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《信じる》を哲学として定義せよ
- 《信じる》とは、一般に《神》を対象として、神の名を心に受け容れることである。
- 《神》は非経験の場であり、経験的な因果関係から自由であるとされる。
- 信じることによって、信仰は動態となり、非思考の庭で日々進化していく。
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No.5です。 無限・・・・・たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか? ==>無限は経験域の中と思います。無限の正体ですが定義から理解するしかありません。数学では無限とか虚数とか 非ユークリッド幾何とか 日常では馴染みのない言葉がでますが 定義はされており全て経験域とおもいます。物理現象の無限については 観測不可というだけです。だから非経験とするのは狭義の理解であって言葉と捉えると経験域となると思います。 【信じる】の議論 ありがとうございました。平行線議論と思い ここで休憩とさせて頂きます。また言いたくなったときは投稿しますのでよろしくお願い致します。
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歓迎されるかと思ったのですが、どうも初回から雲行きが怪しいですね。印象批評だから答えたくない。私が批判を行っていて、それをはねのける。いやね、もう少し楽しく話せないものですか。私ならもう少しうまく捌くけれどな。 >一般的な言語習慣に準じた既成の事情がある。と言ってよいでしょう。 > このような言語習慣における具体的な事情 このことが定義の前提となっている。 私は今重要なことに気がつきましたよ。Bさんの言う神は、言語と密な関わりを持っているということです。これはたまげた。ロゴスと書いていたが、Bさんの神は言語と言っても差し支えないくらいなのかもしれない。これは驚くべきことですよ。 いや念のために行っておくと、私を含めて一般的には、神は人とかモノと同じような客体だと考えている。だから絵を眺めるのと同じように、皆で信仰できるものだと思っている。その証拠に、宗教団体がある。神は客観的な存在である。 しかしBさんの場合は言葉である。もともとが主観的なものであって、共有などそもそもできない。 だからこそ、あくまで神と個人のやり取りだ。これは特殊だなあ。うん、Bさんの言うことの謎が解けました。 > 理論からすれば 誰もが《広義の神を信じている》となります。あとは 自覚の問題になりましょう。自覚の以前においても 言語習慣の中に生活している という事情です。それが 現実だと見なして差し支えないという問題です。 確かにそういう理屈になるけれど、またこれは極端だなあ。言葉を使うとき、神がいるというわけですか。うーん。新しい宗教だ。となると、言葉の使いようによっては、神を貶めているということになるのかな。文法ミスを連打するとか、汚い言葉を使うとかをすると、神に背いていることになるんだろうか。 >つまりぎゃくに尋ねるなら どうしてこの《信じる》の定義に際して ★ ジャンヌ・ダルク ☆ などを例に持ち出すのか。その《事情》が分かりません。(むろん それは 例外なのではなく 定義の内容に含まれる場合ですが)。 いわゆる天啓が下った有名な事例です。ルルドの水でもいいです。 > (つまり 何か特別のそして周知の信仰形態でなければ 《信じる》の定義にはかかわらないというような特殊な発想をしていませんか? さて、何を言っているのかよくわかりませんね。私が特殊な偏見に捉われていると言いたいらしいですけれども。次が説明でしょうか。 > ★ 土台経験が違うから、言っていることが食い違って当然ではある。 ☆ この発想がどこから来るのか。違うはずです。はっきり言えば 定義にあたって 余分なことをつけ加えようというような発想ではないかと考えます。もしくは 有名な人や信仰形態のばあいでなければ 信仰とは呼べないとでも見なしているような発想がうかがえます。これは ここでの定義には摂らない発想です)。 ここでの定義には摂らないって、なあ。そう言われたら、議論する意味がないね。定義って、そういうものじゃないですよ。例えば「ぶらじゅろんぬにとって信じるとはどういうことか?」というテーマなら、私の物言いは間違っているでしょう。想定外の意見をぶつけて、あなたの集中をかき乱していることになるのだから。しかし問いを読むと、ここでは一般的に広く、神を信じるとはどういうことかと聞いている。であれば、私がこんな風に答えてもよろしいはずです。定義の出来不出来は、対応できない事例が多いか少ないかで決まります。あまり応用力がない定義みたいですね。 > ★ ~~~~~ ・教祖のアウラはその弟子に伝わり、現代にまで継続されているか否か、についてお考えを聞かせてください。 ~~~~~~~~ ☆ すでに述べましたように このような・《信じる》に到る過程および実際に信じるときの事情内容については 定義の捉えようとする抽象的にして一般的な要素要因からははづれると見做しますので そのような事情があってもよいし別の事情であってもよいという考えです。 ちなみに そのような《アウラ》は わたしの考えでは まったくどうでもよい。こうなります。理由はかんたんです。アウラは 経験事象( Y )であり 神( X )ではない。からです。 そうね、経験事象ですよ。しかし、それを興味が無いという言い方ではねのけるわけですね。これもこう言われた終わりという感じですね。どうぞ他にご意見が合う方とお話しください。しかし繰り返すと、定義の出来不出来は、例外が少ないことで決まります。自分と違う意見を持つ人が来たら、普通はウェルカムのはずなんですけれどもねえ。ともかくご自分の見解を伝えることにあっぷあっぷで、私のような他者と議論をする余裕はないのかもしれません。 まあ、私のような凡人はサーヴィス精神が乏しいので、今回のところは去らせてもらいますよ。ともかくBさんの「神」の片鱗が分かったし、謎が解けただけで収穫はありましたから。どうもありがとう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ロゴスと書いていたが、Bさんの神は言語と言っても差し支えないくらいなのかもしれない。これは驚くべきことですよ。 ☆ 神の場合には《ことば》は その神の名のシルシとして介在させるものであり それとしての役割を果たすのみです。 《言葉》はすべて 経験事象( Y )です。これが 神( X )そのものだという謂われはいっさいありません。 つまりほとんどすべての説明を 少しずらして 別の意味合いや主題のほうに持って行く。これが しばしば見られます。 そのことに気づくことを俟っています。 ★ ~~~~ いや念のために行っておくと、私を含めて一般的には、神は人とかモノと同じような客体だと考えている。だから絵を眺めるのと同じように、皆で信仰できるものだと思っている。その証拠に、宗教団体がある。神は客観的な存在である。 ~~~~~~ ☆ これは《信じる》ではあり得ません。経験事物や経験事象については ひとは考える(感じるをふくむ)のです。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~ *2 非経験の場 X : *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。 *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この内容を批判するかたちで述べるのでなければ かみ合いません。 ★ 一般的には、神は人とかモノと同じような客体だと考えている。 ☆ これについては ok9608 さんとのやり取りがあります。回答No.1&5&7。 すなわち《無限》は それ自体は《言葉》ですが その意味内容は 《二で割っても三で割っても その商がやはり無限である》ようなものです。これはナゾです。 つまりこのナゾは 経験事象にはありません。(精確には 経験事象にあるかどうかが 分かるとも分からないとも人間の能力によっては言えない です)。 このような《非経験の場 X 》は そのように言語習慣があるかぎり 誰もがカカワリを持っています。そうしてこの無限を内容とする神については 哲学がふつうに定義しておくべき言葉です。したがって そこから出発しているのであって その出発したあとでふたたび《信じる神》には 《経験事物や経験事象 Y 》も入っていますよと言いだされても 応答に困ります。そうではありませんと答えるのみです。 だからと言って 次のように振り子を別の極へと振り切らせるのは たたき台の説明内容とは違っています。 ★ ~~~~ しかしBさんの場合は言葉である。もともとが主観的なものであって、共有などそもそもできない。 だからこそ、あくまで神と個人のやり取りだ。これは特殊だなあ。うん、Bさんの言うことの謎が解けました。 ~~~~~~ ☆ 《神を信じる》主体は 個人としての人間であり それのみだというとき だからと言って この信仰というものが おのおのバラバラになっているかと言えば そうだと断じるのは 早合点というものです。 たしかにたとえばアミターバ・ブッダという同じ名の神を信じていると言ったとしても その内実は そのふたりの人たちにかんして 同じであるかどうかは分かりません。 けれども その《信じる》という人間の行為については たとえほかのマハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)という異なる名の神であっても 《類型》としては 同じかたちが見て取れる。このことを問うている理論です。 再掲はしませんが 《趣旨説明欄》の 《*1-2》です。 ですから ★ もともとが主観的なものであって、共有などそもそもできない。 ☆ このように言い放ってしまうというのは 微妙なのです。人間はその存在としてまた自然本性として 共通の要素要因がある。ゆえに 《神ないし信じる》という行為にも 互いに共通の中身が見て取れる。