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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《信じる》を哲学として定義せよ)

《信じる》を哲学として定義せよ

このQ&Aのポイント
  • 《信じる》とは、一般に《神》を対象として、神の名を心に受け容れることである。
  • 《神》は非経験の場であり、経験的な因果関係から自由であるとされる。
  • 信じることによって、信仰は動態となり、非思考の庭で日々進化していく。

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  • ok9608
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回答No.7

No.5です。 無限・・・・・たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか? ==>無限は経験域の中と思います。無限の正体ですが定義から理解するしかありません。数学では無限とか虚数とか 非ユークリッド幾何とか 日常では馴染みのない言葉がでますが 定義はされており全て経験域とおもいます。物理現象の無限については 観測不可というだけです。だから非経験とするのは狭義の理解であって言葉と捉えると経験域となると思います。 【信じる】の議論 ありがとうございました。平行線議論と思い ここで休憩とさせて頂きます。また言いたくなったときは投稿しますのでよろしくお願い致します。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 言葉と捉えると経験域となると思います。  ☆ こんなことは尋ねていません。  ★ 無限の正体ですが  ☆ を尋ねています。  けれども  ★ 定義から理解するしかありません。  ☆ というような《理解》の問題を尋ねているのでもありません。  定義した内容としてのそのモノゴトないしコトガラが 経験現象として人間に観察され得ますか? という問いです。  ★ 物理現象の無限については 観測不可というだけです。  ☆ だから どうなんでしょう。《観測不可》は 経験現象なのですか? どうしてそう言えますか?  あるいはつまり 無限についての定義内容に対応する経験現象は 《観測可能》だとも《不可能》だとも どちらとも言えない。言えるか言えないかが分からない。――こういうことではないのですか?  おつかれさまでした。  

bragelonne
質問者

補足

 ここからさらに前へすすみたい。という意味で BAと思いました。

その他の回答 (26)

noname#189751
noname#189751
回答No.8

やってますね まだ やってる・・ (野次馬です・・) そろそろ リリーフピッチャーを投入 火消し役を入れないと いけない 燃えさかる炎を なんとか消さないと 焼け死んでしまう・・ 大魔神か いや 岩瀬か 西村は打たれたばっかりだし 困った 延長線のゆくえは・・ どうなんだろう 監督・・ そろそろ ご決断を う~ん・・ 難しい 代打の代打が 出てくる可能性がある こちらもリリーフのリリーフでいこう 監督・・ 代打の代打の代打が出てきたらどうします リリーフのリリーフのリリーフだ いません 誰でも え~じゃないか 上がってきたばかりのやつを出せ いいんですか ルーキーです やらせてみろ 賭けだ 二三球でもいい コーチはダッグアウトから駆けだした (あんちゃん 頑張れ・・) と 祈りながら あんちゃんは マウンドに立った 大観衆のマウンド 子供の頃から夢にみたマウンド 心臓が ばっくん ばっくん してる 全身が ビリビリ してる 試しに投げている自分は 自分じゃない 指先のボールの感覚が いつもじゃない (ダメだ 投げられない・・) それでもGOサインはでた おぼつかないまま投げた 1球目 「ボール!」 かっこうだけの投球フォーム 2球目 「ボール!」 3球目 「ボール!!」   キャッチャーが駆けてきた いいか! おれのミットめがけて投げるんだ! 全力で腕を振れ! ストレートだ! こわい顔だった 言い終わると ポンとやられた まっすぐ顔を見て ニコッ と笑った (先輩・・) あんちゃんは 高校の時のことを思い出した 同じ言葉を聞いたことを思い出した 何かが広がっていくような感じがした それはボールにも伝わった 4球目 サインがでた ストレート ど真ん中 ミットが大きく見えた ん よしっ 踏みこんで・・ それっ !! ミットめがけて 体で投げた 肩あたりから出てゆく手の指にボールが分かる 人差し指と中指にボールが乗っている 腕がムチのようにしなってボールを送り出してゆく (いつもの感覚だ・・) バシッ!! 「ストライク!」 パチ パチ パチ ワ~ ワ~ ワ~ 大きな拍手だった 大観衆の拍手だった 監督・・ 投げ ま し た ね ・ ・ ・ ・ ・ ・ 二球目は 打たれるぞ それでも  ストレートだ 打たれてもいい ストレートだ 監督・・・ 最初から逃げることを覚えさせるな 打たれてもいいんだ 試合が終わっちゃいますよ うるさい! あいつのために この試合をくれてやる・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・

