法定主義)」という問題とは、 明確に分けて記述して頂かないと、混乱すると思います。 >「要するに (あ) 罪といったコトはない。 (い) 心理的な(心のうわっつらの)ウゴキとして後ろめたい気持ちややましさを感じているところにもとづき 人びとは社会の決まりとして 禁止事項を話し合って決めた。それとしての《つみ》はある。 (う) この取り決めがやがてナラワシとして強固に持たれるようになると その社会秩序の関係からいわゆる上層の経営(政治)担当者たちは そのナラワシを自分たちの統治のための手段として利活用するようになる。 (え) タテマエとホンネ オモテとウラの使い分けによって お偉い方々はこの法律をうまく守ったかたちで生きていくようであるが 生き方の下手な人間は ホンネでもウラでも罪なる行為をおこなっていなくても そのような行為をオモテであたかも犯したというような羽目に落ち入らせられないとも限らない。 (お) そのような落とし穴にはめられると あとは 一たんとしてでも人間は心がねじれるようである。破れかぶれになりやすい。罪を犯してやれとまで考えてしまう。 (か) ルカのしるす《罪深い女》が こういった経緯を経たかどうか知りませんが 一例として考えるに その泥沼から わづかのきっかけを得て 這い上がって来た。とも考えられる。 (き) つまり問題は 常習犯のほうにあります。はっきり言ってそのようだと考えられます。常習犯であっても捕まらない人たちは 自分たちの秩序を保守するために いちど罪を犯した人間を世間の見せしめにして 法律という取り決め自体や取り締まりの強化に走る。 (く) そのことが さらにやがて広く行きわたったナラワシになると 人びとの遺伝子じたいに刷り込まれて来るのかも知れない。すなわち 《罪》などはもともとないのに それを犯す場合ということを取り上げて 人びとの心理をすくませることに成功する。かも知れない。」 「民主的な刑法によっても、「社会的な淘汰」が起こる(起こり得る)」ということは、考えられているようです。 それについては、「どこまでを本人の「責任」として追及可能か」という議論があるようです。 (「本人は最善(若しくは十分な措置)を尽くした、あるいは、仕方なかった(事情の結果)」というような、ことについては、結果だけを見てどうこう言うのは、理不尽である(から)。少なくとも「刑事責任」については、考慮しよう、とか。「冤罪」というのとも違う、「仕方なく追い込まれて犯した行為」みたいのについても、(合理的な)刑法上は、配慮が検討されている、ということかと。) 罪刑法定主義とは、「これをしたら、こうだぞ」とあらかじめアピールすることで、「それなら止めておこう」という効果を期待するとともに、過剰な刑の執行みたいのも、防止する。 (「一罰百戒」などというものとは、根本的に別物です。「(まず)戒あって、(ゆえに)一罰(罪)も無し」が本来のところです。) さらに憲法は「残虐な刑罰」も禁止しています。
お礼
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。確かに《ならわし》と《法律》とをごっちゃにして議論していますね。 要は 法律を取り上げるとしても ここでは 基本的な倫理規範として挙げられるものを言っています。姦淫の罪は 今ではありませんが 偽証罪にあたるような嘘・イツワリだとか 盗みや人殺しなどです。 あるいは 一般市民が 支配階層やそこの住人やに対して 痛烈な批判をおこなったりすること。これは 決して犯罪ではないと考えますが 支配層から見れば 都合のわるいことであり得ます。そういうことが たとえば社会のクウキとして 禁忌とされている場合がありますから この禁忌をやぶるなら 社会から村八分にされるといった仕返しが待っています。そういう場合の・法律のごときナラワシについて 話をしようとしていました。 ☆☆ (き) つまり問題は 常習犯のほうにあります。はっきり言ってそのようだと考えられます。常習犯であっても捕まらない人たちは 自分たちの秩序を保守するために いちど罪を犯した人間を世間の見せしめにして 法律という取り決め自体や取り締まりの強化に走る。 ☆ はっきりと《法律》と言ってしまっていますが 支配層の人間が言うウソ・イツワリは しばしば咎められることなく通ってしまう。のに対して ふつうの市民がその問題を取り上げたりさらには正したりするなら そのこと自体によってすでにあたかも罪を犯した者と見なされるような形があり得ます。 すなわちつまり えらい人がイツワリを犯してもお咎め無しにとおっていく場合というのは そのような常習犯が捕まらずにいることを正直に批判する人間が かえってワナに嵌められ犯罪を犯してしまうようなかたちに追いやられる。そのあと 《いちど罪を犯した人間を世間の見せしめにして 法律という取り決め自体や取り締まりの強化に走る》ということが起こる。 この《見せしめ》にされてしまった《罪ふかき人》が 心に悔いて たまたまイエスに出会った。うんぬんといった物語ではないかと捉えてみたものです。そのことを言おうとしていたのでした。近代以降の法律の問題としては この議論は はなはだ単純な成り立ちではありました。
