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縄文・弥生・飛鳥時代の奈良・大阪(大和・河内)
昔、大阪平野は大きな湖(干潟?)だった、奈良盆地はほとんどが湿地帯だった。 という話は聞くのですが、イメージできずにいます。 縄文時代から飛鳥時代頃の大和・河内の地形が載っている サイトや本をご紹介ください。
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河内周辺については下記を参照して下さい 大阪湾の歴史 - 大阪湾環境データベース - 国土交通省 kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail_p07.html 湿地帯の絵画的イメージであれば下記を参照してください 巨椋池 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/巨椋池 奈良盆地については下記を参照して下さい 先史・ 原史時代奈良盆地の自然環境 - 奈良教育大学学術リポジトリ near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/452/4/kobunnka15_1-30.pd...
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ありがとうございました。 古代奈良のイメージがやはり難しいですね。
- chomicat
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下記のサイトに載っている飛鳥時代の大阪辺りの地図は参考になりますか? http://jumgon.exblog.jp/16164065 又、東京学研が2005年に発行した 「日本の歴史パノラマ絵地図-時代のようすが一目でわかるno1」(田代修著、監修)は縄文飛鳥時代の絵地図が載っていたと思います。 各地の図書館にはあると思いますので。 奈良盆地が低湿地帯だったと言うのは、有りうる話だろうと思います。 奈良よりも少しは海抜の高い京都ですら南部(現在の京都駅から南、伏見・淀・宇治小倉の方迄)は私の子供時代は芹の水田と広範囲に小倉池と云う湖沼がありました。(無数に連なっている大小池のあぜ道を辿り昆虫採集、植物採集をするのは楽しく、当時小学生だった私は毎日の様に淀で下車、あちこち歩き回ってました。) 昭和35年になっても伏見中書島の東、秀吉時代の伏見港跡の干拓を未だやっていましたし、電車ホームの少し先には伏見港に通じる水路もあり船宿も健在でした。今は干拓も終わり住宅が建ち、水路は道路になっています。 又、古い琵琶湖は今の位置では無くもっと南、伊賀上野辺りにあったようです。 そんな事を考えると奈良盆地が低湿地帯だった・・無論丘陵等小高い処は別ですが・・・と云うのは有り得る話だと思います。
お礼
ありがとうございました。 大阪については詳しい地形図がありますが、 やはり奈良盆地の方は、謎ですね。
お礼
ありがとうございました。 大阪については詳しい地形図が存在するのに 奈良については、ありませんね。 研究が進んでいないのか、 湿地帯、湖説がまだ弱いのか。。。