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あの人だってそうだ!

投稿6回目 ほとんどの人はもしかしたら、自分の都合で、つまり「ご都合主義」で、 この世の中を 見ているのかも知れない!(考え過ぎだろうか?)

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

「あの人だって、そうだ!」 「平等」って、そういうものなのかも。

sssv
質問者

お礼

そういう考えもあるかも知れません。 ご回答ありがとうございます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.7

>>考え過ぎだろうか? ○考えることが出来ることはそれだけで進歩がありますね。 誰しも、何かを信じ、それに基づいて考え、行動しているのですね。 最初は育った環境や後天的な教育による知識が信仰になり、その信仰に基づいて、思考し、行動するということになりますが、まあ、個人個人の個性で多少の違いは出てくるわけです。 知識の信仰といっても哲学者ではありえないので、この信仰は日々揺らぐわけですね。自分に都合の良いようにね。 ということで、考えない人は、日々のゆらぎの中で生きているわけです。テレビやメデイアの先導についていくことが生きている証のような人々ですね。自分の考えのようで実際はピエロの笛についていく子供ですね。 子供の集団ですから、「あの人だってそうだ!」なんですね。 これから抜けるためには、まず何を信じるかを決めなければいけません。これを正信と言いますが、これが全てですね。何故なら、正信なくば正見なく、正見なくば正思なく、正思なくば正語なく・・と続くわけです。 これは2500年前の釈尊の教えですね。人類がいかに進歩していないかがわかりますね。 まあ、考え過ぎるまえに、考えの元をまず白紙に戻して構築し直しなさいということですね。 誰を信じて手本にするかで大体の人生は決まりますね。「あの人だってそうだ!」と思える人を手本にするとその程度にしかならないのですね。

sssv
質問者

お礼

現代は「2500年前」から 何も進歩していないのですね。やはり「2500年前」から自分にとって都合の良い事しか、考えていなかったのかも知れません。

noname#183245
noname#183245
回答No.6

そりゃ、そうですよ。 だって、本読んでても、自分に都合のいい部分に目が留まるしね。 自分と相手では、世界が違ってみえるものです。

sssv
質問者

お礼

確かに本に限らず色々な物が、自分にとって「都合よく」見えてしまいますね。 回答ありがとうございました!

  • JqqF
  • ベストアンサー率24% (159/656)
回答No.5

二度目です。 その人の「ご都合」とは、その人なりのものです。例えば、相対的に苦しみを引き受けているとされる側本人がそれを「苦しみ」だと解釈するかどうかは、その人のご都合次第です。相対的に楽しさを満喫しているとされる側本人が「楽しさ」だと解釈しているかどうかも、その人のご都合次第です。で、その人のご都合に他者が付き合うかどうかもご都合次第です。その相互関係の中で共感が生じたり対立が生じたり利益分配が生じたりしますので、うっかり他方のご都合だけに自身が付き合わされているような錯覚を持ったりしますが、その方が都合が良いので錯覚したいのです。

sssv
質問者

お礼

やはり人間は 自分の良い方に「錯覚」したいのですね。 ある意味怖い事だと思います。回答ありがとうございます!

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 こんにちは。初夏、休日午後の一時、ふと目に留まった質問でした。 「厳密に」この言葉を解釈するならば、「つまり」との文言自体が問題になります。質問者様のご質問を整理してみますと、 (1)自分の都合=御都合主義、である (2)しかも、その「御都合主義」なるスタンスは、殆どの人に共通する陥穽でもありうる (3)従って、世の中にある「物の見方」なるものは「御都合主義」と同義である **********************************************************************  以上の前提ならびにそこから一先ず導かれた結論に対し、質問者様は検証をなさいましたか? (1)の逆は「自分の都合でないもの」は「御都合主義ではない」となります。これは論理学によるテーゼです。 論理学では「示された命題」に対して「それが真であるか偽であるかだけ」を判断します。したがって答は全て○か×かの何れかになります。ここが日本語の論理とは少しばかり異なる点です。 (2)この前提は論理学からすれば、既に崩壊しています。なぜなら「規定されている事象のみ」を対象とするからです。「もしかしたら」「かもしれない」は確定的な事実ではないことから、問題を構成する根拠とはなり得ないことになります。ここも「日本語の論理」とは少しばかり異なる部分ですので、後述します。 (3)先記の前提(1)および(2)が成り立っていないことから、この結論は論理学のスタンスとしては却下される形となります。  あくまでもヘーゲル的なガチガチの論理形式と「絶対的真理」を前提とした話ですが、これとは別な「論理展開」も実際にあり、むしろその方が健全です。  少なくとも、ご質問の趣旨を「相対性に対する一つの疑問」と理解し得るなら、それは確かに一面の真理でもあり日常的な現実ともいえます。  けれども、もしこれが世の中にある『物の見方』なるものが「絶対的な基準」以外に基づかねばならない、との前提に立つのであれば、そうした論理はとても危険な考え方であり、そして固定的で発展性を排除するガラパゴス的な発想であるともいえます。  「金儲けが全て!そのためなら何をしてもかまわない」との拝金主義すらも認められてしまいます。でも法治国家であるならば、他人の権利を侵害することはよほどの特殊な事態でない限り認められもしません。牢屋に入れと法の裁きを受け、世間からの指弾を浴びるだけになってしまいます。まさに「無理を通せば道理が引っ込む」を逆から証明する形です。  もっと簡単にいえば、質問者様からのご指摘には、「哲学」など意味がない、実利だけが全てであるとの印象も受けます。

sssv
質問者

お礼

すいません。具体的な「検証」はしませんでした。 具体的に「検証」する方法はあるのでしょうか?

noname#181290
noname#181290
回答No.3

こんにちは。 >あの人だってそうだ!投稿6回目 ↑ とても素敵なキャッチコピーですね、又つかまりました。 (考え過ぎ)との言葉に「余計なこと」がつくことを恐れていますのでしょうか。 余計なことは「課題に関連付けられた」事であるならば余計ではないと思います。 私でしたら、恐らく起こる確率が10%程度なら宝くじを買いますね、 余計なことリストから外します、それ以下ならば、リストに入れます。 それが出来るようになるには苦労と努力がいります、 そう簡単では有りません。 5%に拘って立ち止まっていますと、時間は人を待ちませんのです。 「ご都合」ですが、都合に御を付けますと「イイように生きる」と感じます。 「もしか」しないでも、各人自分の気持ちイイ生き方を模索しているのでは? それが人生の課題と私は思います。 質問者さんは「世の中を見ている」お姿は感じます。

sssv
質問者

お礼

「キャッチコピー」を ほめていただいてありがとうございます! 僕も良く自分の都合で世の中を見ることがあります、「自分もそうなのだからやはり他人も」と思ったのが出発点でした。

回答No.2

すべての人は、自分で勝手に世界を解釈して その世界の中に住んでいます。 ですが、自分の都合のいいように見ているとは 言えません。 たとえば、人から見て恵まれた環境で暮らしているのに、 自分では不満がいっぱいで、ちっとも幸福だと思えずに、暗い気持ちで 生きている人もいます。そんな人は、世界を自分の 都合の悪いように見ていると言えるでしょう。

sssv
質問者

お礼

確かに世の中には「お金」はあるのに不平不満の人は大勢いると思います。 ご回答ありがとうございます。

  • JqqF
  • ベストアンサー率24% (159/656)
回答No.1

その通り、その人がそう思うからその状況があるんです。誰にとってもです。

sssv
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました! やはり、そうなんでしょうか?

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