「マルコによる福音書8:35とルカによる福音書17:33について,これはどういうことか。単に、どちらかが他方の引用として用いられただけなのか。」
聖書をよく読んでおられます。今の時代を考えれば,まことに重要なことと思います。
結論をいいますと,前記2つのイエスの言葉は「神の規準と調和しない,自分が今持つ価値基準・精神傾向を捨て,神とイエスの明示された言葉を最重要視する態度を持って行動しなさい」という趣旨です。
ちょっと難しい意味ですね。やや詳しく述べます。
(聖書の言葉は,その記述の背景となる出来事,文脈(これが重要),その言葉を語る意図・目的,同じ趣旨の他の聖句との比較,などを十分に行った上で,神の霊の助けを受けるなら,意味を悟ることができるにちがいありません。)
まず,マルコ8:35の件は,その前に,同31節でイエスが,自分は殺され,よみがえる旨を告げたことに対し,32節でペテロが「いさめはじめ(る)」態度に出て(※1),それに対してイエスはペテロの考えを退け,叱責し,それに続いて同35節の言葉「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て…わたしに従ってきなさい。」,「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」と言われました。
ここで,※1の「いさめはじめた」(日本聖書協会1954年版口語訳)の記述ですが,上記「同じ趣旨の他の聖句との比較」をしてみますと,例えば,マタイ16:22では,
「すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。」(同)
「 ペトロは彼をわきに連れて行き,彼をしかり始めて言った,「主よ,とんでもありません! あなたには決してそんなことは起きないでしょう」。」(電網聖書[概ねアメリカ標準訳])
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 」(新共同訳)
「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(新改訳1970)
と訳されています。このペテロの態度に対して,イエスは,叱責の言葉を告げ,それに続いて(その文脈で),上記の「自分の命を救おうと思う者はそれを失い…」と語ったのです。
すると,「自分の命を救おうと思う者は」とは,何を言おうとしていると読み取れるでしょうか。もちろん,解釈は自由であるわけですが,価値ある解釈とするには,「真摯に正しく読み取ろうとする人の,だれがみても,そのように解することができる」ものでなければならないでしょう。
そうすると,マルコ8:35の言葉は,どういう意味だと読み取れるでしょうか。イエスは,端的に言えば「自分は神の明示された意志に従って,苦難にあって殺され,死ぬ。そしてよみがえる」というのです。それに対して,ペテロの言葉は,同じく端的に言えば,「そんな考えをしてはいけない!どんな理由があろうと,死んではいけない!」ということでしょう。(当時のペテロが,イエスの語ったことをどの程度把握していたかはともかく,「ペトロは彼をわきに連れて行き,彼をしかり始めて言った」(マタイ16:22)というのですから,ペテロは具体的行動に出たので,言動には責任が伴うでしょう。)
では,イエスとペテロのやりとりの主題は何でしょうか。
これは,崇高な問題です。なぜなら,現在のところ,人はすべて死すべき人間として生まれてくるからです。つまり,どんなに生きたとしても,遅くとも寿命が来れば死ぬ,という現状なのです。それに対してイエスは,「命を救おうと思うものは」というのです。この言葉は,「救おうと思う」の部分に重要な意味がある,というべきでしょう。というのは,イエスは,他の時に,怒り立ったユダヤ人たちから,崖端から落とされそうになったり,石をぶつけて殺されそうになったことがあり,その時,だまって殺されるままにはならず,その場を去るなどの妥当な避難行動をとっているからです。(ルカ4:24-30,ヨハネ8:59)このような聖句を読むと,「命を救おうと思うものは」の意味が,すこしずつ明らかになってきます。
上記の,いわば「避難行動」は「命を救おうと」する態度でしょうか。そのように言えなくもないですが,やや趣旨が違うようです。なぜなら,人間一般は,もし敵の攻撃から逃れて,その場は助かったとしても,寿命が来れば死ぬ,という現状からは逃れられず,いずれ死ぬからです。イエスは,自身の使命(神が望んでいること)が果たせなくなるような危害から,その都度逃れているにすぎません。その場の「避難行動」のようなものによって「救い」が得られる,とはいえないでしょう。
イエスは,何を念頭に置いて「命を救(う)」ことについて語ったのでしょうか。
イエスの場合は,罪を持っていないゆえに,一般の死すべき人間とは異なり,死に支配されていません。しかし,聖書によれば,イエスは,全人類が,神の規準にかなった仕方で「命」を得ることを可能にする目的で(マタイ20:28)神から遣わされました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
上記のような聖句は,おおいに参考になるのではないでしょうか。それで,イエスは,人間が創造された当初持っていた「命」,つまり,神のかたちに創造されたときに神から付与された,生き続けるものとしての命(そのことは,善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬであろう[創1:27]の趣旨から明らかです。)のことを主題にしている,と読み取るのは,妥当ではないでしょうか。
長くなりましたが,マルコ8:35の意味を正確に把握するために,何かのお役に立てれば幸いです。
もちろん,ルカ17:33の意味が残っていますが,本投稿も長くなりましたし,もし機会が与えられましたら,お答えできるものと思います。
補足
イエス再臨のときに人を2つにわけるといっています。マタイ25章の後半で、来臨する人の子が、永遠の刑罰を受ける人と永遠の命に至る人に分けると言っております。