bragelonne
質問者

お礼

 そういう意味でなら フルボッコで・あるいは このたたき台がサンドバッグになって叩かれてもかまいません。  微調整は必要だったと分かったとしても 大筋ではまづマチガイはないと思っているからです。  十年二十年と思惟の跡を残して来ていれば たいていの疑問や批判には応えられます。  だいじょうぶですよ。  岩瀬 まだだいじょうぶかなぁ。ほかのピッチャーももうひとつなんだなぁ。  回答と励ましをありがとうさん。

回答No.6

あなたは神様を見た事がありますか? あなたは神様の仕業としか説明出来ない現象を体験した事がありますか? 信じる信じないは、まずこの超常現象や出会いから始まります 一点、体験をする方法をお教えします 今ここで私に思いっきり喧嘩をふっかけてみてください お遊びレベルでは無く、本音として喧嘩を売ってください その後、あなたが経済的損失(優しいレベルでちょっと高価な物が理由もなく壊れた、悲惨な場合は数億円の損害が出た)を受けたならそれが神の仕業です 信じるか信じないかは自由 真面目に気をつけてください 私の知人のように、私に喧嘩を売った一年後に1000年近く住み続けた土地が放射能まみれになって住めなくなったという事例があります

bragelonne
質問者

お礼

 ぺんぺんまっきーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  そういうのを哲学では 無限判断と言うんぢゃなかったですか。  あしき無限ですね。  つまり そうかそうでないか。  見たか見ていないか。  損失が生じたか否か。  予言されたとおりのことが起こったかそうでないか。  これらの判断は 永遠に限りなく水掛け論としてつづきます。  哲学のいろはのいではないでしょうか。  これは マジですよ。  ただし けんかを自分からふっかけたことはありません。ので 自分から売ったことにまではならないでしょうね。  売り言葉に買い言葉なら けんか――口論――をしたことがあります。ここでもやっています。  ただし 今回は 売り言葉を仕掛けて来いという売り言葉ですから 売り言葉としても買い言葉としても半分の効力しかないものです。  ですから マジで反批判をおこないましたが 《本音としての喧嘩を売った》ということにはならないのでしょう。先に売るつもりはなく いちどもしたことがないからです。  ★ 超常現象  ☆ は 経験事象です。経験事象について《信じる》という言葉を使うのは 意味内容の上から矛盾となっています。  なお  ★ 神様を見た  ☆ とおのれの主観内面において思うことも それをひとに向かって話すことも そこまでは 自由です。  さらには 文学作品として表現するぶんには だいじょうぶです。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.5

