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志賀直哉の『和解』について
質問その1:冒頭のお墓参りの時、「特別な場合のほかは墓の前でおじぎを しない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じたころの ある理屈から来た習慣だった」と書いてありますが、その「ある理屈」は 何の理屈でしょうか。 質問その2:慧子を青山の墓地に葬ることについて。「自分はTさんに二坪或いは 三坪くらいの墓地を青山に買ってもらうこと、(中略)を頼んだ。」父は「我孫子の お寺へ葬るよう」と命じたが、自分がお金払って青山で墓地を買うというのは慧子が志賀家 の墓地ではなく、青山の別のところに葬ったのですか。でないと、なぜ自分の家の墓地に葬るのに お金を払わなければならないのですか。
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その1. >キリスト教を信じたころのある理屈 弟子であった阿川弘之の『志賀直哉』には、「内村鑑三のもとへ通っていた十八、九の頃、神社仏閣にお辞儀をしないと決めてしまい、一生これを貫き通した。青山の墓へ参るのは、亡くなった祖父や実母や身内の誰彼をありあり思い出すよすがとして好きだったが、墓前でも頭は下げなかった」(p.361『志賀直哉(上)』阿川弘之)という記述がありますから、このことだろうと思います。 志賀直哉は十八歳のとき、内村鑑三に学び、クリスチャンになっています。二十五歳で、内村鑑三に直接断りを入れて、キリスト教から離れていますが(そこらへんの事情は「大津順吉」に詳しい)、熱心に通っていた当時も、教理や聖書の内容よりも、内村その人の人間的魅力に惹かれていたようです。 おそらくこれはキリスト教で一般的になされる先祖崇拝をしないという考え方から来たのだろうとは思うのですが、小説内でもそのことを「癖」「習慣」と呼んでいて、思想的なものではなかったことがうかがえます。 これに続く部分で「他の場所では到底それ程は出来ない近さと明瞭さで、その墓の下の人が自分の心理に蘇って来た」とありますが、これは“死者は神の国へ行くのであって、墓の下にはいない”というキリスト教的な考えとは、まったくちがうものです。祖父に話しかけ、そうして祖父が答えるのを感じる。主義や思想よりも、自分の感覚を確かなものとする「順吉」の姿が浮かんできます。 その2. 「慧子を我孫子の寺に葬るように」という直温の口上は、青山の志賀家累代の墓所へは入れさせない、という直温の意思表示です。 『和解』という作品は、志賀直哉自身が語っているように、「事実そのまま一ッ気に」書き上げた「捕りたての生魚」のような小説なので、ここでは主人公「順吉」ではなく、作品には直接描かれてはいない直哉の背景事情を書いておきます。 直哉と父直温とは彼が十八歳の時、足尾鉱山の鉱毒事件をめぐって衝突して以来、ずっと不和が続いていたのですが、その対立が決定的になったのは、康(さだ)子との結婚です。康子は親友である武者小路実篤の従姉妹という縁で、実篤に紹介されたのですが、当時、短い結婚を経て、すでに寡婦となっており、喜久子という子供までいました。 そのような女性が、志賀家の跡取りにふさわしい嫁を探していた父の気に入るはずもなく、当然ながら強硬な反対に遭います。結局、武者小路家で、実篤夫妻と康子の両親である勘解由小路夫妻のみの出席のもと、志賀家を一切無視したかたちで結婚したのです。 以上のような経緯から、上記の口上となったわけです。 一方、直哉は当時、我孫子に住んでいたのですが、ここは友人の柳宗悦夫妻がたまたまそこに暮らしていて、近所にいい売家があるから移って来ないか、と誘われて暮らすようになった家にすぎません。父親の言葉に「腹から不愉快を感じ」、我孫子の寺になど葬る気など毛頭無かった直哉は、生母や一族の眠る一郭から少し離れたところへ、二坪ばかりの土地を買い求めて、慧子を埋葬したのです。そのようなことが簡潔に記されている箇所です。
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- ghostbuster
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>「志賀直哉は実に祖父の子だった。」 これはちょっとほんとうとは思えません。 質問者さんも書いておられるように、『暗夜行路』の話ではないのでしょうか。 志賀直哉全集の中に「実母の手紙」(第八巻)が所収されているのですが、その中に生まれた赤ん坊(直哉)のことを東京の姑(つまり祖母の留女)に知らせる紙も所収されています。もしそのようないきさつがあれば、そんな手紙が残っているでしょうか。 わたしは単に本を読んだだけですが、志賀直哉の末弟子である阿川弘之が、さまざまな記録を調べ尽くして著した『志賀直哉』にも、そのような記述はありません。この本は、直哉の誕生の地から書き起こしてあり、誕生日の気温まで言及されています。その中にも「赤児の父親となる志賀直温は、第一国立銀行石巻支店勤務の銀行員で慶應義塾出身の三十一歳」とはっきり書かれてあります。のちに直哉が三歳のときに両親と共に東京に戻ってから、祖父母との同居が始まるのです。 