寺坂吉衛門の書簡
寺坂吉衛門が書いた 「元禄十五壬午播州赤穂浪人衆江戸表働之事」 という記録書簡の全文をご存知の方がいたら教えてください。
「用意悉く出来候に付十二月十四日の夜七つ時分右之三ヶ所手々に松明得道具持候而上野助殿御屋敷へ取懸り申候」と記されています。
また、次のように記されたものもあるようです。
「玉火松明味方人数等手に手に是を持ち」
よく知られていることですが、元禄十六年二月三日付小野寺十内の妻たん宛て書状には、こうあります。
「七ツ過に打立て敵の方へ押寄候、其間の道十二三丁も有所にて候、きのふふりたる雪の上に暁の霜置氷りて足もとも能火のあかり世間をはゝかりて挑灯も松明もともさねとも有明の月さえて道まかふへくもなくて、敵の屋敷の辻迄押詰爰より東西へ廿三人ツヽ二手にわかれて取かけ屋根より乗込申候、親子一方ヘハ向ハぬ事にて我等ハ西へ懸り幸右衛門ハ東へむかひ候」
この書状では、
「挑灯(ちょうちん)、松明(たいまつ)を灯さなくても、有明の月が冴えて道を間違えることもなかった」
となっています。
寺坂は、
「それぞれ手には松明(たいまつ)を持って吉良屋敷に向かった」
と、書いています。
小野寺十内は、
「吉良の屋敷の辻まできて東西へ23人ずつ二手にわかれて」
とも書いていますが、堀部安兵衛名義で借りていた本所林町五丁目の紀伊国屋店など3つの集合場所で身支度を整えたのち、本所相生町二丁目の前原伊助の借店に集まって、吉良屋敷の東の表門隊と西の裏門隊の二手に分かれたはず。
で、寺坂は裏門隊メンバー、24人の一人だったのでは。
いくつもの史料をつきあわせてみると、寺坂は討入に参加はしたものの、討入ののちに抜けることは最初から決まっていた。
そんなシナリオが、見えてきます。
小野寺十内の書状にあった、
「・・・きのふふりたる雪の上に暁の霜置氷りて足もとも能火のあかり・・・有明の月さえて道まかふへくもなくて」
によって、十二月十三日には雪が降ったけれど、十四日は晴れ。月明かりがが煌々とするなか、吉良屋敷に向かった、ということになったようです。
ところが、細川家の記録によれば、天候は曇り。
十五日未明、道筋には残った雪の表面が凍ったところがある。それを1km以上も歩くとなると、照明が必要だと思われます。
お礼
なるほど一種のおとりですね。その考えはなかったです。わかりやすく勉強になりました。 ありがとうございました。