- anthroposophie
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一種のバクティヨガです。
お礼
あんとろぽそぴさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 罪から それが赦されて 解放されるのは ★ 一種のバクティヨガ ☆ を経て達せられる心の状態である――ということでしょうか? それにしても ○ 罪 ☆ とは何でしょう? とも思われます。
- ukiyotonbo
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>ええ歳をこいて いつまでも おまえのかあさん でぇべそぉーって言ってる場合ぢゃない。 そんなことを記載した覚えはない。あなたの母親が出臍かどうかは全く関心が無い。 >哲学の王道をあゆむようにしなさい。 ということは、あなたは自分が哲学の王道を歩んでいると自覚しているということか。 哲学に王道も外道もありはしない。 あれだけ、スサノウがどうだの、悪はないだの言っておきながら、私の回答が出臍の話しをされたとかになって、他人に哲学の王道をあゆめと命令する精神性が実に愉快だ。神のご加護を。アーメン。パスタ。
お礼
現場に戻るという習性は ほんとうだった。 ご回答をありがとうございました。
- ukiyotonbo
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>どのように対応されるのが お好みですか? 哀れな子羊よ。汝の罪の大いなるを嘆き、悔いて涙せよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ○ 五十歩百歩 ということわざを知りませんか。あるいは ○ 天に唾をする あるいは ○ 自分のことを棚に上げて・・・ ところで ・ 《罪》とは 何を言うのか? ・ 《ゆるされる》とは どういうことか? あるいは ・ 《哀れな子羊》とは 何のことか?
補足
ええ歳をこいて いつまでも おまえのかあさん でぇべそぉーって言ってる場合ぢゃない。 哲学の王道をあゆむようにしなさい。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
聖書は比喩。 そういう視点で読めば、回答No.1さんが云うところの“悔い改める事”の大切さを教えているんだと思います。 懺悔の気持ちは人の心の好ましいほうの心=神の世界に属する心の思い、なので神の世界に住んでいる、イエスはこうした心に呼びかけたのです。その心こそ大事であると。 私の読み方は聖書学、ではないんです。 信仰として仏教目線で読んでます。 だから、聖書の成り立ちの時代背景なんて、不要なんです。
お礼
わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 実践理性? 判断力? あるいは 感性? すべては 一人ひとりの主観にゆだねられ 話としてそこに落ち着きますけれどね。 ★ “悔い改める事” / 人の心の好ましいほうの心=神の世界に属する心 ☆ これが すでに公理のごとく大前提になっている ということのようですね。 哲学は 何でもうたがう刑事のようなものですから。 ★ 聖書は比喩。 ☆ これは わたしも つねづね言いつづけていますので 一本を取られた格好ですが でもどのような比喩が(または どのような比喩で)言われているのか。これを明らかにすることも 大事だと思います。 ただしここに取り上げた話は それほど比喩の問題でもないようですが。でも 《罪 およびそれが赦されること》などをめぐっては 最初の定義から始めるべき課題をわれわれは持っている。ように思います。
- koiprin
