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情欲は罪ですか
- 情欲は罪であるかについて、アウグスティヌスの『三位一体論』の一節が考えさせられる。
- 魂は善き意志によって、情欲を内的なものとしてではなく、公共的なものとして捉えることが求められる。
- 情欲には弱さがあり、魂が身体の感覚を通じて得るものを追い求めることは恥ずべきこととされる。
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primeapeです。 私は野望と野心を言葉として使い分けています。 野望なら欲望の眷属です。 野心は感情が伴っており心に内包しえます。 野心の役目は欲望を出し抜く事で、無意識の積み上げた縁起すら打ち破る一匹狼です。 欲望に感化しなくなった後の野心は、その徳の高さゆえに運命すら打ち砕く存在としての本領を発揮します。 物事(現実)を好転させるきっかけを作ってくれる野心です。
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primeapeです。 A10.11のお礼と補足は理解し易かったです。 要するに人間性への回帰が栄光の道なんでしょうね。 野心の話はメチャンコ悪魔君の格闘技で事情が判っていたのですが、brageloneさんの場合は自己の同一性と切りはなされない段階で判りえたのではないかと推測します。 私もいつまでも無意識の話をしていると魔法使いか霊媒師にしかなりえませんが、そろそろ何とかできそうです。 天性とは心の本質しだいでそれはわれわれ無意識をも超越している。 そんな話をメチャンコ悪魔君がたどたどしく幼い言葉で語っていました。 続アラーヤ識のほうは少し考える時間を置いてから挑戦したいと思います。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 ふうむ。特にご異議は持たれていないようですね。 とすれば ● 《野心》とも言うべき裸の意志 志向性は持っているが しかも まだ白紙の状態であるような・そして知性の柔軟性とでも言うべき内容だけから成る意志 これが 世間のしがらみを 受けとめつつ それによって影響を受けつつ しかも このしがらみの泥沼から首ひとつを出して超えている。これによって 人は 相手との関係で(そして広くは社会との関係で) つねに並走しつつ 伴走し合って 帰郷の道を みづからをうんうんと押し進めつつ 歩んで行く。 ▲ それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 ● というような 個人としては人生 社会としては人間関係の情況を 捉えることが出来る。これは やがて 意志の志向性を ささやかにでも 現実において発揮するようになるだろう。たとえ これの実現が遅れたとしても この《常なる試練の道》は 偉大であり 言うとすれば 人間にとって 《栄光の道》である。 ☆ ありがとうございました。里程標を書くことができました。 わたしの場合 伴走はしていたのですが――相当長い期間 捕捉されたかのように 並走していたのですが―― 接点がなくなってからは 相手の欠陥を憎むことのほうに 重点を置いていました。そして 結果として 成果は得られませんでした。試練が一たん終わったのですが その到達地点では 成果を得られませんでした。ですから なかなか このアウグスティヌスの文章を読み取ることができなかったようです。 ひとまづたどりつきましたね。おかげさまで 晴れました。重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
primeapeです。 今回は一緒に考えて欲しいことがあります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 鬼神の声を要約すると、生まれたとき予め人生の全てを書き綴った本を携えて生を受けるようです。 この本は神様のお膝元で自らの意思で書いたものです。 そして生きている間は自分自身が何者であるかを忘れ、神様のことも忘れ、運命がまるで悪夢に思えその行いに罪を抱く。 こんな感じのようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この理論のみそは ★ この本は神様のお膝元で自らの意思で書いたものです。 ☆ にあると思います。えらそうに言っていますが これで 上の基礎が生きていると感じます。 アラーヤ識の組み上げた縁起説を覆したのは無神論と無意識世界にある神様が実際に不在の戦場との区別が一般についていないことに危機を持って「永遠の存在」を起草する言い方に改めたゆえの論理です。 brageloneさんの言う無神の神が私自身ピンと来ません。 信仰心を表ざたにしなくても神の存在を認めた日本人の深層について語る良いアイデアはありませんか?。 それから、この論理そのものについては生まれたときに持ち合わせた本が白紙の日記帳だとしか判らないことが無意識においてすらありうるでしょう。 記憶が過去だけをあらわすものだけではないと証明できれば無意識は羽ばたく翼を持ちえます。 運命についても判り易くなると思いますがいかがでしょうか。
