こんばんは。大学で歴史学研究と教育に携わる者です。
現在の歴史学界では「大和朝廷」との歴史用語は既に使用されていません。この理由として「朝廷」にはシステムとして構築するための「政治システム」が必要だからです。
現在の歴史学の到達点を示す専門用語の一つに「王権」がありますが、この「王」には「権力者」としての側面と「司祭者」としての側面があります。
日本で初めて「システムとしての法に基づく統治機構」が登場するのは奈良時代を待たねばならず、それ以前の飛鳥時代や古墳時代では大和平野だけをみても幾つかの王と王権(豪族とそれらの連合体的組織)が並存し、また瀬戸内海の吉備地方にも吉備氏などの豪族が統治していた形跡もみられ形となっていて必ずしも「統一政権」の体をなしていたとはいえません。
こうしたことを書きますと、右の方からは必ず学術的に根拠の薄い反撃がなされますので詳細には書きませんが、現在の天皇家も元々は飛鳥地方から三輪地方にいたとされる豪族の一つだったとされています。質問者様のニュアンスからは「ヤマト政権」が「大和朝廷」へと進化したものとのご理解がうかがえますが、実際の時系列として整理するならば、「ヤマト政権」>「律令体制」の順番で進化したととらえることが現在の歴史学ではスタンダードな理解です。
また「ヤマト」の呼称ですが、これは例の邪馬台国の問題とも関連し、畿内説(近畿地方の大和平野)と九州説(九州北部から関門海峡を挟んだ長門国あたり)でそれぞれに「大和」「山門」などの呼称があり何れとも結論は出ていないこともあります。別に出土遺物や遺跡の名称ではありません。
お礼
詳細にありがとうございます 正確に知ることが大事ですね! 回答、感謝致します!