さらに祖父に関する記述もあります。 > 志賀直哉にしろ、その父親にしろ、自分の肉親に対する態度がちょっと常識以上にハードではありませんか。 たとえば漱石の『それから』とか。 内容はちがいますが、『門』の継父との関係もきつい。 漱石自身の親子関係もヘビーです。 外国の小説でいうと、スタインベックの『エデンの東』とか。 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とか。 あるいは、現実ではカフカの父子関係とか。 スタンダールの父子関係とか。 こういうものを見ると、直温直哉の関係というのは、本来なら大変よく似たふたりがこじれにこじれた、という感じで、たとえば幼い頃に養子に出され、後年実家に引き取られるものの、養育費をめぐって養父につきまとわれた漱石などにくらべると、わたしなどは「なにをやってるんだか」と思ってしまうのですけれどもね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の先生学芸大学のご出身ですし、 そのとき、冗談でおしゃっているようでもないので、 驚きました。資料はちょっと調べましが、証拠は見つかりませんでした。はやり、ご回答のとおり、祖父の子ではないと信じています。ありがとうございます。
- ghostbuster
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お礼欄拝見しました。丁寧に読んでおられますね。 > もう康子と慧子を認めていたのではないでしょうか。 > お詫びをしたくて、ふさわしい言葉が見つからなくて、結局その言葉が出たような気がするけど。 そうですね。わたしもそう思います。 阿川弘之の『志賀直哉』のなかにも 「父直温は、直哉の結婚に終始反対し、息子縁切りの態度を固持していたにも拘わらず、初めての孫が生れたと聞くと、その顔が見たくてたまらなくなったらしい。前田病院へもあらわれたし、康子が退院して三河台の家に逗留中、屡ゝ(しばしば)眠っている赤ん坊の様子をのぞきに来たという。出産の費用全部出してやろうとも言った。直哉はこだわった末、結局その金を貰ったが、自分の口からは礼を言わなかった」(p.278新潮文庫版上巻) という記述がみられます。 ただ、この親子の厄介なのは、一方が相手に歩み寄ろうとすると、他方がそれを拒絶する、というやりとりがくり返されているところです。 たしかに慧子の誕生は、不和だった父と子を和解させるよすがになるのではないか、とみんなが期待しました。父もそれを願ったし、直哉もまたそれを望む気持ちがあったのです。だからこそ、生後五十日ほどで東京に行かせたのです。そうして、我孫子の家に戻ってきた夜、具合が悪くなりました。 慧子の死因は「腸捻転」と記録されているのですが、その原因が、まだ生まれて間もない乳児を、汽車で東京と我孫子の間を往復させたことにあったのかどうかは定かではありません。けれども、少なくとも直哉はそう信じているし、それがためによけいに父親に対する憎悪を駆り立てる結果になりました。 直温がどうして「我孫子の寺へ葬るように」と、自分ではなく親戚の口を借りて伝えにやったのかは正確にはわかりません。父親の真意がわかる資料も、おそらくは残されてはいないと思います。けれども父親からすれば、おまえが三河台の家にいさえすれば、慧子は死ぬこともなかったのだ、という怒りがあったのかもしれません。 長年にわたる肉親のあいだのこじれというのは、どちらが悪い、というものでもなく、また、どちらか一方が歩み寄ろうとしても、その「時機」がくるまでは、どうしてもうまくいかない、というのは、わたしたちの身近でもしばしば見るものです。血のつながりがあるから、性質もよく似ているからこそ、いっそうその間がこじれてしまう、というのも、現実によくある話です。 血がつながっているがゆえの厄介さ、という、どこの家でもある話だからこそ、志賀直哉とその父親の和解の顛末をありのままにつづった作品が、個人を超えて広く読まれたのだろうし、その和解の場面が多くの人の感動を誘ったのだろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。とても納得できるご説明でした。実は、大学院の先生に「志賀直哉は実に祖父の子だった。」と聞いて、ちょっと驚きました。『暗夜行路』には確かにそう設定さているけど。資料調べてみたら、どちらも証拠が見つからなくて。しかし、志賀直哉にしろ、その父親にしろ、自分の肉親に対する態度がちょっと常識以上にハードではありませんか。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。墓参りのときなぜお辞儀をしないのかがようやくわかりました。しかし、父が結婚のことで慧子を家族のお墓へ入れさせないとはちょっと考えられないのです。第一、康子が出産するとき、父がお医者さんも紹介したし、出産費も全部出したし、もう康子と慧子を認めていたのではないでしょうか。第二、父は慧子の死が自分と無関係とは思ってないでしょう。『和解』15章で父が「慧子はどうしたことだったかな...」と言った、それはただ慧子の死因を尋ねたがったとは思いません。お詫びをしたくて、ふさわしい言葉が見つからなくて、結局その言葉が出たような気がするけど。