補足
そうですね。 ★ それから、この論理そのものについては生まれたときに持ち合わせた本が白紙の日記帳だとしか判らないことが無意識においてすらありうるでしょう。 ☆ これは そういうことだと思われます。みづからの意志が 宿っているという潜在的な可能性のようなかたちであり あるいは 知性の柔軟性をゆがめるという可能性さえ宿しているというのかも知れません。 ★ 記憶が過去だけをあらわすものだけではないと証明できれば無意識は羽ばたく翼を持ちえます。 / 運命についても判り易くなると思いますがいかがでしょうか。 ☆ ですから いま考えられることは 潜在能力としての意志 これが宿るというかたちで 《未来という時間における出来事についての記憶》も あると言えばあるようだと思われます。ですから 《運命》についても それを ★★ 神様のお膝元で自らの意思で書いたもの ☆ だというところが 味噌であるように受け取るのですが。 ★ brageloneさんの言う無神の神が私自身ピンと来ません。 / 信仰心を表ざたにしなくても神の存在を認めた日本人の深層について語る良いアイデアはありませんか? ☆ これは どうですかね。《随神(かんながら)の道》といえば 神の語が入っていますね。《ことだま(言霊)》は 《神》のはたらき・現われのような現象をいうことにまで降りて来ていますし。 《汎神》では どうも あいまいな感じを与えるでしょうし。 《なぞ》では 《神》のことだとは分からない場合があるでしょうし。 《不在なものの現在》ですとか。いっそのこと 《現実 / 現実なる神》のごとく表わしても面白いかとも思うのですが。 そもそも 《無神》の神を言ったのは 要するに 《神》の次元では 《有神》にしても《無神》にしても 同じことだという捉え方からでした。《神がある》と言おうが《神はない》と言おうが けっきょく 神もしくはそれへの信仰を言っているという捉え方です。 そのほかには 《絶対・絶対者・超経験・超自然・無限・永遠》などだと思います。《無限》の一部分は やはり《無限》だというような説明です。 無限とは こういうものだと言って 示すことは出来ないと思います。概念として想定して 《無限》であるものの代理によって説明しているのだと考えます。じゃあ無限はないかと言えば そうも言い切れないはづです。この世の経験世界としての有限 これを超えたところに 無限を想定するというかたちは取れると思われます。 なんか ちょっと 話がずれてしまったような感じですが よろしくどうぞ。
primeapeです。 A7のアウグスティヌスの引用は適切でわかり易く人間とは昔から自らの行いの意味に気が付いていた事がうかがえます。 とは言うものの難解な文章ですが、読みこなして応用しているbrageloneさんの教養も尊敬に値します。 >(A) 《★ この世に体現しうるのは「愛」のみ》と気づくことと 私自身は少しずつ気が付く感じです。 言葉が表す心象よりも、行いで悟らされることが多いです。 それぞれの行いの積み重ね、事の成り行きに「愛」と言うよりも、振り返ってわれに返ると神様の中に居た。そんな感じです。 >(B) その自覚を 現実にどう実践するか 仰々しいことは出来ないので見守るように支えることから始めてます。 もしも無理やり全身全霊の愛を体現するなら自己催眠にかかるしかないです。これは15年位前に試したことがあります。神様を体に卸した霊媒師のような状態になって驚かれました。何のことはない無意識の自作自演による愛の体現だったのですが。当時世間慣れしていなかった私の無意識は問いかけにあまりにも素直に応じすぎた結果でした。 (C) (B)の実践の道は (A)について無自覚であったその同じ道を歩む過程で 実現するのではないか。(その間に 自覚による姿勢や態度の変化は 大いに起こっているのですが)。 いきなり全てが変わる又は判るということは無いので少しずつそのようになるのではないかと思います。 >(そうして そこでは この能力の欠如によって むしろ 触発された想像力が いやに翼を拡げて 世界を描きます。この自分自身で紡ぎ織った世界の像が しかも あたかも その人にとっては 神の国であるかのように 見えるということではないでしょうか。やけくそのごとき想像の世界であるようですが)。 心象世界に広がる偽物の夢。 大霊界と呼んで私を困らせている世界です。 大霊界といえばテレビでおなじみの霊媒師の江原某。 アウグスティヌスがわからなくても江原某の説く大霊界がわかりやすいとは何たることでしょう。 一冊だけ彼の著書を読んだことがありますが漫画本だと思えば面白みがありました。 一度、生前に思い至る死後の世界が無意識の想像世界であり実際の魂とは関係ないことを説明したいのですがなかなかきっかけがなくて言葉を紡げないで居ます。
