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石原莞爾について
石原莞爾は、なぜ満州事変の首謀者にも拘わらず戦犯にならなかったのですか?また、なぜ他の軍人達は、石原氏が反対したにも拘わらず中国との戦争を拡大してしまったのですか?
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米国は日本の占領支配の前提として、天皇制「利用」を相当に早くから決めていました。それは、天皇のために命を惜しまぬ狂信的な?国民性を恐れたからです。(しかしそれは教育によって作られたもので、敗戦してしまえば国民の多くはあっけらかんと天皇制堅持などこだわっていなかった統計データがあります。が、それは後で分かった結果論です) で、天皇を免責するためには、誰かに戦争の責任を取らせないと収まりません。米国民もですが、他の連合国の手前もあり、なおさら。 で罪を負わせる白羽の矢を立てたのが東条英機です。しかし彼は「帝国軍人は天皇陛下のご命令無しに動くことはありません」と率直に述べ、米国をあわてさせたりします。すると戦争責任は天皇に帰するからです。 そこで、東条こそが戦争責任を負うべきと証言してくれる者が必要でした。そこで目を付けたのが仇敵の石原莞爾だったわけです。 出廷命令に対して「この東北で病気療養中なのに東京なんか行けるか、そっちから来い」と気炎を吐き、裁判所が異例の出張法廷を実現しました。しかし病人であり、証人にしないといけないこともあり、彼は外されて米国とは戦っていないこともありで、戦犯を免れました。「俺がそもそもの最大の戦犯だ」と訴えているのに、です。 天皇免罪のために東条に責任を負わせる証人の役を担わせるシナリオだったからです。 (しかし、これも結果論ですが、米国の思惑は外れました。「誰が一番責任があるか」と問われて、「東条」とは答えず、「幾万の無辜の民を原爆で殺したトルーマンだ」と答え、裁判所を震撼させます。また、歴史を遡って日本の侵略を問題にする気なら、ペリーを呼べとも食いつきます。鎖国日本を砲艦外交でこじ開けた彼こそそもそもの侵略者だろう、と) 結局、裁判官は裁判記録を破棄したと言われています。 他の軍人たちは、義経の如き石原の天才的な武功を見て、柳の下の二匹目のどじょうを夢見たのです。武人は戦をしないと手柄が上がらず出世も出来ないからです。中間層の軍人たちが手柄競争で暴走します。これを上は押さえられず、下は命に従う駒です。 天皇が不拡散を命じても、撤退を命じても、誰も従いません。まして東条が精神論に走り、ヒトラーの「地球を東西で分割支配しよう」という痴夢に騙され、泥沼に突撃して行ったのです。嗚呼ー。 ちなみに皇軍が中国大陸はじめアジア各地でした凶行は、各国の歴史教科書にしっかりと載っていて、若い世代は学んでいます。マレーシアでは、日本兵が妊婦の腹を割き、胎児を銃剣で突き刺して掲げている絵を載せていたりもします。 (これは皇族で参戦した方が昭和天皇に現地では酷いことをやっていると伝え、昭和天皇も知っていました。) 戦争は殺人が美徳になる価値観の逆転世界なので、野蛮な猟奇的行動の数々が賛美されます。された方は忘れず、やった方は忘れたり過小評価したりして、今では他人事のように思っているのです。
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- oska2
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>石原莞爾は、なぜ満州事変の首謀者にも拘わらず戦犯にならなかったのですか? 太平洋戦争の、当事者でないからです。 極東軍事裁判では、太平洋戦争に関する戦勝国が敗戦国を裁く裁判ですよね。 ですから、太平洋戦争中に軍人として関与していないので被告にはなりません。 極東軍事裁判でなく、中国国内で裁判となれば「満州国皇帝が犯罪者になった様に、石原莞爾も犯罪者として裁判を受ける」事になったでしようね。
- eroero4649
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>なぜ満州事変の首謀者にも拘わらず戦犯にならなかったのですか? 石原莞爾は、太平洋戦争直前に東条英機によって予備役に回されました。つまり軍人として引退させられたのです。以前から石原と東条英機は犬猿の仲で、石原は東条のことを「東条軍曹」と呼んで憚らなかったそうです。 なので石原は対米戦争には一切タッチしません(できません)でした。 終戦当時に山形で病気療養中だった石原は一説には病床の自分をリヤカーに乗せてGHQに乗り込み「我こそが戦犯である。なぜ逮捕しないのか」と迫ったともいわれます。私が昔読んだ本にはそう書いてありました。だけどWikipediaにはそんなことは書いてないので、自ら乗り込んだってのは事実とは違うかもしれません。 しかしまあどうであれ、予備役だったし病人(終戦の4年後に亡くなっています)でもあったので戦犯にするのも面倒くさいでスルーされた感はあるんじゃないかなと思います。裁判にしたらしたで持論を述べて裁判が「演説会場」になったであろうことは間違いなかったですからね。 >なぜ他の軍人達は、石原氏が反対したにも拘わらず中国との戦争を拡大してしまったのですか? ノモンハン事件で対ソ全面戦争でもやるのかくらいの暴走をしていた辻政信らを石原莞爾は「勝手に暴走するな」と厳しくたしなめたらしいのですが、辻に「満州事変を起こしたアンタにいえる資格はない」とご尤もな反論をされてしまいました。後に辻が自著でドヤ顔で「石原莞爾を完全論破してやったぜ」と自慢しています。 対中戦争の拡大は、世論に引っ張られた部分が大きかったのです。当時の日本では「一撃膺懲論」というのが流行りました。「中国人は口でいっても聞かない。調子に乗る。かくなるうえは一撃を与えて思い知らさねばならない」という世論が高まっていたのです。 青島で、中国人の右翼過激派が租界と呼ばれた外国人居留地を襲撃して、日本人女性が股間に杭を打たれて惨殺されるなんて事件も起きていたのです。そんな事件が現代でも起きたら大変なことになるじゃないですか。中国人ていざとなるとかなり残忍なんですよね。台湾で梶原一騎氏の娘さんが誘拐して惨殺されるって事件があったんですが、あの事件の惨さは日本屈指の虐待死事件である女子高生コンクリート殺人事件を上回るもので、よくそんな怖ろしい殺し方ができるもんだなと思うほどです。 日中戦争を収めるというのは、極めて難しいことだったと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。