という問題を扱わなければ 定義するということ自体が ほとんど無意味となります。 ★ だからこそ、あくまで神と個人のやり取りだ。これは特殊だなあ。 ☆ ここも ずらしていましょう。同じ内容を持って 別の主題の別の視点からながめ捉えるかたちへと移行させているのです。 《あくまで神と個人とのやり取りだ》のその命題そのものの中に この《神と人とのかかわり》には 人びとに共通の行為類型が見て取れる。こういって理論を提出しているというその視点から どうにかして逸れて行こうという魂胆が垣間見られます。 ★ 言葉を使うとき、神がいるというわけですか。 ☆ これも 勝手に自分の視点へと連れ込もうとしている事例です。いつ・どこでこのたたき台が《神がいる》というかたちで 理論内容を述べていますか? 先ほどかかげた《趣旨説明欄 *2-2》を見てください。 ★ 文法ミスを連打するとか、汚い言葉を使うとかをすると、神に背いていることになるんだろうか。 ☆ 知って言ってんのか知らないでか知りませんが ☆☆(*2-1) 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。 ☆ であれば・であるのだから 人が神について何を言おうとどう罵倒しようと それは神にとっては屁とも思えないことがらです。次元がちがいます。 ★ いわゆる天啓が下った有名な事例です。ルルドの水でもいいです。 ☆ ぢゃあ おおしえしましょう。《信じる》が成る場合は すべて《天啓》です。人間の意志や知識や知恵を超えているところから起きるしかも人間の主観内面にかかわる出来事だということです。その根拠は――論理のみですが―― 《*2-1 や *2-2》です。天啓というのは ナゾのおとづれという意味です)。 このジャンヌダルクを取り上げるのは何故かという問いが ☆☆ (つまり 何か特別のそして周知の信仰形態でなければ 《信じる》の定義にはかかわらないというような特殊な発想をしていませんか? ☆ なる問いと同じ意味内容です。 神についてそれが ★ そうね、経験事象ですよ。しかし、それを興味が無いという言い方ではねのけるわけですね。 ☆ はねのける以前だという意味です。 つまり 例によって鰯の頭の信心とひとしいと言って 批判済みとなるしろものです。 《神とは何か?》――経験事象ではない。しかも人間の《精神》ではあり得ない。こういう前提となる議論を経て来て いままた同じ議論をどうしてつづけなければならないか。 ok9608 さんとのやり取りを見ていなかったとしても 趣旨説明欄にはその前提事項が なお重ねてしるされています。 ですから どうしても《経験事象も 神として 人に信じられる》のだという回答内容であれば その趣旨説明の事項について 具体的にそれに対する批判として述べるのが きわめてふつうの回答です。 どうしてその手続きをはづして あさってのほうから 前提以前の話をむしかえすのか。趣旨説明をよく読めと言って 追い返されても それが ふつうにていねいな応答になるはずの事例です。 知ってか知らずか 手間暇をわざとかけさせるための タメにする振る舞いだとうたがわれても仕方ないでしょう。ただし 一度目の投稿にかんしては 注意を喚起するという控え目の態度で臨んだ。こういうことです。この二度目は 常軌を逸脱した回答態度だと言わざるを得ません。 知らなかったのなら いま知らせます。
こんにちは。私の好きな定義をやってらっしゃる。ありがたいことです。しかし、感想を言うと、よくわからないですね。叩き台は叩き台として、よく書いてあると思いますよ。細かいところで揚げ足もとれるでしょうが、まあ、それはどうでもよい。しかし、信じるとは何かが主題でしょう。そこから、私だったらどういうプロセスで信じるということをするかなと考えてみたのです。すると、何か違う気がするんですよね。私の印象では、Bさんの意見は、頭でっかちだという気がする。 イデアと同じ。これはわかりやすかった。しかし見たこともないもののイデアなんて、そうそうわかるものですかね。机や鉛筆のイデアは分かりやすい。使ったことがあり、観察もできるからです。馬だとか動物のイデアは、動物に関連した仕事じゃないから容易には分からない。でも、動物園に行って観察すればいいとか、おそらくは獣医みたいに解剖したりすれば、次第にわかってくるだろうなという気がする。しかし神となると、何をどうすれば良いのかが見当がつかない。こうした神の特殊性について触れていない気がするんですが、どうでしょうか。だから頭でっかちだという気がする。 ちなみに私なら、イエスのイデアを考えようという時は、キリスト教徒の方の雰囲気を考えますね。というのも、次のように考えるからです。 ・神=教祖が弟子を薫陶する。 ・その弟子が次世代の弟子を薫陶する。 ・これが続く。 ・現代で弟子の末裔が、始祖のアウラを継承している。 ・私を薫陶する。 かくして、現代の信徒がもっている薫陶の片鱗を辿っていけば、教祖のアウラというものが伺い知れると私は思うのです。いや、「思う」のであって論証はできませんよ。論証するためには、イエスの雰囲気と、現代のその弟子らの雰囲気を比較しないとならない。