お礼
primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 今回は かなりよく分かります。 ★ 愛の体現 ☆ これを 一歩一歩 すすめていくかたち。あるいは 事後的に そのようだったと気づくくらいで 相当の段階にあるであろうということ。 ★ 自己催眠としての試行 ☆ をおこなったとおっしゃっていますが とにかく 《一歩一歩》だということ。 ● 棘は抜かれたのだけれど その患部の癒えるのは 時間を要する。 ☆ というような言い方で説明していたと思います(Augustinus)。 ・ 想像力というのは 人間にとって 白魔術にしろ黒魔術にしろ 相当 翼をひろげて 羽ばたくようですね。感心します。 そして 批判は ともかく まづ初めに 互いに相手との関係で 絡まった状態に入らなければ 始まらないのだと思われます。この絡みということが 日本人の間では むつかしいように感じます。たとえ絡んでも いつでも すり抜けて行くようです。
primeapeです。 もう1つ、技術的問題です。A6, >、一旦衝動に還元された結果はどのようにも抑えることが出来ません。 虚実取り混ぜることではぐらかすことは出来ます。 これを以前に右脳と左脳の答えの出し方の違いとして弁明していました。 迷いを意図的に生じさせるとでも言い換えることが出来ましょうか。 危機回避とも言える心のバランスのとり方です。
お礼
★ 虚実取り混ぜることではぐらかすことは出来ます。 ☆ それは そのとおりでしょう。実際には いやというほど その事例は見受けられます。この質疑応答においても そのような応答を しばしば受けています。 うそを しばしば 言うことになりますが それが虚偽として通るということには 抵抗します。虚偽が現実となることを 受け容れるということが出来ないという能力を 人は持つと考えます。虚偽を難なく受け容れることが出来るようになったという姿は 人間のこの自己同一性にとどまるという能力を 少しづつ 喪失してしまった状態なのだと考えます。 (そうして そこでは この能力の欠如によって むしろ 触発された想像力が いやに翼を拡げて 世界を描きます。この自分自身で紡ぎ織った世界の像が しかも あたかも その人にとっては 神の国であるかのように 見えるということではないでしょうか。やけくそのごとき想像の世界であるようですが)。
primeapeです。 >それにしても このとき かれは 誤謬に満たされ歪んだ知性によって捉えた世間の現象を あれこれ こねくり回していると 一見すばらしい世界が立ちあがったと見えるようになる場合があると言います。すなわち この世に体現しうるのは「愛」のみ。 (のはづですが)大半のひとは無自覚です。 「悪」が空想のみに存在するのはその証明の1つです。 >野望の描く世界が持つかに見える或る種の魅力というところでしょうか。 野望は基本的に欲望の眷属です。 魅力を感じるのは感情に還元できる(良性の)「野心」と、境界があいまいだからです。 「感情がない」イコールに近く「魂が伴わない」です。 何もかも無意識にゆだねる体験が私独自のもので思考の個性に結びついているようですね。 一見危険な「賭け」に思いますが、何もかも手放すことはいいことです。知りうるのみで実感が伴わないことが要するに「無心」のみで「無の境地」のなさです。
補足
