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志賀直哉の『和解』について
質問その三:今年8月16日に、順吉が祖母訪問、父と二年ぶりに対面。二人は誰も口をきかなかった。しかし、一週間後の8月23日に、衰弱した祖母を見舞いに行ったとき、父が怒って母に順吉を家から帰らせた。なぜ、父親の気持ちがすぐに変わったのでしょうか。(もちろん、家に出入りを禁止されたのは一昨年の秋のことでした)
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その3. このご質問の意味がちょっとよくわからないのですが、8月16日から23日の間に、父親の気持ちが変わったか、というと、変わっていないように思うのですが。 16日、順吉は祖母の見舞いに行きます。そこへ、箱根から幼い妹たちを連れて、父が帰ってくる。父は、祖母の様子をうかがいに部屋に入ってきて、順吉に気づくと「云いようのない不愉快な顔をし」「その儘引きかえそうとする様子を一寸したが」、祖母に具合を尋ね、そのあとは父と息子の間に「緊張した沈黙」が落ち、やがて父親は黙って引きかえして行きます。これが16日の父の描写です。 23日、祖母の顎が外れ、衰弱しているとのことを母親から聞いて、順吉は祖母の見舞いに行きます。粗相をした祖母の面倒を見ている母を、女中を介して父が呼びつける。板挟みになった母が苦しそうな顔をして(父親が具体的に何を言ったかは明らかではないけれども)「今日はどうかこれで帰って下さい」と言われる。主人公は、自分と父親の関係と、自分と祖母の関係は別なのだから、父にもそれを認めてほしい、そう手紙を書く、と母親に告げて、生家をあとにします。 父が母に「順吉を直ぐ帰せ」「彼奴にはどんな事があっても決して出入りは許さん」と言っているであろう姿が目に浮かぶ、腹が立って仕方がないけれど、他方、今の自分はそういう父親をそれほど憎んでいない……と、「和解」への道が、順吉の側から歩み寄ったものであることが記されています。 そうして実母の二十三回目の祥月命日である八月三十日、父と子の和解が成るのです。 「変わった」ことがうかがえる箇所が本文中にあるようでしたら、ご指摘ください。
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- ghostbuster
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> なぜ8月16日に帰らせないで、8月23日に帰らせたのか。 祖母の容態が16日と23日とでは違っているからではないでしょうか。 16日の段階では、夏風邪で、「余程回復して割りにいい顔色をしていた」という状態です。ですから見舞いが終わればすぐに帰ると父親の側も思っていたのでしょう。 それに対して、23日の祖母の容態は、顎が外れたという現象面のことよりも、もっと八十二歳という年齢を周囲に思い出させるものでした。主人公も「祖母の死を恐れ」、おそらくその場を去れない気持ちでいたのでしょう。粗相をした祖母の下の世話までしているなど、16日よりもずっと長居をしていたのではないでしょうか。出入り禁止を申し渡した息子がいつまでもいることに不快を感じた父親が、母親に帰らせるよう命じたのだろうと思います。 もうひとつ、慧子の死の時もそうなんですが、この父親は大きな悲しみにふれると、悲しむというより人に怒りをぶつける癖があるように思うのです。そうして仲違いをしているがゆえに、息子に向けられがちであった。息子同様、自分の母親の死を恐れた父親が、まず妻に、そうして息子に八つ当たりした、という側面はあったように思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。「大きな悲しみにふれると、悲しむというより人に怒りをぶつける癖がある」こういう父親がもしかして息子と同じく「被害妄想」ですか?『和解』には順吉の「被害妄想」が登場しました。例確か、長女慧子が亡くなった直後、SK一家と上林に行くときのことですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変参考になります。私の質問はなぜ8月16日に帰らせないで、8月23日に帰らせたのか。しかも、16日には「自分」のご飯まで作って、祖母に部屋に運ばせたのです。23には、祖母の体調が悪いのに、順吉をはやく帰らせました。なぜ16日に帰らせなかったのですか。