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2種類の論理主義者とは?
- 世の中には2種類の論理主義者が存在します。
- 偽りの論理主義者とは、自分の主張を変える意思を持たず、論理を自分に都合よく利用する人です。
- 一方、真の論理主義者は自分の主張にも関わらず相手の反論に納得すれば、自分の非を認めて相手の主張に同意する人です。
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返答を待っていました。 ご理解いただけたのはなによりです。 私もAタイプが好きなワケではないですよ。許せると言っても諦めに近いものです。歓迎は出来ないという意味なら質問者さまの考えに賛同しています。主張は正確に伝えるべしという点も同意です。歓迎はできないながらもAタイプが存在する現実は受け入れざるを得ないと考えた次第です。それが私の「許せる」=「許容」です。 ということで「Aタイプの存在を許容しているほうが組し易い」という意見に改めます。 >「どんな命でも・・・」というのと「ある種の命は・・・」では意味が全然違います。 あなたの考え方は全く正しいと思います。細かいことを言えば「大切にする」の意味も双方で整合させる必要があります。Cは「殺しちゃいけない」とは言ってませんから。 確認は必要ですが確認で十分ともいえます。是正させる目的で指摘するのであれば議論が脇に逸れない指摘の仕方をするべきです。まわりくどくてもです。相手に歩調を合わせられるのは足の速いほうだけです。相手に合わせろと要求するのは足の遅い者です。 ですからAタイプと議論するなら要点だけを把握するといいと思います。その上で間違った考えを改めない人物なら論破してもいいと思います。論破するのは馬鹿といいましたが、誤りを認めない人間ならいいと思い直しました。
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- madausa
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補足読ませていただきました。 >言い回しが柔らかいので相手にそう感じさせないようにうまくやるということですか? そう捉えていただいて構いません。ちょうどよい具体例を挙げていただいたので、そちらを踏まえて再度私の意見を述べさせていただきますね。 この例でCはDに対して「揚げ足をとるな」と言っていますね。これはDが主張の論旨を理解しないまま表現の不備を指摘しているからではないでしょうか? Dの論理は全く正論ですが、Cが論点としたい部分とは別の部分を指摘しているため揚げ足をとったと誤解されたものと思います。Cの反応は不愉快なものかもしれませんが、表現の不備をついてあやを認めさせる前に相手の論旨や双方の意見の相違を確認する必要はあったと考えます。 Cは元々のAタイプなのではなく、論点のズレた指摘に対して腹を立てて聞く耳を持たなくなったのだと推測すれば許せないものではないと感じます。 Dの表現を変えてみます。 C:『どんな小さな命でも命は大切にしなきゃいけない』 D:『命を大切にするというのは殺生をしないという意味ですか?』 C:『人間も生き物である以上殺生は避けられない。そういう意味ではない。あたりまえだろう?』 D:『じゃあ「むやみに命を粗末にするのはいけない」と表現を置き換えても支障はないですか?』 C:『構わない。いちいち指摘することでもないと思うが』 D:『前提の確認です。ではゴキブリなどの害虫についてはどうでしょう?』 C:『もちろん駆除することもある。だが野山など自然に生息している物をむやみ殺すのはダメだ』 D:『スポーツハンティングやフィッシングについては?』 C:『当然それはダメだ。たとえその後食べるのだとしても命の冒涜と考える』 D:『食べるのであればいいのでは?私はそれを命の冒涜とは感じません。主張が相違するのでこれを争点に議論しましょう』 C:『いいだろう』 議論であれば本来このような感じに流れるのが普通だと思いますがいかがでしょうか? この場合DはCが全ての殺生を禁止する仏様のような思考をもって議論に臨んでいるわけでないことは常識の範囲で理解していますが、前提と論旨の確認をした形です。 例外事項においては、するどく指摘するのではなく柔らかく確認する姿勢で臨めば話はこじれなかったと考えます。論旨に外れた指摘をすることで争点が変わってしまい相手からすれば論点ずらしと取られることもあり得ます。 また、あたりまえの前提に真っ向から反論すると屁理屈と取られるケースもあります。