primeapeさん こんにちは。午前中は 久し振りに仕事でした。ご回答をありがとうございます。 ★ 何もかも無意識にゆだねる体験が私独自のもので思考の個性に結びついているようですね。 ☆ このように積極的に すすんでは わたしは 意識に紛れ込んだ挟雑物を削ぎ落とすことはしませんが(つまり 普段は 放っておきますが) 思考の作業に先立って 観想として問い求めるというとき あるいは 単純に 思いが濁ったと感じたときなどには その外から入ったものはすべて 取り払います。たとえば次のようにです。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。 * 精神においてであっても 一定の観念を表象し そこから自分の 世界として何らかの想像を為すときには 《物体的な似像(にすが た)》が しかるべき《真理》なるものを 自己のこころの傾きによ って 曇らせてしまう。 それらは 私が 神は真理にましますと言ったその最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。 真理 と語られるとき 君がいわば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。 しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。 * まだまだ むろん 世間のしがらみの中にいる自分に気づく。 私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。 (アウグスティヌス:三位一体論 8・2・3) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《何もかも無意識にゆだねる体験》は 《独自》ではないかも知れませんよ。細かい作業の点では 個人によって異なるでしょうけれど。 また 《意志》も こころの《重さ》だとも言いますが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >野望の描く世界が持つかに見える或る種の魅力というところでしょうか。 野望は基本的に欲望の眷属です。 魅力を感じるのは感情に還元できる(良性の)「野心」と、境界があいまいだからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それでも primeapeさんにしても ★ 感情に還元できる(良性の)「野心」 ☆ というように 野心に《良性の》ものをも見ておられることに共感しました。 (その意味は 煮詰めたかたちでは こうだと思っています。欲望や野心について それらから自己を解放する道は その欲望などを推し進めるというその同じ道をとおってであるように思われるからです。姿勢としては 違ったかたちが その途中で 現われるのだと思われます。要検討です)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この世に体現しうるのは「愛」のみ。 (のはづですが)大半のひとは無自覚です。 「悪」が空想のみに存在するのはその証明の1つです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 上の検討事項にかかわって あえて お尋ねしようとすれば こうなります。つまり (A) 《★ この世に体現しうるのは「愛」のみ》と気づくことと (B) その自覚を 現実にどう実践するか とは かなり 開きがあるように感じます。つまり 極論すれば (C) (B)の実践の道は (A)について無自覚であったその同じ道を歩む過程で 実現するのではないか。(その間に 自覚による姿勢や態度の変化は 大いに起こっているのですが)。 です。いかがでしょうか。
primeapeです。 教養に乏しい私がアウグスティヌスに関してこれ以上書いても退屈させるだけですが、かれの思想は信仰において独自の会派などを創造したのでしょうか。そうでなければやはり至高の精神の証明のみで薬効に乏しいのではないかと思います。 >デーモン現象を回避するコツまで行き着いているのかもしれません。 これに関してはbrageloneさんの解釈のほうが正しいです。 わたしはどうも改造手術を受けた特殊兵器のような心情がありまして敵を攻撃する手段に興味しんしんです。 ★ 知性だけが孤立して体の衝動に翻弄されたのが性欲。 ★ デーモン現象 ☆ は 直接には――性衝動とはかかわっているでしょうが―― 性行為とは関係ないと思いますが いかがお考えになりますか。 ここで知性を引き合いに出したのは、デーモン現象が性的衝動でなく性的妄想のみに関与していて、それにゆがんだ知性の生み出す欲望が関与していると、おおむねこのような解釈を提案します。欲望の話に所詮真実はありません。したがってその場限りの解釈です。 それから私の改造人間振りを示す特殊な体験ですが、自分自身に持ち合わせるのは存在の自覚のみで「意思」すらも無意識側に預けてその場にただ「ある」だけの存在として自らの体が力強く働くのお眺めたことがあります。 このときはコンピューターの基礎プログラムを書き換えるように判り易くやさしい観念を完成する総仕上げで、そのように振舞う最中にも何者か敵対する存在を実感しました。