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1、罪深い女でさえ、自分に精一杯の奉仕をしたのに、あなたは当然のおもてなしすらしていないではないか、とイエスがシモンを説教している。接する人に対し、常に精一杯のおもてなし(愛)を与えることが神から求められている、という事例。 2、罪とは、ユダヤ教における罪。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%BD%AA 3、具体的には書いていないが、もともと病人や女性に対して不寛容なユダヤ教であるが、キリスト教で登場する罪深い女は、娼婦と言う位置づけが多い。 4、姦淫とは、みやみにSEXすること。基本的には、結婚以外の肉体関係は姦淫として罪と考える宗教が多い。 5、神が、キリストに対する女の精一杯おもてなしの行為によって、それまでの女の罪とみなされる行為を赦した。 6、心のわだかまりは関係なく、その行為自体が重要であると指摘している。 7、イエスに対して盲目に神に許される行為を行っていることが、赦される必要条件である。 8、女が犯したであろう、神との約束を守っていないという罪。これを神=キリスト(三位一体論)に対して、赦されるための行為(自分ができうる限りの精一杯の奉仕)を実現したことにより、神の赦しを得て、神の国(俗に天国)に入る権利を得ることができた。 9、ユダヤ教、キリスト教は、選民思想がベースにあり、神との約束を守れないと地獄に落ちるよ、ということをキリスト教では言っている。 10、夢物語かどうかは、現実をどう受け入れるのかという価値観しだいかと思うが、リアリティを持てないというのは、直面できない何かがあることに起因していることが多いのではないだろうか。
お礼
こいぷりんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 2、罪とは、ユダヤ教における罪。 ☆ でしたら イエスに倣う者は ほとんど関係ないのではないでしょうか? モーセの戒律を初めとする規範は そのままでは 何の意味もないのではないでしょうか? ★ 1.・・・接する人に対し、常に精一杯のおもてなし(愛)を与えることが神から求められている ☆ 《おもてなし(愛)》は 人間のおこなうこととしては すべて相対的な内容となるしかなく けっきょくすべては 程度問題なのではないでしょうか? 五十歩百歩と言いますか その逃亡した程度としての五十歩にしろ百歩にしろのつぐないを この《おもてなし(愛)》によっておこなうとしても それは 程度問題だと考えられるからには 五十歩の人を 百歩の人より 五十歩その愛が少ないからと言って 叱るのは おかしい。のではないでしょうか? イエス あやまてり。なのでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. および 4、姦淫とは、みやみにSEXすること。基本的には、結婚以外の肉体関係は姦淫として罪と考える宗教が多い。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 哲学としての一般論としてのご回答でしょうか それとも ここでの特定のユダヤイズムないしクリスチアニズムにのみ通用する問題として扱っておられるのでしょうか? 哲学として問い求めたい。というのが 質問者のこころです。どうでしょう? 4-1. 《むやみにセックスすること》は どうして《罪》を構成するのですか? 《むやみに》というのは 具体的にどの程度なのでしょうか? (つまり いちいちその程度をお尋ねするのではなく やはりここでも程度問題なのであって 普遍規範として規定するものなどは一切ありえない ということではないでしょうか? と問い返しています)。 4-2. 《結婚以外の肉体関係》は 《姦淫》として規定するというとき それは 何が罪となるマチガイでしょうか? (ユダヤイズムやそこらの宗教だけの問題と見たほうがよいのでしょうか?) ★ 5、神が、キリストに対する女の精一杯おもてなしの行為によって、それまでの女の罪とみなされる行為を赦した。 ☆ ということは 《イエス》が 神であるということですね? そしてそれは 哲学としてのお考えでしょうか それともクリスにアニズムだけの話でしょうか? 後者なら いちいち問い求めることもないと質問者は考えています。 ★ 6、心のわだかまりは関係なく、その行為自体が重要であると指摘している。 ☆ その宗教内の問題に過ぎないとして 放っておいてもよろしいでしょうか。 それとも 《行為》についての 程度問題を超えたその中身の判定が 人間に出来るということでしょうか? つまり 哲学としてのご回答でしょうか? ★ 7、イエスに対して盲目に神に許される行為を行っていることが、赦される必要条件である。 ☆ 《盲目的に ただただ心と気持ちに突き動かされるままに 行動している》ということは 《赦される》かどうかの判定をおこなうはっきりした基準があるのでしょうか? はっきり言って ない はずです。こんな《赦される必要条件》は あって無きがごとし。