例えばCが「私はベジタリアンであらゆる動物の殺生を嫌う」と主張した場合に、論破したいだけの人物は「植物にも命はある。細菌などの微生物も動物だ」などの論を持ち出す可能性もありますよね。これも議題を提示しているCが思う論点とはズレています。議論であれば相手のルールをある程度理解していなければ納得させることは不可能です。 ベジタリアンという発言ひとつでCは植物の命を別に考えていることは理解できますし微生物の話は屁理屈と言われても仕方ないでしょう。Cには当面の主張があるのに論点が意識外の微生物の命についての議論になってしまってうのはバカバカしいと考えるはずです。 相手の主張の論旨を理解しないまま「あらゆる動物と言っただろ?微生物は動物だ。なぜ認めない?」などと訴えてくる者を議論するに値しない人物と見限ってしまうのはやむを得ない部分があります。 論破するにしてもせめて相手の土俵でするべきですし、相手が例外と認識している事項を並べ立てて面子をへし折るような論理ではいささか乱暴であると感じます。 ダラダラとした長文になってしまい申し訳ありません。
お礼
なるほど、どういう言い回しが相手を下手に刺激しない議論の仕方なのかは分かりました。ありがとうございます。 ただ私から見るとやや回りくどいという印象を受けます。議論の場では意見はシンプルに伝えるのが良いと思っているほうなので。私は相手から攻撃的な反論をされるのがそんなに嫌ではないので相手にもそれを求めてしまうのだと思います。 それにしてもAタイプの存在を許すということは、議論なんて、特に政治的意思決定のための議論なんて世の中に必要ない、と言ってるのと同じことだと思います。Aタイプは議論しても全く考えを変える気がないのですから、議論して理性に訴えかける意味がありません。それとも、相手が丁寧な言い回しで反論するようなら同意してやってもよいが、攻撃的で面子を潰すような言い方なら絶対同意しないよ、というスタンスで議論に臨んでいるのでしょうか(自分では気付いてないにしても)。それはそれでそんなことでいいのだろうか?と疑問です。 例にあげたCの発言のように「どんな命でも・・・」というのと「ある種の命は・・・」では意味が全然違います。後者は例外を認めてますが前者は認めていません。述語論理の世界でも「すべての・・・」は∀、「ある・・・」は∃という異なる記号で表しますから、論理主義者からみるとCの発言はおおいに突っ込みどころです。Cは「ゴキブリを殺すのは当たり前 だし相手も分かってるはずだから考慮する必要ないだろう」と思ってるのでしょうが、意外と相手は分かってない場合がありますから誤解を生まないためにも主張を正確に伝えることは大事だと思います。
- madausa
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勝ち負けという言葉が出てくるのであれば、議論というよりも討論に近いものですね。 討論的な議論であれば、お互いの主張をぶつけ合うものですから感情的になるのも否めませんが、反論や指摘には気を配る必要があります。熱くなっている相手のミスや矛盾をつけば相手をさらに感情的にするだけです。相手の足元は敢えて掬わずに自分側の主張だけを相手を納得させるのが上手い方法です。というか、それが論理主義者です。 多くの人間が自分の論理を否定されるとその点を肯定することだけに拘ってしまいます。誰にでも面子や体裁があるからです。感情的になれば有意義な議論は進まなくなります。話術に長けた人は相手の論理を潰さないまま自分の主張を通します。主張が相反するものであっても上手くできるのです。 そういう人は「相手を論破するやつは馬鹿」ということをよく言います。相手を論破しても馬鹿にして恥をかかせるくらいのことしかできません。大事なのは自分の主張を通すことであって、鼻っ柱をへし折ることではないからです。 鼻っ柱をへし折るのが目的という討論もあります、そういうTV番組もあります。見てる分にはおもしろいですが議論としてまとまることはまずないでしょう。そういう議論においてはほぼ皆がAタイプになります。 Aタイプのような人間が世の中に多いのは当たり前に感じます。私だって場合によっては顔を真っ赤にしてAタイプの人間のような対応をしてしまうことがあると思います。つまりAタイプの存在を許せるということです。
補足
