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なぜ大和朝廷をヤマト政権と表記するようになった?

問1 私が小中学生のころは大和朝廷と習いました。 しかし、高校から〝ヤマト政権〟で習いました。 最近は大和朝廷ではなく〝ヤマト政権〟と表記すると聞きました。 なぜそう表記するように変わったのですか? それもなぜ漢字表記ではなくカタカタ表記になったのですか? 問2 〝ヤマト政権〟という表記を見ると宇宙戦艦ヤマトを連想してしまいます。 ヤマトの主題歌のイントロの部分が頭の中を流れます(笑) そういう方はいませんか? http://www.youtube.com/watch?v=D4XMeDO1PyU

みんなの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 一つには「朝廷」との用語の問題があります。 端的に言えば「朝廷」とは一つの統一国家に対する行政組織と表現することが可能で、仮に大和朝廷と表現された場合、それは当時の政治権力が及ぶ範囲として現在の東北地方や中国四国地方などを含むことが到底不可能だからです。当時の日本には統一権力などなかったことも事実で、たとえば瀬戸内海沿岸の吉備地方(現在の岡山県周辺)には王権の象徴的存在である大規模古墳も見られます。ヤマトとするのは奈良県の中部から南部に至るヤマト地方で古くから地域を支配していた豪族による領域支配との意味が含まれています。  実際に日本を一つの法体系で維持し政治的に統治し始めたのは奈良時代の律令による官僚システムの導入を待つことになります。このため現在の歴史学では「大和朝廷」なるテクニカルタームを表記する研究者はおりません。もしいるとすればそれは歴史学の研究に携わる者としての見識を疑われることとなります。研究者ではないと言っても過言ではないほどです。

回答No.4

まず「朝廷」となるとある程度整った政体ですから少なくとも6世紀以前の政権が「朝廷」の体裁を為していたかどうは研究途上ですので「朝廷」としてしまうと史実を歪めることにもなりかねませんし、先入観を生むことにもなります。 そのため「朝廷」という用語は学術的には使われなくなり、教科書もこれに倣っています。 「ヤマト」についてはすでに回答があるように「大和」と表記されるのは8世紀以降ですし、この時期の「大和」は律令の行政単位である「大和国」になってしまうので古代政権の名称としては不適切です。 しかし、その土地が「やまと」と呼ばれる地域であったことは確実なので学術用語としては「ヤマト」とカタカナ表記されています。 ウィキペデイアに簡潔かつ的確に説明されていますので参考にされるとよいでしょう。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.3

ちょっと事実誤認があるようです。単純に大和朝廷がヤマト政権に置き換わったわけではありません。 従来、弥生時代の後で奈良時代の前の時代を大和時代と認識されていました。それがその後の研究によって古墳時代と飛鳥時代と2つに区分する見方が主流になって、古墳時代・飛鳥時代には「大和」という熟語も「朝廷」という政治体制も確立されていないと分かってきたのです。 どちらにしても、それは様々な歴史学者の見解によることであって、学会が統一見解を発表しているわけではありません。時の天皇が今日から、飛鳥時代に変わりますと号令を発したわけでもありません。全部、歴史学者の歴史認識の問題であって、それは政府が閣議決定しているわけではないのです。 言葉は生き物であって、それは法律で決められるものでもないのです。ですから教科書の一字一句に捉われるのは間違いです。今では「大和朝廷」という用語より「ヤマト政権」と呼ぶのが適切だと考える学者が多いというだけの話なのです。必ずしも用語が統一されているわけではない。大和政権と呼ぶ人もいれば、ヤマト王権と呼ぶ人もいるのです。どれが正解で、どれが間違いということでもない。 今後、新たな遺跡や史料が発掘されたり、さらに研究が進んで、再び、大和朝廷と呼ばれるようになるかも知れません。現在が歴史学の最終地点ではないのです。時が進めば、また歴史認識も変わるかも知れません。 教科書の語句の上っ面だけに捉われないでください。

回答No.2

最近の研究により、古事記や日本書紀も『ふるごとのふみ/ふることぶみ』、『ひのもとのふみ/やまとぶみ』と元々は呼んでいたことが分かってきています。 それと同じことですが、大和朝廷という統一した表記に落ち着くのは、古事記、日本書紀の編纂が終わって以降の時代(720年頃~)です。それ以前に書かれた書物の中では、『山門』とか『山戸』などの表記も見られて安定していないので、そういったことを含めて取り敢えず読み方だけはあっている『ヤマト』という表記にしたのでしょう。 これなら、難波(仁徳天皇時代)、斑鳩(推古天皇時代)、大津(天智天皇時代)、飛鳥(天武天皇時代)、藤原(持統天皇時代)など、都の地が安定していなかった頃全てを含めて血統的には連続している一族(天孫ニニギの子孫)の支配を表せる・・・と歴史学者や教科書検定のお偉いさんが判断したということですね。 ただ、ひらがなやカタカナははるか後の世の藤原道長の時代(1000年頃)にならないと普及しないのですけどね。 このへんがちょっと皮肉の残るところです。

回答No.1

「大和」と漢字表記が成立するのは8世紀半ば(奈良時代中期)ですから、漢字ではなく、「ヤマト」とカナ表記することも多い、と何かの本でよみました。 下記HPも参考になると思います。 帝国書院HP http://www.teikokushoin.co.jp/q_and_a/history/#q2

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