だとわたしは断定します。 ★ 8、女が犯したであろう、神との約束を守っていないという罪。 ☆ 《神との約束》と言ったって 第三者にとっては さっぱり分からないですよね。 ★ 8.・・・これを神=キリスト(三位一体論)に対して、赦されるための行為(自分ができうる限りの精一杯の奉仕)を実現したことにより、神の赦しを得て、神の国(俗に天国)に入る権利を得ることができた。 ☆ 《神》は 人間にとっていっさい分かりません。 《精一杯の奉仕》は 程度問題であって 《成就し完成させた》と言ったとしても 誰にとっても同じ判断内容としては 何ら判定することは出来ません。そんな〔現実性の無さの〕分かりきったことが この宗教では オシエであり 決まりとなっているのでしょうか? 《神の国(俗に天国)》 これほど人をばかにした話はないのではないでしょうか。人をただただ 答えの出ない問題と話へと誘い込み囲っておくということ。です。 次のお話も こいぷりんさんの所為ではないでしょうが 同じたぐいの問題です。 ★ 9、ユダヤ教、キリスト教は、選民思想がベースにあり、神との約束を守れないと地獄に落ちるよ、ということをキリスト教では言っている。 ☆ これは 人びとを白痴と化させるための陰謀ですよね。 ★ 10、夢物語かどうかは、現実をどう受け入れるのかという価値観しだいかと思うが、リアリティを持てないというのは、直面できない何かがあることに起因していることが多いのではないだろうか。 ☆ もし このように考えて来たところから言うとすれば ひとつに《ユダヤイズムやクリスチアニズムといった特定の宗教の立ち場》は すべてこの質疑応答では 無用にして欲しいと思います。 ひとつに 従って 哲学として普遍的な内容を問い求めるということを目指します。 ひとつに 現実性がないのなら 致し方ありませんが ありうると――哲学として――考えられうるならば それでも 《罪とその赦し》といった主題は ただ一人の個人の主観内面にとどまるしかなくて やはり《夢物語》であるのかどうか。この点で 回答をいただけるとさいわいに思います。 というのも ★ リアリティを持てないというのは、直面できない何かがあることに起因していることが多いのではないだろうか。 ☆ という問いを発する前に そもそも《罪とは何か? 赦されるとはどういうことか?》を 哲学として考え答えを出すという課題があると思うからです。 その定義にもとづき リアリティの有無について考えることになるかと思うからです。 こういった問いになっています。どうぞよろしく。
- Y Y(@yy8yy8az)
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とても興味深かったです。 一読目はただただ、面白そうだ、なんとなく分かりそうだ、という感じでした。 二読目は、なるほど、たぶんこういう事か、と“感じ”を掴めました。 その“感じ”は、 たぶん、これは信仰の度合いを取り上げているんだろう、と云うものです。 信仰の度合いとは、言い換えれば「求め心」の強さの事です。 博愛、は神のこころ。それはこの宇宙に満ち満ちています。 でも、この神の心を得る為には受け止める心が必要です。 その心のドアは広いほど神の心を多く得ることができます。 信仰心の強さ、の事です。 真摯に神の心にすがりたい、という思いの強い者ほどその強さの分だけ神の愛を得る事が出来る、と云う事を言っているんだと思いました。
お礼
わいわいえいとさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ たぶん、これは信仰の度合いを取り上げているんだろう ☆ を出されると もう何も言えなくなります。 ひとつに 《信仰 ないし その度合い》は ほかの人が推量してもなかなか分かりがたいものだと思われるからです。 ひょっとすると 本人でさえ自分の信仰のあり方について 分かっていないかも知れない。分かっていると思っていた割りには そうではなくあとでがっかりしたり あるいは逆に知らないあいだに信仰が深まっていたと分かる場合があるかも知れません。 ひとつに 《信仰心のつよさ》が ★ 真摯に神の心にすがりたい、という思いの強い者ほどその強さの分だけ神の愛を得る事が出来る、と云う事 ☆ だとしますと いくつかの問いが待ち構えています。 (あ) イエスという男は 《神》なのか? (い) ▼ (ルカ福音) ~~~~~~~~~~~ 7:48: そして、イエスは女に、 「あなたの罪は赦された」 と言われた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このことの現実性は だれがどのように保証するのか? (う) 《神の心にすがり 神の愛を得ることができる》というとき その《すがる》心と姿は第三者にも分かるとして では 《神の愛とか それを得る》というのは いったいどういうことを言うのか? ――この女は ひと言もしゃべっていないので 《救われた》とも簡単には分からない。