敵対する存在の定番メニューは「悪」「よく」「罪」ですが、そのような言葉で表すより脳の思考能力の柔軟さが生み出した自由意志を脅かす影のような幻と言ったほうが正しいかもしれません。 敵と言いましたが、所詮そのようなものは存在しないことを証明するのが目標です。 無意識とは本来存在とは切り離されないものですが私の場合この手の才能が突出しています。 「意思」すらも手放した体験のある私には「意思」を自分の持ち物のように語ることすら出来ません。 「衝動」は、縁起の計算結果の出力です。 このときたとえば殺人を犯すなどと言う最悪の回答でも無意識は歯を食いしばって結果を抑圧することは出来ません。 縁起そのものは実際に可能な限りよい結果を出力するように調整されていますが、一旦衝動に還元された結果はどのようにも抑えることが出来ません。 その意味で意思は衝動に必ず敗北します。 子供の頃は無意識も幼いので現実に適合しない結果を出力する無いものねだりもあります。 その結果、現実とは間違いなくその場にあるものですが、それを受け入れない思考の源となる悪い癖をつけたままの幼稚な大人も居ます。(ありもしないことお探す。現実を受け容れられないなど) この悪い癖が意思で衝動を抑圧する可能性を考え出す由来です。 それが本当に出来るかどうかは私は確かめたことがありません。試行したことは自分の記憶にもありますし、その最中の方をまじかに見たこともしょっちゅうです。 >知性が五感と一体になって心身のバランスが取れた状態なら健康な性的衝動。 これは衝動を抑圧する必要もないことの一例です。 この場合知性が上位である必要もなさそうですが。
補足
primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なるほど けっきょく 意志か知性か(わたしの言葉で 意志か知解行為か) そのどちらに重点を置いて見ているかによって 表現が 違ってきている部分が大きいようです。 ★ ここで知性を引き合いに出したのは、デーモン現象が性的衝動でなく性的妄想のみに関与していて、それにゆがんだ知性の生み出す欲望が関与していると、おおむねこのような解釈を提案します。 ☆ →デーモン現象は まだ その人の意志の発動にまでは至っていないという言い方と 同じようです。 ★ 「衝動」は、縁起の計算結果の出力です。 / このときたとえば殺人を犯すなどと言う最悪の回答でも無意識は歯を食いしばって結果を抑圧することは出来ません。 ☆ →これは 意志が 或る程度の段階で 衝動の強さに屈服するという事態に当たっているようです。 ★ 欲望全体は知性の柔軟性の欠如による歪みに見えます(ANo.5) ☆ →これは アウグスティヌスの文章と照らし合わせることが出来ます。 ▲ 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。(質問趣旨) ☆ それにしても このとき かれは 誤謬に満たされ歪んだ知性によって捉えた世間の現象を あれこれ こねくり回していると 一見すばらしい世界が立ちあがったと見えるようになる場合があると言います。すなわち ▲ 物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 ☆ 野望の描く世界が持つかに見える或る種の魅力というところでしょうか。(野望は必ずしもわるいというのでもないでしょうが)。あとは ★ この〔現実・・・を受け入れない思考の源となる〕悪い癖が意思で衝動を抑圧する可能性を考え出す由来です。 ☆ これは いわゆる頭でっかちですね。逆立ちして 頭で歩いているというような。 アウグスティヌスは 初期キリスト教教会関係者の聖書講解や神学を集大成しつつ完成し その後 或る種の仕方で模範となりました。ただ この有神論が かれにとっては 大前提ですから たとえば 未信徒でも 信仰者と同じ境涯に達することはありうると認めているものの あくまで この特定の信仰が やはり大前提となっています。つまり すべてに渡って そういう書き方をしています。きわめて合理的な思考と判断をしていて 最古の近代人とも言われますが 大前提は 色濃く その文章のすべてを蔽っています。 それでもその文章は 信仰にとって 一種の権威を帯びていると わたしは思っていて これを 現代人としてまた日本人として 書き替えたいと思っています。 こんなところでしょうか。 ★ サイボーグの点については まだ しっかりとは 把握し得ていません。
