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4世紀前半、大和政権は、どこまで進出していましたか

 新潟県北部の城の山古墳の出土品によると、大和政権は4世紀前半に、日本海側では新潟県まで影響していた、とのことだそうです。  そのころ、太平洋側では、大和政権は、どこまで進出していたのでしょうか?

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回答No.2

城の山古墳の発掘成果は、もちろん歴史を塗り替えるといった発見であり、かつては律令制下で規定される北陸道を中心とした「越」のライン上では、越前あたりが支配範囲と言われていたものが、今回、さらに北へ進む可能性があるという事です。 ですから、今後の成果によっては令制下の東海道を中心としたライン上における、王権の伸長も書き換えられる場合もありますが、現在においては尾張付近が東限だと考えられていますね。 考古学カテにありながら、歴史学の回答で申し訳ございませんが、初期ヤマト王権は御県(みあがた)という王領を設定してゆくのですが、延喜式以前の古典などの研究成果により、御県が設定されている地域は東海道のライン上では「伊勢・6」「尾張・2」ということであります。 ちなみに越は一つの御県が設定されていたことから、越前が北限だったのですがね…城の山古墳は鏡(三角縁神獣鏡)の出土はあるのでしょうか? いずれにせよ、支配関係の実態をもう少し詳細に論じることができる成果を待って、慎重な議論を深めるべき問題ではあります。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 考古学や古代の歴史については、あまり知らない私は、以下の点ついて気づかていただきました。 今のところ、王権の伸長は、東海道中心としたラインでは、尾張付近が限界。 城の山古墳などで、三角縁神獣鏡の出土があれば、いろいろ分かることがある。

その他の回答 (2)

回答No.3

#2です そうですね。三角縁神獣鏡については、同鏡の歴史的意義については、いまだ定説に至っておりませんから、それだけでは判然としないのですが、それにしても「出土品が豪華」というだけでは大和朝廷とのつながりを連想できたとしても、決定づけるまでにはいたらないのかな?と思います。 畿内型の円墳ということは、少なからず大和朝廷の支配が及んだと考えるのが自然なのですが、支配・被支配といった関係を立証するのは、非常に難しくデリケートな要素が沢山ありますから。 そのような中で、「大和朝廷が支配した」という根拠の在り方として、前回の回答にありました「御県(みあがた)の設置」これは大王の領地を設定するということで、当該地域の土地に対して具体的な発言力を大和朝廷が有したという面で、そこは「支配」に近い関係性が認められますし、三角縁神獣鏡については、俗に「卑弥呼の鏡」と言われるぐらいで、柵封体制下の邪馬台国が古代中国の勢力下にあり、その関係を日本国内の政治に投影した結果として、邪馬台国が諸国に対し鏡が分かち与えれていたといった支配の在り方。それはそれで支配を示す重要な根拠になり得るという事なのだと思います。 ただ、今回の発掘成果は具体的な遺物によることなく、当時の当該地域の在り方を考える上で。貴重な成果ではありますよね。というのも4世紀というのは、日本史を学ぶ上では、少なからず存在した古代中国の資料などを欠く(『魏志』倭人伝など)謎の世紀ですから、極端な話ですが3世紀(邪馬台国)と5世紀(倭の五王)といった時代を見つめることにより「原因(3世紀)と結果(5世紀)」の中から4世紀を憶測することしかできないんですね。そういった中で考古学の果たす役割に依存しつつあるのが、4世紀時点での我が国の歴史ということになろうかな?と思います。 そして「風が吹けば桶屋がもうかる」といった関連性なのかもしれませんが、もし当該地域(新潟県)まで王権の支配が及んでいたとするならば、手詰まり感のある邪馬台国論争にも一石を投じることになりますからね。 ですから質問者様と同じく、僕も今回の発掘成果には並々ならぬ関心を抱いているところです。 いずれにせよ邪馬台国は大和朝廷の前史として存在した勢力だったのか?はたまた九州の一勢力にすぎなかったのか?新潟付近まで4世紀の王権の支配が及んだとするならば、俄然、大和朝廷の前史としての邪馬台国(畿内説)といった理解が勢いを増すところなんですね。 我々の住む「日本」という国の誕生を明らかにするであろう、4世紀の謎にも絡む「城の山古墳」 どのような状況であれ、古代史を語る上で大きな問題提起をした、画期的発掘成果であることだけは間違いなさそうです。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 以下のようにいろいろ示唆をいただき、考えようと思います。 <支配・被支配といった関係を立証するのは、非常に難しくデリケートな要素が沢山あります>   御県や三角縁神獣鏡 <謎の世紀>   貴重な成果 <手詰まり感のある邪馬台国論争にも一石>    邪馬台国(畿内説)への応援かも

回答No.1

私も今日の新聞の記事で、『城の山古墳』から近畿地方でみられる銅鏡や勾玉などの副葬品が出土したとの、新潟県胎内市教育委員会の報告内容を読んだばかりでした。 それによれば、太平洋側では会津若松市の『会津大塚山古墳』が北限だとの解説になっています。 この古墳で見つかった土師器や銅製の埋葬品が、石川県七尾市の『国分尼塚1,2号墳』のものと似ていたため、大和政権の影響は日本海側を北上し、阿賀野川沿いに会津へ伝わったと、これまでも考えられてきたそうです。 新潟大の橋本教授(考古学)は、「今回の発見で、大和政権の影響が城の山古墳を北限として阿賀野川を遡り、会津に及んだということが裏付けられた」と説明されているようです。

park123
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 <太平洋側では会津若松市の『会津大塚山古墳』が北限だ> そうですが、この古墳は、4世紀末に構築されたそうですね。そして、この古墳は、(太平洋沿いからではなく)城の山古墳から、大和政権の影響を受けたそうですね。私が名前を知っている随一の古墳は、埼玉県の稲荷山古墳で、これは5世紀後半に構築された、とありました。 この時代は、日本海側が、太平洋側より早く、大和政権の影響を受けた、と考えてよいのでしょうか?

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