それはできない相談です。あくまで私の考えです。ただし、教祖というものを考えるにあたって、具体的なアイディアを出しているとは思います。 まあ、あまり気に入らないでしょうね。というのも、ここにはスピリトゥスの話はないのだから。それに宗教団体は無用だとか言っていましたっけ。つまり始祖のアウラを集団で継承するという考えには反対なのかもしれない。あくまで神と個人の対話を中心に信仰を構想しているのでしょう。そこで話は平行線になるかもしれませんね。 まあこれは仕方がない。というのも、私には、神は訪れてきていないようです。いろいろと神に祈ることもあるけれども、ジャンヌ・ダルクみたいなお告げは受けていません。Bさんは確か、千人に一人もいない人のことを語っていると言っていましたね。土台経験が違うから、言っていることが食い違って当然ではある。 そういうわけで、予め水掛け論にならないように予防線を張ることにしたのだけれど、もしよかったら、 ・教祖のアウラはその弟子に伝わり、現代にまで継続されているか否か、 についてお考えを聞かせてください。理由も欲しい。これを否定できれば、団体で信仰することの意義を否定する重要な根拠になるように思いますよ。 私が質問しちゃったけれど、Bさんの欄では、別に悪いことではないでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ 私だったらどういうプロセスで信じるということをするかなと考えてみたのです。すると、何か違う気がするんですよね ・・・ しかし見たこともないもののイデアなんて、そうそうわかるものですかね。 ~~~~~~ ☆ 《頭でっかち》という批評は そのままではまだ印象批評にとどまると考えます。応答しません。 で まづこの部分ですが それには 次のような事情が――趣旨背説明欄では触れませんでしたが――しっかり・はっきりとあります。 《神》もしくは《信じる》にかんしては それらの定義の問題を取り上げるにあたっては ひとつの事情として現実の言語習慣があるというところから出発しているという点です。 すでに生活日常において使われているという事態のことです。 であれば そのまま人びとはその習慣の中ですでに《どういうプロセスで信じるようになるか》は――人それぞれでしょうが―― なじんでいるということです。 仮りに《イデア》という語を取り上げてそれを《神》とし《信じる》というような場合であっても――このような場合は 少ないでしょうが 発言したいと思っている人としては多いでしょう―― 一般的な言語習慣に準じた既成の事情がある。と言ってよいでしょう。 もしそれが《見たこともないもの》にかかわりその点で《どういうプロセスで信じるに到るか》があきらかではないとしても それ相応の現実の事情というものはあるはずです。たとえその事情は《頭でっかち》に発しているとしてもです。 ですから 言えることは このような言語習慣における具体的な事情 このことが定義の前提となっている。こういうかっこうです。 それについては いっさい触れませんでしたが そして実際にはその事情は 人それぞれであって必ずしも同じような内容ではないと思われますが それにしても《広義の神》を心にいだくようになるというその過程は 現実と呼応している。こう言えるはずです。 よって 次のご指摘は 批判としてはあたらない。と考えます。 ★ しかし神となると、何をどうすれば良いのかが見当がつかない。こうした神の特殊性について触れていない気がするんですが、どうでしょうか。だから頭でっかちだという気がする。 ☆ すでにその《特殊性》を難なく乗り越えて 人びとは心に抱く(あるいはぎゃくに はねのけるかたちでかかわりを確認する)ことを たとえ頭でっかちな事情においてさえも おこなっている。こう捉えられるからです。 すなわち・つまり まさに ★ かくして、現代の信徒がもっている薫陶の片鱗を辿っていけば、教祖のアウラというものが伺い知れると私は思うのです。 ☆ というのも ひとつの具体的な事情の中身を形成しています。というものです。 これらの事情を土壌とし出発点としつつも ここの定義ではいっさい触れていない。こういう出で立ちです。 それとこの《信じる》の定義にかんしては ★ あくまで神と個人の対話を中心に信仰を構想しているのでしょう。 ☆ ということになります。 《集団で〈信じる〉》という事態は ほんとうには あり得ません。 オシエを共有することはあっても それは考えることです。思いが多少つよかったりする場合に過ぎません。《信じる》ではあり得ません。 つまり そのことも この定義の問題です。その問題は 【Q:・・・神とは何か】のほうがすでに担当していると言っても 説明責任をのがれようとすることではないと考えます。《信じる》は《神 X 》についてしか用いられません。 ★ Bさんは確か、千人に一人もいない人のことを語っていると言っていましたね。 ☆ これは 事情がちがいます。たとえ《千人に一人》であっても一向にかまわないという返答をおこなったというだけの意味です。 