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欧米の教科書に解答が無い理由

最近、経済学を独学している者なのですが、 欧米の教科書(クルーグマン、スティグリッツなど)を読んでおりますと、 章末問題は豊富なのに、模範解答が付いておりません。 これらの教科書は大学の学部生の授業で使えることを念頭に置かれているとは聞きますが、 その内容は、独習者向けを目指しているかのように、執拗なまでにきちんとクドクド解説してくれており、 その事と解答が無い事とが不釣り合いに感じ、奇妙に思えてなりません。 日本では付いていないと大変な欠点であると評価されると思いますが、 欧米の教科書では、付いていないのが普通なのでしょうか?

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  • TANUHACHI
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回答No.2

 早々の折り返しありがとうございます。 スティグリッツの系譜を辿ってみましょう、彼が影響を受けた人物にどの様な経済学や社会科学の先達がいますか?  カール・ポランニーもいればJ.K.ガルブレイスもいます。彼らの著作に「一つの模範解答的な結論」が示されていますか?  大学のテクストは参考文献の一つです。中学までの「教科書」とは性格も異なります。高校までのそれには「解答に至る幾つかの方法」が提示されていますが、中学までは「答を出すこと」に重心があり、高校ではそこに付加価値的に「僅かながらの」検証方法が添えられる形です。その先にあるのが大学教育です。一つの問題に関しても様々なアプローチ方法があることから、教員の講義も始まります。    >多くの問題、少なくとも半分以上は答えが一つに決まるものですし、 初学者向けの教科書(当然クルーグマンの教科書以外もです)に書かれている内容はどれも殆どの学者に異論のないものだと思います。(そうでなければ、それは教科書ではありません)  ここに「ボタンの掛け違い」があります。Aという理論体系から観た答が、逆のBという理論体系から観たなら、必ずしも「正解」とはならない。この「正しい」という曖昧な用語こそが混乱の原因にあり、混乱を発生させてもいます。いささか乱暴な説明ですが、「正しい」と主張する相手に「なぜあなたはその様に考えるのですか?」と問うことは自然です。むしろそれがなければ理論ではなく信仰とも呼ぶべき性質の言辞でしかありません。  理論には、論拠と論理そして異論に対する十分な反証が必ず求められます。そうでなければただの独断でしかない。 >また、それら問題には必ず教科書の内容を踏まえた一つの「正答」を設定しているように思います。 TANUHACHIさんは大学の教科書としての用途を念頭に考えていらっしゃると思いますが、 恐らく授業で使用したとしたら、先生が一つの、おそらく唯一の答えを発表する筈です。 そうなりますと、独習者にわざわざイヤガラセをしているように感じられるのです。 大学教育の目的は「考え方を学べ」とのことであって、「答を出せ」ではありません。ある学生が「私はこの史料をこの様に読んだから、この様な結論を導き出した」とゼミで発表すれば、その検証過程と答の間に齟齬はないかに始まり、そう読んだ根拠も同時に問われます。「では別の読み方がありうるか」と確かめた上でなければ、その立論の根拠を支える「正当性」に疑問符が付くからです。もちろん「一つのモデル」はありますが、あくまでも「一つの基準」もしくは「理解の仕方」に基づく結果であって、それが即正しいとの結論にははなりません。 >初学者向けの(特に理論分野の)教科書の章末問題に正答が無いのが普通だとしたら、それは教科書の内容を踏まえた上で各読者のうちに共通理解がまったく生まれないということになり、それじゃあ学問が成立しないのではないか、と思います。 また、説明が十分だから解答は不要、という事ならば、わざわざ章末問題に紙面を割く価値があるのか疑問なのです。 学問は一つの理論体系のみで成り立つものではありません。それは学問の歴史を振り返ってみればお分かりになることと存じます。  経済学ならばアダム・スミスに始まりその後様々な見解が提起されてきています。一方にはマルクス経済学もあれば一方には近代経済学もあります。新古典派もあれば経済学とは言えないレベルのマネタリズムまであります。けれど共通する点は唯一つ「人間と社会の関係をどうとらえるか」との根源的な問題です。  また欧米の教育スタイルと日本の教育方法では、前者が「テクストで何を学ぶか」と後者が「テクストを学ぶ」との根本的な違いもあります。ですから欧米では「ディスカッション」が中心であり、日本では「講義」が中心となってしまいます。この部分は彼我の文化土壌の違いとも申すべき部分で、僕ら教員側も苦慮しています。学生に積極的な参加を求めても中々、土俵に上がってこないのでは徒労感しか残りませんから。  理論経済学ならば先人の研究をどう評価するかとの問題につながりますから、そう易々と模範解答などを着けることも適わない話です。  何か「学習参考書」や「問題集」と「テクスト」を勘違いされているかの様な印象が多分にあります。

