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大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良”盆地”が関与し

日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました。 その後、都は、同じような地形の京都盆地に移りました。 そして、都は、海岸近くの鎌倉・大坂・東京に移りました。 規模がまるで違いますが、4大文明は、黄河やナイル河などの大河沿いに発生しました。 質問は、大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良“盆地”という地形が、関与していますか?

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回答No.2

水の無い所に人は住めません。 奈良盆地は太古湖でした。湖の水が退いたのは,二上山火山活動の影響で,大和川の流れが出来,排水が始まった為と,何かで読みました。 集落跡などが次第に低地へと移った痕跡も発掘されています。 全ての遺跡が,水と深く関わっています。 直ぐお隣の近江盆地も,滋賀県のほぼ全域の水を琵琶湖が集め,排水口は宇治川だけです。 人の暮らしの痕跡で言えば,大和も近江も大差ありません。 水辺の暮らしは,陸行よりも水行の方が余程便利でした。 盆地地形は,外部からの攻撃に対する防御にも優れています。 京都盆地は北山に守られて豊かな湧水に恵まれ,かつ,鴨川と桂川に囲まれた優れた防御地形で,「君主は南面す」の陰陽法に適い,実り豊かな平野を持っていました。東山も西山も天然の防御壁。 桂川,鴨川,宇治川の合流地には広大な巨椋池が有りましたが,干拓で消滅しました。「巨椋」は古代の歌集にも頻繁に登場します。 建都当時には,現在の今宮通りは,都から見て北山の北側に当たります。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 大和川や宇治川や湧水があり、大和も近江も水は充分あったのですね。 そして、水は直接の生活水ばかりではなく、移動や運搬に役に立っていたのですね。 そして、地形的には、大和も近江も防御に優れていたわけですね。

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  • TANUHACHI
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回答No.5

 休憩時間を利用しての回答ですので、推敲が十分に至らない部分がありましたら御寛恕いただければと存じます。  >日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました この前提には一つの誤解があります。本格的な統一国家(日本列島および沖縄および島嶼部を含む現在の国土全域とは等位にはならないが)が誕生したのは8世紀、律令に基づく中央集権的な社会統治システムの登場を待つしかありません。  これに対し「ヤマト王権」の誕生と想定されているのはそれよりも以前の段階で、これは地域の首長連合組織であり、田舎の寄り合いもしくは町内会的な組織です。それぞれが「土地にいる王」ですから、その支配下にあるものは王に隷属する形で、この部分が「一つの権力によって統一された国家」との意味にはなりません。「政権」は「何らかの法的裏付けに基づく組織に基づく統治権力」を意味します。7世紀段階まではこうした形態はありません。  「ヤマト政権」の所在ですが、地理的には現在の大和平野南部から飛鳥・桜井・三輪あたりとされています。  この地域は大和川の水運を利用して大阪湾からさほどの距離でもありません。この地域には蘇我・物部・葛城・平群・大伴・巨勢などの豪族がそれぞれの勢力範囲を持っていた痕跡もあります。  ですから、この質問は根本的に成り立たない話となります。奈良盆地から北に目を向けますと、平城山を越えた手近なところに木津川の流れもあります。一概に「水辺から遠い」との結論には至りません。  日本国内では他にも現在の群馬県から栃木県を勢力下に治めていたとされている毛野氏などもいますが、この地域は「海無し県」です。にもかかわらず、そうした勢力があったという事実を「水」と関連づけるだけでは説得力にかけるとの疑問が生じますが如何でしょう。  因みに四大文明殊に中国のそれに関して、現在では華中の淮河一帯に発生した文明が先駆的であるとの見解が定着しつつあって、それは四川盆地周辺の三星堆を始めとする内陸部の遺跡とそこから発掘された遺物によって裏付けられてもいます。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 ヤマト王権は、 <地域の首長連合組織> であるのですね。 <大和川の水運を利用して大阪湾からさほどの距離でもありません> ですね。水辺から遠い、わけではないのですね。 そして、日本では、群馬・栃木の毛野氏の例もあり、中国では、 <四川盆地周辺の三星堆を始めとする内陸部> の例もあるように、水辺から遠い・・・は必ずしも正しくはないのですね。

回答No.4

水辺に縁遠いというのがそもそも間違いで、当時は大和川による水運が発達していました。記録として残るのはだいぶ後世のものになりますが、桜井の海柘榴市は河港として栄えたことがよく知られています。「日の出づる処の天子、云々」の国書で有名な遣隋使にたいする使者として隋から派遣された裴世清は難波津から海柘榴市に着いています。大和政権が成立する3世紀ごろも似たような状況であったろうと出土品から推察できます。 海柘榴市跡 http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/tubaiti.htm 瀬戸内方面の物品のみならず東海地方由来の物品も非常に多く出土していることから、3世紀ごろヤマトは東西交易の流通の拠点であったであろうことも推察でき、少なくとも東海地方(拡大すれば関東まで視野に入る)から瀬戸内、九州まで広がる広域国家の首都としては非常によい立地であったと思われます。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 海柘榴市については、初めて知りました。(歴史の初心者ですから、当然ですが) 国際的にも機能していたのですね。 大和川の水運が発達していて、 <ヤマトは東西交易の流通の拠点であった> のですね。 <広域国家の首都としては非常によい立地であった> わけですね。

  • poomen
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回答No.3

 文明の意味がわかってらっしゃいませんね。南米のインカやマヤ文明を見れば必ずしも大河のそばでなくとも統一権力が生まれます。  また中国文明の拠点となった都、殷、それからや秦の咸陽、それから後の長安なども大河のそばではありません。 >日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました  これも認識の誤りです。当時の権力連合体の領域はは畿内から西(九州南部を除く)、東は今の岐阜あたりです。これを「日本が本格的な統一国家になった」というのは間違っています。南西諸島、北海道を除いた地域に中央の権力が届くようになったのは平安時代中期以降です。    あとは#1の方の回答に準じます。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 旧大陸の4大文明は大河の付近に形成されたのに、新大陸の文明は、大河には恵まれていないにも関わらず.形成されたことは、以前から疑問に思っていました。 本格的な統一国家・・・の件は、勇み足だったようです。 奈良盆地については、防御に優れていた、といことですね。

  • mizukiyuli
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回答No.1

文明は文明で政権とは違いますからね。 盆地は攻められにくい土地だそうです。 攻められにくいということはその分侵攻に回す兵力が増えるということなので、他地方を侵略・征服しやすかったのではないでしょうか。

park123
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。 <盆地は攻められにくい土地> ですね。 後に続く京都も鎌倉も、守りには適している地形のように思われますね。

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