理論からすれば 誰もが《広義の神を信じている》となります。 あとは 自覚の問題になりましょう。自覚の以前においても 言語習慣の中に生活している という事情です。それが 現実だと見なして差し支えないという問題です。 つまりぎゃくに尋ねるなら どうしてこの《信じる》の定義に際して ★ ジャンヌ・ダルク ☆ などを例に持ち出すのか。その《事情》が分かりません。(むろん それは 例外なのではなく 定義の内容に含まれる場合ですが)。 (つまり 何か特別のそして周知の信仰形態でなければ 《信じる》の定義にはかかわらないというような特殊な発想をしていませんか? ★ 土台経験が違うから、言っていることが食い違って当然ではある。 ☆ この発想がどこから来るのか。違うはずです。はっきり言えば 定義にあたって 余分なことをつけ加えようというような発想ではないかと考えます。もしくは 有名な人や信仰形態のばあいでなければ 信仰とは呼べないとでも見なしているような発想がうかがえます。これは ここでの定義には摂らない発想です)。 ★ ~~~~~ ・教祖のアウラはその弟子に伝わり、現代にまで継続されているか否か、 についてお考えを聞かせてください。 ~~~~~~~~ ☆ すでに述べましたように このような・《信じる》に到る過程および実際に信じるときの事情内容については 定義の捉えようとする抽象的にして一般的な要素要因からははづれると見做しますので そのような事情があってもよいし別の事情であってもよいという考えです。 ちなみに そのような《アウラ》は わたしの考えでは まったくどうでもよい。こうなります。理由はかんたんです。アウラは 経験事象( Y )であり 神( X )ではない。からです。 したがって ★ 団体で信仰すること ☆ は――まだ《アウラ》にかんするかぎりという条件がつくかも知れませんが―― 文学上の修辞でなければ 現実と対応することはないと考えます。それにしても 《組織》立っていたとしても《集団》が 《信じる》の行為主体であるというのは いつわりです。
昔は 職人は ケガと弁当は自分持ち だった 今は 労災もあれば 親方がコンビニで弁当を買ってくれることもある たいしたもんだ いろんな機械もあるから 苦労がない まあ それが普通なんだろうけど なんというかな 手を使わなくなった 名人といわれた人にいわれたけど 手でさわれ さわんなくちゃ分からない といわれた 頭だけじゃダメだ ということらしい 感性系の仕事は特にそうなんだろう >神に向き合って 自力という言葉は 無用です。 向こうからやってくるものを大切にしろ ということなんだろう 感性系の仕事もそうだ 自然と向こうから話かけてくる そうならないといい仕事はできない だんだんと だんだんと やってくるものが変わってくる 神品という意味が分かってくる と おれは何をやってんだろ と思うようになる そう思うようになって いいものが作れるようになってくる 自然といいものが作れるようになってくる しまいには 自分が作っているという気がしなくなる そのへんが境目というか 余計な力がいらなくなってくる 外からは 巧みな技のように見えるが 実際は違う 褒め言葉なんかまったくいらない世界だ 向こうからくるものと話ができるかどうかだけだ おんなじだね 瞬間的に来てしまうもの 直感がするどいといえばするどい でも 自力じゃない 自力には限りがある 限りないものを受け入れるという深さだ 信心だってそうなんだろう 受け入れる深さが信心の深さなんだろう 無用ノ介 どこかで聞いたことのある言葉だ そうか おれもそろそろ・・・ なりそうだ いつまで ぺらぺらと いいかげんにせい と叱られる前にいなくなろう 老兵はしなず、きえさ・・・ としよう じゃ また。
お礼
ご回答をありがとうございます。 かのとき 《受け容れた》のは 神の名をつうじての《ただのナゾ》です。それだけです。 それによって 世界のものごとを ★ 受け容れる深さ ☆ が――そのつど 相手の《人》に応じて情況に合わせ必要に応じてわが心に――現われて来ているのを見い出す。 ★ 神品 ☆ ってか。よく言ったものだ。 いつも最後にいいワインを出して来よる。
★ 信心とは 悟りぬきの一足飛び ☆ そのとおり。 天才も秀才も鈍才も 関係なし。 おや~ 花丸をもらっちゃった 珍しい・・ 神でいえば 直接 神の愛を感受する立場を得るという 気短かな人に向いた方法だ 方法というより それしかない という人に与えられたやり方 なんだろう 信じる心でさえ 与えられている ということに気が付くとき 神はそこにいる 仏だって同じで 如来の大悲が 衆生の心水に映ることを言っている 信じるところに大悲ありと >天才も秀才も鈍才も 関係なし。 その心は・・ いわずも が な だろう 簡単な定義づけなら 信心とは 超越的存在を感受する立場を得ようとすること (冷たい言い方だが・・) あるいは 超越的存在の感受を自らに及ぼそうとすること なんだろう だいたい これぐらいで いいんじゃないか と いう 狼藉者の感想だ・・
お礼