すべてはイエスの発言によって ことが進行している。 (え) では この女の《罪》とは何だったのか? 極端なことを言えば この女やその行動について賛同する人がいるとすればそのような人にとっては 初めに行動していたときそれとしての信仰を持っていて それによれば 自分の行動は決して罪などではないと確信していた。かも知れない。 (お) もし信仰が・その中身が変わったというのなら それは どう変わったのか? なぜ最初に持っていた信仰は マチガイだと言えるのか? 信仰と言うなら ひとそれぞれであり 十人十色なのだから それなのにどうして 罪を着せられるその信仰から来る行動とそうではない(マチガイのない)信仰および行動とが あるのか? (か) ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか? 10. ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この二つを合わせて 言い直すなら: 11. 《罪》と言うけれど――そしてその言わば基礎に よき信仰と間違った信仰とがあって 後者から罪なるおこないが出て来る と言うとすれば そうらしいけれど―― 考えてみるに すべては ひとりの人間の心の内なる主観として繰り広げられるドラマであるに過ぎないのではないか? 12. しっかりと声をかけ話をしたイエスでさえ この女と 必ずしもマジワリを持ったとも言えないのではないか? すべては もしそうだとしたら 女の主観の内で初めからしまいまで起こった事態であり そのいくらかはドラマチックな展開であった。ように思われる。けれどそれは 女の心の中におけるひとつの自己完結の姿としてのように映るのだが そうではないのだろうか? (き) わいわいえいとさんは 女が ここで《神の愛を得られた》と思われますか? めでたし めでたしでよろしいですか?
- ukiyotonbo
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まず、自らの罪を悔い改めよ。さすれば分かる。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 どのように対応されるのが お好みですか? ・ はいはい わかりまちた。お手間をとらせました。 ・ その《罪》とは何であるか? が分からない。どうやって悔い改めるの? ・ あなたの場合は どのように《悔い改めました》か? 具体的にでも理論的にでも お答えいただけますか? ・ 4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう? ・ 初めて読んだ場合であってもよいから 何か感想があるでしょう。ありませんか?
お礼
ます‐ぢょーぢさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ A.イエスが女の罪を赦した。 ☆ だとすると イエスは〔人の罪を赦す〕神か? あるいはつまり逆に言えば 人が人の罪をゆるすことが出来るのか否か? が 差し詰め問われると思います。 ★ 〔罪とは?〕――A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。 ☆ 人びとが――その一定の社会において――倫理的な規範を互いに取り決めるということですね。その取り決めに従わない・つまり破るということ これが 罪だというご見解でしょうか。 ★ 〔このルカのしるす罪深い女についての罪は〕――A.不明。 ☆ ごもっともです。具体的には書いてありませんから。 ★ 〔姦淫とは?〕――A.一般的には結婚しない(するつもりのない)男女の性的交わり。邪淫。 ☆ たぶん婚姻(婚約)の外でという条件を言っておられるものと思います。ふつう そのようです。 言いかえると――質問者がいくらか出しゃばりますが―― 連れ合いに対しても自分に対しても婚外の相手に対しても おのれの心をいつわること。特には連れ合いに対して裏切り行為となること。これが 人間のおこなう意志行為としてのマチガイではないかと考えます。 ヘソを曲げ さらにねじ曲げそのひん曲がった心で 元々のすなおな心にさからうなら 家庭はゆがみ延いては社会のすこやかさが失われて行きます。 ――たぶん《邪淫》という見方は 大したことはないものと考えます。