No.1です。  ★ 想定されたものは経験(言葉)の場であり  ☆ これは 想定という取り決めにもとづくかぎり・言葉を単なるシルシとして用いているというかぎり そうはなりません。 ==>『 《考えても分かるか分からないかが人間には分からない》ナゾなる神 Xを想定する』の神・Xはたんなるシルシという意味をもたせようが言葉であることには違いないでしょう。想定は言葉には出来ないものの特別な説明のようにBさんは述べられてますが 私には普通の言葉を使った説明と思われます。なんであれ言葉を使う以上 経験の場になっていると思います。  ★ 経験事象の中から選択したもの  ☆ であります。  そして(あ)の《神を信じる》という事例とは 次元を異にすると思われます。 ==>その通り、非経験域からみると次元が異なるということでしょう。しかし、経験域のなかにこそ 信じる があるということを言っているわけです。神を信じる という場合は もちろん神の定義はしておかないといけません。神は非経験域にのみ想定される は理解できないということです。一次用法に異をとなえています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  応酬がつづきます。  ★ ~~~~~~~    >『 《考えても分かるか分からないかが人間には分からない》ナゾなる神 Xを想定する』  の神・Xはたんなるシルシという意味をもたせようが言葉であることには違いないでしょう。  ~~~~~~~~~~  ☆ 《単なるシルシという意味をもたせ》るというのは 精確ではありません。  《とうぜん概念となっていて意味のある言葉を 単なるシルシとして用いる》という取り決めをしておく。というのが 定義の際の約束になっています。  むろんと言いますか この約束ないし取り決めは やぶっても罰則があるわけぢゃなし かんたんにやぶられるものです。  やぶられたなら 言葉の《意味》が復活します。しかもこの意味の復活があろうがなかろうが もともと《言葉》でありつづける経験事物(つまり 《言葉》)をわれわれは定義に用いています。つまり  ★ 言葉であることには違いないでしょう。   ☆ そのとおりです。  しかも 定義に際しての《取り決め》は 学問として活きます。そのことまで消えてなくなるわけではありません。  信号無視なる約束違反が横行するからと言って 信号にかんする交通法規が消えてなくなるわけのものではありません。  ★ 想定は言葉には出来ないものの特別な説明のようにBさんは述べられてますが 私には普通の言葉を使った説明と思われます。なんであれ言葉を使う以上 経験の場になっていると思います。  ☆ 意味が取れません。つまり この文章が どういう反論になっているのかが分かりかねます。  ★ 特別な説明・・・・・普通の言葉を使った説明  ☆ この対比が 問題点を明かしていましょうか。  《想定》は 必ずしも《説明》ではないかも知れません。《説明》をおこなう以前に 《これこれの定義による用語でこれから説明するのですが そのこれこれの定義というものを 〈想定〉によっておこなう》という側面がある。この側面は 《想定》などをせずに定義する場合とくらべれば《特別な》出で立ちであるかも知れません。  それだけのことだと考えますが どうでしょう。  つまり 《想定》によるという・ふつうには見られない方法を用いたふつうの定義の仕方です。  ふつうの定義の仕方であるゆえ  ★ なんであれ言葉を使う以上 経験の場になっていると思います。  ☆ と見られてしまうのかも知れません。ですがそれは 《想定による》という取り決めの部分を捨ててしまった見方になります。  あるいはつまり 想定によって定義した《非経験の場 X ないし神》は それ自体はそのまま《非経験》〔という想定〕のことですが そのように定義している人間は・そして定義するという行為は もちろん《経験の場になっている》というのは あたりまえです。  想定したものが 非経験だからと言って 想定している人間が その非経験の場のほうへ連れ去られて行ってしまうものではありません。  きわめて当たり前のことを述べています。よ。  次のご発言内容も 同じ問題であるようです。  ★ ~~~~~~   ★ 経験事象の中から選択したもの   ☆ であります。   そして(あ)の《神を信じる》という事例とは 次元を異にすると思われます。  ==>その通り、非経験域からみると次元が異なるということでしょう。しかし、経験域のなかにこそ 信じる があるということを言っているわけです。  ~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ 経験域のなかにこそ 信じる がある  ☆ のではなく    ○ 信じる行為またその主体つまり人間が 経験域のなかにある。  のです。しかしながら    ○ 想定にもとづくかぎりで 人が信じる神 X は 非経験の場 X のことである。  となっています。ちなみに いまこのように言葉で説明している行為やまたその言葉や文章 これらは むろん経験域の中にある となっています。まったくあきらかな事態です。  ★ ~~~~~~~~  神を信じる という場合は もちろん神の定義はしておかないといけません。神は非経験域にのみ想定される は理解できないということです。一次用法に異をとなえています。  ~~~~~~~~~  ☆ これも 意味が取れません。  もしこの発言内容がそのまま妥当だと人びとがみとめたとしますと どういうことが起きるかと言いますと   ○ 《信じる》という言葉は 《思う・考える》というような・経験事物や経験現象を対象にした心的現象である。  となると思います。それらの言葉のあいだに差異はない。という意味です。  言いかえると    ○ 《神》とは 経験現象や経験存在のことを 自然や人間やといった言葉とは別に・しかもまったく同じ意味で 指して言う言葉である。  となります。《いくぶん特別な・または不思議なところがある場合に限って言う》としても 人間存在や自然現象としてはまったく同じ内容を指して言う言葉だとなります。  つまり 神や信じるという言葉は 経験事象にかんして言うのみだと。  非経験の場などというのは ありえないし 想定によるにしろ やはりあり得ないのだと。    ここまで来ると いわゆる見解の相違でしょうか。あとは 水掛け論になる地点に来たかと思われます。  この世界は 《経験事実 Y 》がすべてを占める。それ以外にはないし 想定することもあり得ないということのようですから いや想定しうるのではないかと言っても 平行線をたどるのみであるかと思われます。  こうなりましょうか。