聖道門は 経験領域でのことがらについて勉強する・努力するということに尽きると考えます。 神に向き合って 自力という言葉は 無用です。 と考えます。 どうだろう。 というのが 返答です。 ご回答をありがとうございます。 どうですかねぇ。
行為 カルマ 智慧 プラジュニャー 信愛 バクティ このうちバクティなんですが なんだか意味がたくさんありますね。 bhakti http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=bhakti+&trans=Translate&direction=AU
お礼
ありますねぇ。 ご回答をありがとうございます。 で おしまいになるご回答の仕方ですよ。
いや~ いい感じになってきましたね フルボッコ 大好き これだから やめられない 止まらない ノーガードでいきましょうか 仮定と過程 面白い 信心とは 悟りぬきの一足飛び でも踏ん張らなくちゃいけない 踏ん張らなくても済むようになった時は もう 「信じる」 という固い言い方はしなくてもいいと思います 信じてしまった という状態には あえて 「信じる」のだと言い聞かす必要はない 信じてゆく過程とは 「信じる」という言葉から離れてゆく過程なのだと思います 「信じる」というスタートの段階が やはり「信じる」ことなのでしょう だから やはり 血の通った仮定 踏ん張りみたいなものを「信じる」と言ってみたい ん~ このへんで・・ 煙に巻けないかな・・煙幕の術
お礼
★ 信心とは 悟りぬきの一足飛び ☆ そのとおり。 天才も秀才も鈍才も 関係なし。 ★ 「信じる」というスタートの段階が やはり「信じる」ことなのでしょう ☆ これも――おっと まづは ご回答をありがとうございます―― ほんとうですね。 つまり 無神論をえらぶとき――もしくは おれは神を信じていないと気づいたそのとき――にも その《スタートの段階》が 重要であろうと思います。そして 無神論者がその《無い神を信じる》ということになるように 《やはり スタートの段階が「信じる」ことなのでしょう》。 ★ ~~~~~ だから やはり 血の通った仮定 踏ん張りみたいなものを「信じる」と言ってみたい ~~~~~~~~ ☆ これは 小説の中の一節なら かまわないでしょう。ひとの関心を惹きつけるかも分かりません。 もう一点。 けれども・ですが いろいろ言いますが 《信じる》というのは いづれわたしたちがおのおのそのナゾの神さんに実際にお目通りしたときには もう――目の前に見ているのですから――要らなくなります。 《信じる》必要はありません。 ただ 神との・あるいは他人(ひと)との・さらにあるいはおのれとの関係性は なくならない。と言われています。 これが 《愛》なのだとか。 もしそうなのなら 命題のかたちでは こう言われるようなのですが: ○ 信仰は愛をとおしてはたらく。 または ○ 愛が信仰をとおしてはたらく。 すなわちそういう動態を予定していると思われます。 何しろまだ神を顔と顔を合わせて見たことがないもんで。 小乗は 愛を説かない。
★ あんちゃん ☆ って特定の選手ですか? 永遠の あんちゃん でいたいですね 信じることのできる あんちゃん でいたい 年をとると 誰にも叱ってもらえない 上手ばかり言われて なまくら返事ばかりしている 半分信じて 半分疑う のが自然になってきてしまう 心が いつも濁っているのが当たり前になってきてしまう 叱られても 怒られても それでも信じる という純粋さ 失いたくないもんです 信じる という力を体験したことのない者には 信じる ということの強さは分からない ただの 賭けじゃない 未来を呼びこんでしまう 心の広がり 強さなんでしょうね 光を求めて 木の枝が伸びてゆくように 広がってゆく 後戻りはしない これでいいという軌跡を描いてゆく 信心の足跡とは そうしたものなんでしょう 血の通った仮定・・それが信じる心 信心じゃないですか
お礼
せっかくですから――おっと まづは ご回答をありがとうございます。――こんどは〔と言いますか いつものように〕こちらが フルボッコで言いますよ。 ★ 血の通った仮定・・それが信じる心 信心じゃないですか ☆ もし《仮定》だとしたら それはマチガイです。《予断》はありません。 つまり確かに《賭け事において賭けるように その神の名を心に受け容れる》と言いましたから 《大穴を狙っている》という予断ないし仮定が見え見えであると言われるかも知れませんが それは きっぱりとした違いがあります。 ひとつに 賭けるときに 一方で損得の問題であって大儲けを狙っているというのは百も承知のことですが 他方でじつはその損失のことも同じく百も承知のことであるとは考えられます。つまりイチかバチかというのは 結果が分からない――そしてこればっかりは インチキが仕込まれているのでないかぎり 分かるか分からないかが分からない――その情況での判断だという意志行為になっています。 ひとつに 賭けたときの心境は じつは――おそらく あんがい――いわゆる無心の心境であるようなのです。その場面においてその一瞬の出来事としてです。 