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石原莞爾について
東条英機が政権末期、、 石原に意見を聞いたそうですが、 石原は東条に対して 「君に政権運営は出来ない」と伝えたと聞いております。 もっと いろいろと 東条に 意見してあげれば良かったのに、と 残念に思えます。 石原には 本当の愛国心が無かったのでしょうか?
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urussako2009さん、こんばんわ。 僕にとっては彼らは愛国心などという高尚なものはかけらもないです。とてもそんな感じではないです。仲間割れみたいなものです。もともと東條と石原は同じ軍の派閥に入っていました。しかし、ある程度出世した彼らは同じ関東軍の参謀部時代の段階でお互いのことを批判しあっていたのです。もともと石原は上層部にとって扱いにくい人物でした。そのため作戦立案にに関しては優秀でしたが、陸軍では彼が中枢ポストに就けたのは参謀本部の第一部長どまりでした。もともと満州事変で功績をあげてその功績で作戦課長になったのですから、ちなみにこの当時流行した大陸で火のないところに煙を立てて功績を挙げるという手法を取ったのも彼が最初でした。ある意味とても派手な人物です。しかし、彼の活躍はここまでで、師団長どまりで予備役に入ってしまいます。そういえば、作戦部長時代に中国大陸で彼の派閥の後輩たちがいろんな策謀をを取った彼がそれを止めようとすると、後輩があなたがかつてやったことをまねているのですと言われて、何も言えなかったというようなことが起こりました。まあ、ソ連に対して、満州国を建国して、日本に対する防波堤を築いたと思っているのでしょうが、日本から大兵力をそこへ配置しなければならないので、よけい軍事費が必要でしょうに。太平洋戦争開戦反対と言っていたようですが、予備役だからあんまり影響力はないのです。 東條もはっきり言って、同じようなものです。石原と同じく派閥の中での出世競争のなかでポストを渡り歩いていました。彼は石原に比べて、地味でした。それは彼が尊敬していた永田鉄山が親玉で彼はそれまで影法師のような存在だったからです。しかし、永田が死後、中将以上になって陸軍の中枢ポストに座りました。そして、日米開戦間際に首相任命されます。 たぶん、石原は作戦家としての偏狭さから東條に何を言ってもわからない人物であるということから、彼が辞職し手新しい指導者にならない限り、進展は望めないという意味なのでしょう。だから、質問者様が記述したセリフ以外言わなかったのでしょう。 ある意味この太平洋戦争は彼らがあるいは彼らの後輩が所属した派閥の中の出世競争が発端となり、巻き起こした戦争でもあるのです。
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- eroero1919
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満州でバリバリやっていた頃から、石原は東条のことを「東条軍曹」と呼んでいたそうですからね。 そもそも、典型的な「優秀な官僚タイプ」である東条と、独断で奔放な行動をするタイプの石原では性格的に絶対合いません。仮に石原が助言したとしても、その内容は東条からすると「ふざけんな。そんなのは無理」って思うようなことばっかりだったと思います。石原は「結果が良くなるなら法律なんてくそくらえ」というタイプです。
- TANUHACHI
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何れにしても質問者は誤解していますね。東条も石原も国家などどうでもよかったのです。彼等に価値観など一欠片すらもありゃしない。 陸軍は甘糟や石原を満州に追い出し、厄介払いをしたのと同じです。東条に至ってはピエロを演じるしかないほどの哀れな存在です。それに任せた周りにもろくなタマがいなかったというのが正解でしょう。負けるべくして始めた戦争ですから、如何に早く負け戦を国民に示すかが本当の課題だったはずです。それすらもできなかったのだから無能としかいえないでしょうね。ベトナムやイラク戦争の幕引きと全く同じです。
- shin1417
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東条英機と石原莞爾の関係を知っていてこんな質問してます? そもそも東条英機はお前の話なんぞ聞きたくない顔も見たくないと言って、石原莞爾を陸軍から追い出したのですがね。 その後も石原莞爾はいろいろ助言してますが、東条は全て無視しました。 東条が石原に助言を求めたのは、日本がもうにっちもさっちも行かなくなってからです。
- m41
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単に東条が嫌いだったからでしょ? 今更何?って感じ たとえ意見したとしても後の祭り 石原閣下でなくても そのくらいのことは わかるでしょう 愛国心はあったと思います