bragelonne
質問者

補足

   ○ 無限  は 経験事象でしょうか?  二や三で割っても 商がやはり無限だというその無限は 経験世界におけるものごとなのでしょうか?  たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか?

回答No.4

A2です。 訳が判らんけどすごいからひれ伏しました。 これが神への信仰の全てなら、 ノストラダムスのが悪夢に描いた恐怖の大王を駆逐したのはなにを隠そう私だ。 こんなほらをが吹いたとしても、アホはひれ伏すのではないか。 自称弥勒菩薩の実験で私自身これを猿回し検証していますが、謎は嘘に弱いのではないか。 そしてそこら辺に転がっている、哲学の多数派と変わらない考えで、抜きんでた斬新さがないのではないか。 こういう意見です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そのようなウラの意味があるとは思いも寄りませんでした。  ★ これが神への信仰の全てなら  ☆ ここには誤解があるようです。  《信じる》の定義をおこなうということは 《神への信仰の全て》について 最大限にその要素などを抽象してそのエキスを言葉で表わすということになります。  ★ 謎は嘘に弱いのではないか。  ☆ 信仰の内容を抽象してしまって 最小限の要素要因のみを表現しているゆえそこには《ナゾ》が出来てしまう。そのようなナゾは 《ウソによわいのではないか》? ――ん? どういう意味だろう。  ★ ~~~~  そしてそこら辺に転がっている、哲学の多数派と変わらない考えで、抜きんでた斬新さがないのではないか。  こういう意見です。  ~~~~~~~  ☆ だとしたら  ★ 哲学の多数派  ☆ から一二の例を拾って来て ほら おまえの定義と同じことを言ってるよと示すのが 筋でしょうね。  ★ 斬新さ  ☆ を狙っていると見ましたか。  むかしからの持論ですから 斬新である・ないという点にかんしては 感じなくなっていました。  けれども 《哲学の多数派と変わらない考えで》あるということなら 必然的に《斬新さがない》と帰結されるのは あたりまえです。  ですから その例示・例証が 最低限必要でしょうね。  言っておきますが こういう議論の手続きのことを指摘されてから それに答えるようでは その例証ができるとは 思えるわけがありません。テツガクのテの字も見当たりません。  答えられるわけがありません。とタカをくくっておきます。  すなわち  ★ こういう意見です。  ☆ には 何ら中身が見当たりません。空っぽのポのポです。

回答No.2

後半の定理とかはさっぱり判りませんでした。 訳が判らんけど何かすごそうだからとりあえずひれ伏してみました。 その辺の理解できてないあたりはそこら辺の多数派とどう違うのか判りませんでした。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ですが これぢゃ 分かんない。応答のしように迷う。  ワケが分かんないけれど ご投稿はありがたいのでお礼の言葉を述べてみました。とでもなるのですが。・・・