つまり神がわが心におとづれるのは――夜中に盗人が襲うかのごとく―― 人間の思考や意志を超えたところに起きると思われます。 すなわち――神のおとづれを事前に俟っているということが 誰にでもと言っていいほどあるのですが それでも―― 人間の予期やあるいは心の準備といったこととも関係なく 《信じる》ことが成る。ゆえに 事前の《仮定》は それがあるかも知れないが 基本的に関係しない。 この《仮定》が もし《過程》のことだとしますと つまりそうすると 《信じる》がすでに成ったあとの動態のことを言っていることになりますが そうだとしますと その場合には 確かに《血の通った道》をあゆむ。こう思われます。おっしゃるとおりです。 ところが――ところがです ところが―― ★ 血の通った過程・・それが信じる心 信心じゃないですか ☆ と言う場合には その言わば実績を信用して《信じる》をますます強く固めて行くということになります。 これが 微妙に違う感じをいだかせます。 そしてじつは そのような言わば好循環といった道のりは あります。あるのです。何を隠そう 信じた―→よかった―→さらに信じる―→よい結果が出た。それは心から喜び合えるものだ―→ますます信じる―→・・・というよき道をあゆむことはあり得ます。 ですが これは どう受け留めるかは 微妙です。《よい結果が出た。自分だけではなく みなと喜び合いたい》ということであったとしても それは 微妙です。 《神を信じる人》は そのとき《あまえ》ます。聖なる甘えと言っていますが どこまでも甘えて行きます。つまり よい結果が出たから ますます信心を強めようとするのは――その気があっても―― 微妙に違うのではないかと思います。好循環に入った ゆえにいよいよわが信心もほんものに成って来たなとか ますますいい結果を出して行こうとか そのような希望を持ちこれを追うというのは 違うように思われます。 《よき結果があたえられたというその血の通った過程》をとおって来たし いまあゆんでいる。なら どこまでも甘えて行くのであって 自分がその結果を踏まえてさらによいことをしようというのとは 微妙に違うように思われます。 つまり・すなわち・結論としてわたしが感じるところは ★ ~~~~~ 光を求めて 木の枝が伸びてゆくように 広がってゆく 後戻りはしない これでいいという軌跡を描いてゆく 信心の足跡とは そうしたものなんでしょう ~~~~~~~ ☆ というふうにバラ色の道のりとして自分のほうから・人間のほうから描いて見せ これを定義の肉づけのような説明とすることは 微妙に違うように感じます。 《伸びてゆく》のは 結果です。結果として得られたことです。 《後戻り》をすることも いくらでもあります。もう捨てようかと思うことも 何度もあるはずです。 《これでいい》と――人間ですから あたかもほくそ笑(え)んで思ったりすることもあるのですが――決めるのは おそらく信心ではないでしょう。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
bragelonne様、こんばんは。 「定義」なんて出来ませんね。だって、自由なんですから。 「YBがAクラス入り」なんて、どれくらい(信じて)言っていると思います? (「熱狂的なファンとしての立場」なら、100%でしょう!)
お礼
くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 「定義」なんて出来ませんね。だって、自由なんですから。 ☆ 信教の自由を定義せよ ではありませんよ。 確かに《自由》という理念また憲法においてそれがうたわれること これは 証明抜きで自明のこととして・つまり公理としてみとめられていると見なして かかげられています。 けれども《信じる》という人間の行為とは どういうことか? この問いは 別です。 よくお考えくださいな。 ブランコ効果かどうか知りませんが そういう経験的なことがらについて《信じる》という言葉を用いる場合というのは 神を信じるという本来の用法から類推して派生した二次的な用法です。 つよく思う / あたかも神を心に受け容れているその絶対的な様子に似てそのことを思念としていだく思いがことのほか強いという意味内容での派生用法です。
- yuniko99
- ベストアンサー率15% (31/204)
人間には真理は分かりません でも確信がある と言うところまでは行きます 自分いはどうしてもそう思える それが妄想でも 証明は出来ないけど信じる 信じないと何を頼りに考えて良いか分からない だから信じて行動する 生活する 南無阿弥陀仏でもアーメンでもいいのです 私はそう思うでもいい それが無いと人間は行き難い。哲学が出来るのは暇な人だけです 漁師には漁師の哲学が在り信じるものがある。 教師には教師の哲学があり 信じるところがある。 それが信じることの効用であり 信じることだと思います。
お礼