そういう見方をすれば へそ曲がりが避けられるとでも思ったのか 社会としては そのように言い習わして来ているようです。《邪淫》と言ったって 誰しもに当てはまり 程度問題だと考えられますから。 あるいはつまり 性的マジワリにかんしては――そもそも人と人との交通(マジワリ)そのものについても 一期一会とも言ったりしてそれぞれの実存的な行為が問われると言わねばならないわけですが―― かんたんに複数の相手と一定の期間としての同時に関係を持つことは その相い対して接する心が分裂してしまうことになる。人どうしのマジワリは 一対一であって その《一》とは おのれの存在ないし人格の全体だということであるから その人格を脱がないことには 同時複数関係は おのれの心を荒んだものにしてしまう。こういったおそれの問題ではないかと考えます。 ★ 〔罪をだれが・どのように・その何を赦すのか?〕――A.キリスト教的解釈では、罪は元々ない。なので正確には罪もないから赦すも赦さないもないんだけど、勝手に罪を犯したと思っているので、赦す、という表現にした。 ☆ 《聖書》にのっとって《罪は 元々ない》にわたしも賛成します。(せいぜい アダムとエワのときに原罪を犯したのが のちにイエス・キリストの十字架上の死をもってする贖いによって 問われなくなったと見るのだと考えます)。 《勝手に罪を犯したと思っている》――これは そうしますと 先ほど考えて来たように もし個人だけの問題ではないとすれば社会として規範を取り決めたのだというその取り決め内容に違反した。というようなことであるかも知れません。他人もそうだと思うような事柄として その人が《勝手に罪を犯したと思う》ようになるのだと考えられますから。 だとしますと イエスは そういった社会の取り決めや個人における心理的なウゴキのあり方そのことを説明してやればよかった。とも考えられます。たぶん 《罪は赦された》という表現を使ったのは 世間のその取り決めやナラワシに従ったのだと見られます。 要するに (あ) 罪といったコトはない。 (い) 心理的な(心のうわっつらの)ウゴキとして後ろめたい気持ちややましさを感じているところにもとづき 人びとは社会の決まりとして 禁止事項を話し合って決めた。それとしての《つみ》はある。 (う) この取り決めがやがてナラワシとして強固に持たれるようになると その社会秩序の関係からいわゆる上層の経営(政治)担当者たちは そのナラワシを自分たちの統治のための手段として利活用するようになる。 (え) タテマエとホンネ オモテとウラの使い分けによって お偉い方々はこの法律をうまく守ったかたちで生きていくようであるが 生き方の下手な人間は ホンネでもウラでも罪なる行為をおこなっていなくても そのような行為をオモテであたかも犯したというような羽目に落ち入らせられないとも限らない。 (お) そのような落とし穴にはめられると あとは 一たんとしてでも人間は心がねじれるようである。破れかぶれになりやすい。罪を犯してやれとまで考えてしまう。 (か) ルカのしるす《罪深い女》が こういった経緯を経たかどうか知りませんが 一例として考えるに その泥沼から わづかのきっかけを得て 這い上がって来た。とも考えられる。 (き) つまり問題は 常習犯のほうにあります。はっきり言ってそのようだと考えられます。常習犯であっても捕まらない人たちは 自分たちの秩序を保守するために いちど罪を犯した人間を世間の見せしめにして 法律という取り決め自体や取り締まりの強化に走る。 (く) そのことが さらにやがて広く行きわたったナラワシになると 人びとの遺伝子じたいに刷り込まれて来るのかも知れない。すなわち 《罪》などはもともとないのに それを犯す場合ということを取り上げて 人びとの心理をすくませることに成功する。かも知れない。 ・・・・ ★ A.預言者であるイエスさんが来る、と聞いたので、自分の罪を赦してもらおうと思い、そういう行動をしたのではないか。愛のある行動を実際にしたので、イエスは「もういいんだよ」という意味でいったのだと思う。 ☆ なるほど。考えられますね。 ○ 8.9.10. ☆ 《アダムが深い眠りに入った・・・アダムが見た夢の中で起きた出来事》うんぬんについては 必ずしもよく理解し飲み込めていませんが これらについてのお答えは 留意してさらに問い求めて行きたい。とは思いました。 ★ 〔10.〕――非常に的を突いた良いクエスチヨン。 ☆ ありがとうございます。 ひとつに 聖書に忠実であろうとしつつ しかも哲学として問い求めたい。こういう狙いがありました。 ひとつに けっきょくクリスチャンの人たちからの回答がないということ。これを どう見るか。このあたりについても考える材料が増えたと思っています。