> 話術に長けた人は相手の論理を潰さないまま自分の主張を通します。 それは、やっていることは相手の論理を潰していることに変わりないが、言い回しが柔らかいので相手にそう感じさせないようにうまくやるということですか? 具体例で考えてみます。 C:『どんな小さな命でも命は大切にしなきゃいけない』 D:『じゃあ、なぜあなたは平気でゴキブリを殺すのですか?』 C:『揚げ足とるな』 D:『じゃあ、どんな命でも、ではなくてたぶんあなたは哺乳類とか比較的 人間に近い生き物の命は大切にすべきだ、と本当は思っているんじゃないですか? 僕はそう思うことは悪いことは思いません。人間は身勝手な生き物ですから。 ただ身勝手さを隠して「どんな命でも」と綺麗ごとを言うのは賛同できないんです。 「むやみに命を粗末にするのはいけないよ」くらいでいいんじゃないですか? 』 この設定ではCがAタイプ、DがBタイプという想定です。 この例でもDは「相手を論破する馬鹿」なんでしょうか? 私はCが「揚げ足を取るな」と相手のせいにするのが気に入らないのです。「あぁ言われてみればそうだね。ゴキブリは害虫だから例外なんだ」くらいに普通に答えて欲しいのです。それを期待するのは相手の面子や体裁を潰す悪い行為なんでしょうか? ちなみに私は論理主義者ですがディベートは好きではありません。やったこともありません。自分の本当の意見とは無関係に賛成派・反対派に分かれて自分の側の有利な方に論理を利用するのが気に入らないからです。 残念ながら私にはAタイプを許す度量はありません。面子や体裁が潰されるが怖いなら『議論で解決しよう』なんて言い出すな、と言いたいです。 昔ネット掲示板で『・・・、この意見を論破してみてください』のようなスレッドを立てた人がいました。いろんな人が参加してはその人は否定的なレスをつけては反感をかってました。私も挑戦してみたらやはり否定的なレスをつけられ面子を潰されたような感じも受けましたが、そんなことはどうてもよく私は一生懸命議論を続けました。そしたらその人は私の意見を否定しながらも、どうも私の議論に臨む態度自体は褒めてくれたようでした。そして最終的には何か納得してくれたようなのか、その人はそれ以上レスをつけるの止め、そのスレッドは自然消滅しました。そのとき私は『ああ、面子とか気にせずに真摯に議論すれば分かってくれる人はいるんだな。この人はBタイプなんだな』と思いました。
おっしゃることはよくわかります。確かに、そのような2つのタイプは存在します。 ただ、非常に困るのが、どちらのタイプの人間も、自分自身は常に「自分はBのタイプである」と思っている、という点です。自分で「自分の意見を変える気などない。論理を都合よく利用するだけだ」と考えている論理主義者はいません。 論理主義者は、みんな、「自分は論理を重視している。納得できる反論をしてくれれば非を認めて相手の主張に同意する意志がある」と思っています。みんな、自分自身については「Bのタイプ」を自負しているのです。そう、あなたも含めて。 ですので、私はかなり前から、「論理主義」を自称する人は、基本的にすべて「Aのタイプ」である、と考えることにしています。面白いことに、その前提が覆された経験は今まで皆無です。 そして、今までの中で「Bのタイプ」だな、と思えたのは、論理主義者ではなく、むしろ「論理も感情論も同じように扱うことのできる人」であったように思えます。論理の重要性とともに、人である以上、感情論の重要性もよくわかっており、時には論理を曲げても感情論を通す大切さを知っている人たち。そうした人たちこそ本当の意味で「Bタイプ」であったように思えるのでした。
お礼
> 今までの中で「Bのタイプ」だな、と思えたのは、論理主義者ではなく、 ということは、その人は論理主義者ではないわけですので、 私の主張はその人について言及するものではありません。 私はそのように論理・感情の両方を大切にする人だけじゃなく、 論理主義者のなかにも自分の非を認めれらる人はいますよ、と言いたいです。 現に私はそういう人と議論をしたことがあります。もちろん論理主義者同士、 よく意見が対立しましたが、きちんと説明すると分かってくれる人でした。 私はBタイプ自称しましたが「本当はAなんだろ?」とおしゃりたいようですが そんなことはないです。これは信じてもらうより他ありません。 私が「この人はAタイプかな」と思う目安は「屁理屈」「ナンセンス」 「揚げ足取り」この辺の言葉を好んで使う人です。逆にBタイプは屁理屈 という言葉を嫌うからです。具体的に何かおかしいのか説明することを好みます。 ご意見ありがとうございました。
補足
よく見返してみると、私がBタイプを自称したので 『本当はAのくせにいい人ぶるんじゃねぇよ』という趣旨の回答だったのでしょうか。 私は少なくとも屁理屈と相手に言うことが嫌いな人間なので、自称Bタイプとしました。
お礼
いろいろとありがとうございました。