ゆにこ99さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 まづ ★ ~~~~ 人間には真理は分かりません でも確信がある と言うところまでは行きます ~~~~~~ ☆ まさにこのとおりだとわたしも思います。 そのことが 次のような姿として 現実に見られるのだと。 ★ ~~~~~ 漁師には漁師の哲学が在り信じるものがある。 教師には教師の哲学があり 信じるところがある。 それが信じることの効用であり 信じることだと思います。 ~~~~~~~ すなわち ★ ~~~~~ それが妄想でも 証明は出来ないけど信じる 信じないと何を頼りに考えて良いか分からない だから信じて行動する 生活する ~~~~~~~ ☆ ということだと捉えられます。 そこで この質問は――哲学カテなのですから―― ★ ~~~~ 南無阿弥陀仏でもアーメンでもいいのです 私はそう思うでもいい それが無いと人間は行き難い。 ~~~~~~ ☆ というときの《信じる》――このように呼ばれている人間の行為は 果たしてどういう内容をもったものなのか? これを 一般的な理論として捉えよう――こういう問い求めであると思っています。 ひとつには もしその内実が分かって 人びとの《信じる》にとって共通のかたちとして互いに了解されうるならば その《信じる》をめぐってあらそうことはなくなると思われます。 同じそのとき――もうひとつには――おそらく 個人が《信じる》というおこないは 確認できてとうぜん認められると思われたとき けれどもその《信じる》を 集団においてオシエを掲げてその権限関係をともなった階層組織の中で《実践する》などということは ありえない。のではないか。こういう問題が出て来ると思っています。 ひとは個人一人ひとりとしてそのおのれの主観内面において《信じる》のであって 組織において・組織のオシエとして《信じる》などということは あり得ない。 オシエは 信じることの蝉の抜け殻であるに過ぎない。 人が人の《信じる》について出しゃばったことを言えるというのはマチガイである。 こういったことを 《信じる》の理論は 明らかにするのではないか。 こういった主題(問題)を視野に入れています。
野球解説コーナー こ ここでルーキーですよ 信じられませんね どうなんですか? いや~ 未完の大器に賭けているんじゃないですかね~ それだけ 期待してるってことですよ で でも上位ですよ 一発出たら決まってしまう場面じゃないですか いや こ~ゆう荒れた試合の後半は 選手はあんがい大振りしないもんですよ ラストバッターは別だけど 球を覚えられる前に 打ち取っていく戦術なんじゃないですか ルーキーで それができますかね 丁寧に投げさせようとすると失敗しますね 思いきって投げさせた方がいい まあ 打たれたら打たれたで いい経験になるんじゃないですか 経験ですか 試合の結果より 経験が大切だと・・ そう 無心で精一杯投げるということは 若い時しかできませんからね ほ ほらっ 今のストレートだって良かったでしょ あれでいいんですよ あれで でも 監督も冷や汗もんでしょうね どうなるか分かんないという・・ あ~ それはもう びっしょり でしょうね~ 上へあげてやった二軍コーチなんか いても立ってもいられないでしょうね~ で どこまで持ちますかね・・ そりゃ 分かんないですよ 分かっちゃったら面白くないでしょう 野球は分かんないから 面白いんです (と 言いたい放題・・) TVでは あんちゃんが 大きく映っていた ほぼ そればっかり・・
お礼
自信のある内容であっても まだ定説や常識になっていない場合は 公開して情報交換する。ということだと思っています。 それに 公開したことで あらたな視野がひらかれて――またそのことを回答者の文章から得ることが出来る場合があって―― とにかくまじわりは大切だと思われます。 微調整にしても 重要です。 こういう思わくにて 設問しています。 だけど 評論が多いですね。ここは。 哲学として多少は 理論として対話する・また理論そのものを追究する のが本筋ではないかとは思うんですけれど。 時論・時評になれば 理論だけではなく 応用問題なのでしょうけれど。 ★ あんちゃん ☆ って特定の選手ですか?
補足
お礼欄で お礼を抜かしちゃった。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 言葉と捉えると経験域となると思います。 ☆ こんなことは尋ねていません。 ★ 無限の正体ですが ☆ を尋ねています。 けれども ★ 定義から理解するしかありません。 ☆ というような《理解》の問題を尋ねているのでもありません。 定義した内容としてのそのモノゴトないしコトガラが 経験現象として人間に観察され得ますか? という問いです。 ★ 物理現象の無限については 観測不可というだけです。 ☆ だから どうなんでしょう。《観測不可》は 経験現象なのですか? どうしてそう言えますか? あるいはつまり 無限についての定義内容に対応する経験現象は 《観測可能》だとも《不可能》だとも どちらとも言えない。言えるか言えないかが分からない。――こういうことではないのですか? おつかれさまでした。
補足
ここからさらに前へすすみたい。という意味で BAと思いました。