primeapeです。 A1の性欲についてもっと判り易く。 知性だけが孤立して体の衝動に翻弄されたのが性欲。 知性が五感と一体になって心身のバランスが取れた状態なら健康な性的衝動。 欲望全体は知性の柔軟性の欠如による歪みに見えます。 この柔軟性には、いわゆるデーモン現象に自然体でいる事も含まれます。 アウグスティヌスの薬効の無さはデーモン現象を回避するコツまで行き着いているのかもしれません。 少しはしたない話ですが、他の方の性欲に関するご質問なら欲望の何たるかを説明する言葉が浮かんでA1よりももっと一般受けする汚い文章を書けたのですが、brageloneさんの知りたいこと、または知りえていることがそのような言葉を必要としなかったのでアンドロゲンを引き合いに出した自分でも判りにくい説明になったようです。
補足
primeapeさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 今回は 賛同と違いとが入り組んでいます。正直に記してまいります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 知性が五感と一体になって心身のバランスが取れた状態なら健康な性的衝動。 欲望全体は知性の柔軟性の欠如による歪みに見えます。 この柔軟性には、いわゆるデーモン現象に自然体でいる事も含まれます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これを わたしも 基本と見ます。アウグスティヌスも 同じような見方をしているとも思われます。つまり ★ アウグスティヌスの薬効の無さは ☆ というところが いま一つ分からないでいますが ★ デーモン現象を回避するコツまで行き着いているのかもしれません。 ☆ というのでもなく どちらかと言えば やはり同じく ★ デーモン現象に自然体でいる事 ☆ を含んでいるようにも考えていました。ただし かれは 教会の司祭という務めにありますので――当時の習慣上としてでも―― 独身を基本としました。その状態から見れば そのまま ★ デーモン現象を回避するコツまで行き着いているのかもしれません。 ☆ かれは 友人への書簡でしたかに 朝起きてみると 布団が汚れているのに気づくと ああなんと情けないと思うというようなことまで書き記していたそうです。(夢精ですね)。 ★ 知性だけが孤立して体の衝動に翻弄されたのが性欲。 ☆ わたしは むしろ――《知性》でないとしたら やはり――《意志》が 《体の衝動》に屈服するのだと思います。《翻弄》されるというのが まだ内面の段階では それだけのものだと思われるとともに そのあと どこかの一時点で 知性も意志も 抗(あらが)いがたい衝動に はっきりと 白旗を挙げるのではないかと受け取っています。そのつてでは ★ 知性が五感と一体になって心身のバランスが取れた状態なら健康な性的衝動。 ☆ これは 一方で やはり 意志の・衝動への屈服があるということをまだ排除し得ないと思われると同時に 他方で こんどは 相手との関係の問題になると考えます。後者は 信頼関係いかんの問題であるという受け取り方です。 《欲情のない生殖》をさえ想定していた人がいると思えば 相手との関係で この地上において 《健康な性的衝動》が起こるし 実現すると思っています。 ★ デーモン現象 ☆ は 直接には――性衝動とはかかわっているでしょうが―― 性行為とは関係ないと思いますが いかがお考えになりますか。 優越感もしくは支配欲と一体となった性衝動やあるいは性欲が からむと言わざるを得ないと思いますが この《意識の排泄》ないし けっきょくは 《一般に自分より上位の者から受けるストレスから来る挟雑物としての意識 そういった意識の〈アース〉作用》は そのデーモン作用の行為じたいで 一たん 完結するものであるように見ています。《ガス抜き》のようでもあるのではないでしょうか。 さらに細かく また一般化して 論じなければならないかも知れません。いかがでしょうか。 ★ 薬効の無さ ☆ については さらに考えてまいります。
primeapeです。 しつこく繰り返しますが、 私は頭を真っ白にして何も考えない状態にならます。 普段はこの心理状態を唯識的手法に基づくと説明していますが、その実態は暴走した無意識に心をばらばらにされ外科手術で人間性を回復したようなものです。 ですからどこかサイボーグじみています。 戦闘兵器です。 brageloneさんは哲学の何たるかを教えてくれる貴重なご質問者なので今回のご質問の内容のアウグスティヌスの解釈に真剣に取り組んでみました。 まづ、翻訳した古典なので原作者の感情が伝わりません。 どこか超越した書き方で、神又は天使に支えられて書いた文章ではないかとなんとなく感じるものはあります。 私なら(日本人的に)一人で高みを目指すよりあとに続くものの手をとります。