masuo64
質問者

お礼

重ねての回答ありがとうございます。 各学者の理論、確かにおっしゃる通りで一つの堅固な概念と過程があるのなら、それは学問ではなくただの術です。 その半面、納得いきかねるところもまだあります。 まず圧倒的少数派ではありますが、知名度のある初学者向けの教科書(あえて教科書といわせていただきます)には解答つきのものもあります。自分の確認した限りでは、マンキューは出版社のWEBサイトで解答のpdfファイルを公開しています(当然のことながら東洋新聞社は翻訳していません)。またヴァリアンのミクロ経済学も英語版では解答がありました(邦訳版では訳者が章末問題ごと省略し、簡便さを優先したと嘯いています)。 それに章末問題の半分以上は、たとえば「この需要・供給均衡状態の下では、消費者と生産者と、どちらの租税負担の方が重くなるか」とか「与えられた方程式の下では金利は上がるか下がるか」といった、明らかに答えが一つに決まる問題だと思います。 初学者向けの解説で理解した基本概念を確認する目的で、著者の用意した問題を考える時に、いちいち著者の学問上の立ち位置なんて初学者には考慮できません。 何故ならその基本概念・システムの大枠を追ったり、それらと既習の話題との関係を整理したりする段階にあって、初学者のやるべき事はまず各学者間の立場を越えて共通の理解を確実に得ている内容をまず学ぶ事だと思います。 それ故、おっしゃる様な論者の立ち位置云々といった精緻でこむつかしい話(本来なら初学者が扱うには準備が必要な話題)をするのなら、なおの事責任をもって自分の想定する解答を添えるべきだと思います。 ……私の見た限り、そもそも章末問題はテキストの内容を踏まえた上でその内容に乗っかって答えを用意するものな筈ですが、著者の考えによると解答者の学問的スタンスによって同時には成立しない解答が複数存在するのにテキストに載る問題なんて初学者向けのテキストにはないと思いますけどね。 あくまで私が話題にしているのは初学者向けのテキストなのですから。 私は経済学に限った話をするつもりではありませんでしたが、カテゴリーに学問全般というのが無いのと、自分が文学部卒の人間なので哲学・言語学プラス最近かじっている(学んでいるとは到底言えません)経済学しか例にあげられないので隔靴掻痒の観は否めないのですが、 結局大学教育での使用を念頭においていて、独習者は顧客の中であまり重視されてないのかな、と理解します。

その他の回答 (1)

  • TANUHACHI
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回答No.1

 >その内容は、独習者向けを目指しているかのように、執拗なまでにきちんとクドクド解説してくれており これが「解答の意味」に相当します。説明が施されているなら解答は不要ですね。ましてや大学で学ぶことの意義を「正答を求めること」と勘違いしているのは日本だけですから。

masuo64
質問者

補足

回答ありがとうございます。 しかしながら、例にあげたクルーグマンなのですが、40章くらいある章末問題の一つ一つに20問くらい問題が付いているのですが、それぞれ似たような問題であったり、単なる算数であったりするものが散見されます。 多くの問題、少なくとも半分以上は答えが一つに決まるものですし、 初学者向けの教科書(当然クルーグマンの教科書以外もです)に書かれている内容はどれも殆どの学者に異論のないものだと思います。(そうでなければ、それは教科書ではありません) また、それら問題には必ず教科書の内容を踏まえた一つの「正答」を設定しているように思います。 TANUHACHIさんは大学の教科書としての用途を念頭に考えていらっしゃると思いますが、 恐らく授業で使用したとしたら、先生が一つの、おそらく唯一の答えを発表する筈です。 そうなりますと、独習者にわざわざイヤガラセをしているように感じられるのです。 初学者向けの(特に理論分野の)教科書の章末問題に正答が無いのが普通だとしたら、 それは教科書の内容を踏まえた上で各読者のうちに共通理解がまったく生まれないということになり、 それじゃあ学問が成立しないのではないか、と思います。 また、説明が十分だから解答は不要、という事ならば、わざわざ章末問題に紙面を割く価値があるのか疑問なのです。

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