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.1

精査したわけではありませんが、私は 信じるとは 経験事象の中から選択したものを最大強調して心に受け容れることである。 と思っています。 Bさんの主張は 非経験の場が対象となっており それは言葉では表現できなく 意味のないシルシ神が想定されとしています。想定されたものは経験(言葉)の場でありそのあとは 経験の場のなかに信じるを考える ことになります。この後半は私も是とします。

bragelonne
質問者

お礼

 ok9608 さん こちらであらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  こちらもあんがい ぶつかりますね。お互い。  ★ 信じるとは 経験事象の中から選択したものを最大強調して心に受け容れることである。  ☆ これは 確かにそういう表現も用いられています。けれどもそれは 神を信じるという〔本来の〕用法から派生した語法だと考えます。  一次用法:   (あ) 《神を信じる》とは:      神を――という意味は 絶対なるもの〔これは 経験世界ではついぞ    見ることあたわざるものであるゆえ その神〕を――そのシルシとして    の名をつうじて心に受け容れている。  という内容をしめしている。  二次的・派生用法:   (い) われは わが親友の無実を《信じる》。とは:      われの知るかぎり かれはいまうたがわれているようなことをする      人間だとは まったく思えない。   と言っている。つまり 経験思考の問題におさまる。あるいは   (う) ■ (【Q:・・・神とは何か】への或る回答) ~~~      私は人間を信じるよ。      他者を理解することは信じる事だと考えるよ。      無根拠の衝動がそう駆り立てるんだ。      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     これは じっさいには神(あるいは 無い神)とのかかわりは切っても     切れないのだけれど それでも・そのことは措いておいて      私は 人間の知恵や潜在的な能力に賭けてみる。      人間は将来まだまだ何をやらかすか分からない。秘めたチカラを持ち     可能性がゆたかにそなわっているはずだ。   と言っている。すなわち経験思考のおよぶ範囲である。  つまり 未知( Y )と非知( X )とは別だからです。  すなわち 事例の(い)と(う)とは 非経験の場 X とはかかわりのない領域での話だと考えられます。  ★ 経験事象の中から選択したもの  ☆ であります。  そして(あ)の《神を信じる》という事例とは 次元を異にすると思われます。  ★ ~~~~~  B さんの主張は 非経験の場が対象となっており それは言葉では表現できなく 意味のないシルシ神が想定されとしています。想定されたものは経験(言葉)の場でありそのあとは 経験の場のなかに信じるを考える ことになります。この後半は私も是とします。  ~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★ B さんの主張は 非経験の場が対象となっており  ☆ はい。それが 《信じる》の本来の用法だと見ます。  ★ それは言葉では表現できなく  ☆ はい。ゆえに 言葉をシルシとして用います。  ★ 意味のないシルシ神が想定されとしています。  ☆ (え) 言葉をシルシとして用いるわけですが 言葉ですから《意味がない》というわけではありません。  たとえば ゴッドは 《招(を)かれた・呼び起こされた・祈り呼び出された》といった意味から来ていると言います。   ▼ OnlineEtymologyDictionary: god   http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=god&searchmode=none  日本にも《わざ(業)・をき(招き)》というのがあります。  神意を寄せるために 神の前でいろんな芸をふるまうことで いまでは《俳優》のことらしいです。  つまり この《神意をうかがい寄せる》という言葉―― God は その過去分詞形――であり やはり意味があります。  (お) 意味のある言葉を用いて ただシルシとしてのみ 神の仮りの名とする。  (か) 《神》は すでに先に《非経験の場 X 》として想定されています。    ★ 想定されたものは経験(言葉)の場であり  ☆ これは 想定という取り決めにもとづくかぎり・言葉を単なるシルシとして用いているというかぎり そうはなりません。  すなわち 《想定されたものは――言葉を用いて呼ばれています・したがって言葉が用いられているからには それがシルシにしか過ぎないという前提をとりはづせば 言葉にかんするかぎりそのまま――経験(言葉)の場であり》ます。ですが それは 想定ないし前提を忘れています。  ★ そのあとは 経験の場のなかに信じるを考える ことになります。この後半は私も是とします。  ☆ いいえ。それは やはり想定ないし前提を見失えば ぜんぶ言葉の問題となってしまいます。そのことは はっきりしています。すべては経験事象の中にすっぽりおさまってしまうわけです。想定をはづしたのですから それは そうです。  ですが 神の仮りの名は いかに言葉を用いていたとしても ただのシルシであるに過ぎません。そのように想定することは 科学が定義をおこなうに際してみとめられている方法だと思います。