この場合情欲を昇華させる具体的処方箋に話が行きますが、この文章がそうであるならなぜか難解でなじみません。 書いてある内容は美の体現又は案内とでも言いますか、読み解く事は可能です。要するに現代になじむ言葉で性欲の尽きた果てに確かな人間らしい愛と美があるとでもいいましょうか。 そのように「案内」していますが、薬効が見当たりません。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 これまで 《なぜ偉大なのか》が分からなくても 《人間にとって常なる試練が私たちを捕捉する》ことについて 分かったように捉えて 味わおうとして来ました。 それによりますと ★ 私なら(日本人的に)一人で高みを目指すより あとに続くものの手をとります。 ☆ ということが――東と西の違いを超えて―― この一文つまり ▲ 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ること ☆ だとは思うのです。primeapeさんのおっしゃる内容としての積極性に対して アウグスティヌスは 《いやいやながら そのように捕捉された境遇に甘んじる。それでも これを全うする》と言っているようですが。 きわめて単純に解釈するとしますと ● 男にせよ女にせよ 公式・非公式の別なく 相手の配偶者となって ともに生きていくということ / また そこには われらが望む《いと高きところのものに触れた生》があるという心遣いにおいて その共生を引き受けるということ ☆ このことを 積極的にせよ消極的にせよ 逃げず避けず うんうんとみづからを押しながら たどっていくということ ではないかと思います。あるいは ● 《相手の配偶者となる》のではなく ならないのに その相手に対して あたかも人生の伴走者のごとく 公然としてであれ隠然としてであれ つき添ってあゆむということ ☆ も含まれるかも知れません。あとは ★ 昇華 ☆ の問題が来るというのでしょう。 すなわち なぜ その人生の歩み方が 偉大であるのか。 アウグスティヌスは ここで 後半に述べる《あたかも無原罪のような きよらかさ》に対して この世間の濁りをも引き受ける生き方を提出して いささか 妥協をした態度を示しているのでしょうか。それとも もっと《偉大な何か》があると言おうとしているのでしょうか。
primeapeです。 脱線します。 久しぶりに健康な思考をした結果、 >アラーヤ識のご質問でコメントしましたが健康な無意識とは縁起の計算結果として未来の記憶を持ちえます。 これを運命とすると運命とは天授の物ではなく、自由意志(自由裁量)が認められていることになります。 これは撤回又は修正が必要と思い至りました。 鬼神の声を要約すると、生まれたとき予め人生の全てを書き綴った本を携えて生を受けるようです。 この本は神様のお膝元で自らの意思で書いたものです。 そして生きている間は自分自身が何者であるかを忘れ、神様のことも忘れ、運命がまるで悪夢に思えその行いに罪を抱く。 こんな感じのようです。
お礼
primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 わたしがコメントしていることは 傾向として 回答内容とは違った別の見方もあるのではないかというものが多いでしょう。《皮肉》にもなります。 あるいは 今回では ★ 運命 ☆ という言葉には 敏感に反応します。放っておけません。つまり 基本的にその理由を述べるなら ● 片や 人の自由意志が 現実の社会的な力学関係の中で 無力感を味わわされ 無力にされるということと 片や 人生には定めがあり 運命づけられているのだということとは 同じではありません。そして それらとは さらに別に 個人の良心の自由として 主観の内で 何を信じても自由であるということも 上のどちらの場合にも 当てはまります。 ☆ という前提に立って この前提基礎を守りたいからです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 鬼神の声を要約すると、生まれたとき予め人生の全てを書き綴った本を携えて生を受けるようです。 この本は神様のお膝元で自らの意思で書いたものです。 そして生きている間は自分自身が何者であるかを忘れ、神様のことも忘れ、運命がまるで悪夢に思えその行いに罪を抱く。 こんな感じのようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この理論のみそは ★ この本は神様のお膝元で自らの意思で書いたものです。 ☆ にあると思います。えらそうに言っていますが これで 上の基礎が生きていると感じます。 設問のいちばんの焦点は ▼ 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 ☆ というとき なぜ ▲ 偉大なことである ☆ のかです。これが 明らかになれば うれしいと思います。
primeapeです。 いくつか考えるヒントというか取っ掛かりについて。 アラーヤ識のご質問でコメントしましたが健康な無意識とは縁起の計算結果として未来の記憶を持ちえます。 これを運命とすると運命とは天授の物ではなく、自由意志(自由裁量)が認められていることになります。 自己責任の出来ちゃった婚に罪を持つ必要はないのではないかと思います。 それから私事ですが私は20代の頃、結構もてました。 性格的に昔から内面の輝きがあるので見てくれを気にしないタイプの性根の出来た女性からもてまくりでした。 私に関心を持つ女性は交際には関心が無いんですね。 子供は何人欲しいとか、親になるならこんな親になりたいとか、そんな話しにいきなり入るんです。 クラクラするような誘惑ばかりでしたが、私の運命は残酷なほど一本道でしたので、実際の恋愛体験をする前に無意識的に破局に誘導されるんです。 自分で言うのもなんですが私が信じられなくなればどんな男も信じられないでしょう。 お互いに傷つくような破局です。 相手を傷つけても罪が無い。 それでいて姦淫は罪。 心の痛みを天秤にかければこれは不平等ではないですか。 多分生殖行為とは本来神聖なんでしょうね。 それで罪も意識が持ち上がるのではないでしょうか。
お礼
★ 健康な無意識とは縁起の計算結果として未来の記憶を持ちえます。 / これを運命とすると運命とは天授の物ではなく、自由意志(自由裁量)が認められていることになります。 ☆ そうすると 《運命》という言い方をしなくても よいということですよね。 ★ それから私事ですが私は20代の頃、結構もてました。うんぬん。 ☆ お返しとして わたしの歴史については 気が向いたら 次の質問を参照してみてください。 《QNo.3689191 男と女 =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html 》長いですが そこでのわたしの応答欄です。 ★ 多分生殖行為とは本来神聖なんでしょうね。 ☆ アウグスティヌスのめづらしいと思われる文章を掲げます。こういうことを言っていたようです。考えていたようです。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そこで夫は激情にそそのかされることなく 心の平静を乱さず 身体の丈夫さをこわすことなしに 妻の胎内に液を注いだ。さらに わたしたちは経験によって確かめられないとしても 身体のこれらの部分が 情熱のさわぎに左右されず むしろ必要に応じて 自発的な力によって結ばれたということを信じてならぬ理由はないのである。 したがって そのとき夫の精液は 妻の処女性をこわさずにその子宮内に入ったが これは今日 同じく処女性をこわさずに処女の子宮から月経が流れ出るのと同じである。すなわち 精液は月経が出るのと同じ通路をとおって入って行く。ちょうど分娩にあたって 時が満ちれば陣痛が苦しまないでも 自然の衝動により女の胎が開くように 両方の性を結びつけて受精させるものは 欲情のもとめでなくて意志の働きなのである。 (アウグスティヌス:神の国について 14・26) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ かれは 西暦四百年前後を生きた人です。
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お礼
なるほど 野望は 欲望と そうは変わらないでしょうね。 野心は 或る種の見方で 裸の人間なる存在を前提して 《スサノヲ人間語》としての自己表現やその素朴な意志という側面を 連想させるように感じます。つまりは 白紙の状態に近いとも思われます。 ★ 欲望に感化しなくなった後の野心は、その徳の高さゆえに運命すら打ち砕く存在としての本領を発揮します。 ☆ これは やはり ★ 欲望に感化しなくなった ☆ というところに 境涯の問題が潜むのでしょうね。世間のしがらみに影響を受け 同調さえしつつも もはや左右されなくなったというような。 あれぇっ。primeapeさん これですと ▲ 私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 ☆ という事態を言い当てているかも知れませんよ。《捕捉されつつ 左右されることなく 試練を少しづつ――という意味は 相手との関係過程において―― 解いていく》というような。そうかも知れませんね。どうですか?