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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:寺坂吉衛門の書簡)

寺坂吉衛門の書簡とは?要約とハッシュタグを教えてください

このQ&Aのポイント
  • 寺坂吉衛門が書いた「元禄十五壬午播州赤穂浪人衆江戸表働之事」という記録書簡の全文を知りたい。
  • 寺坂吉衛門の書簡には、吉良屋敷への押込みの様子や天候についての記述がある。
  • 寺坂吉衛門が吉良屋敷に向かう際、雪が降りしきるなか月明かりが道を照らしていた。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

bungetsuです。 >>とはいっても、今と違って夜中に外出することはほとんどなかったようです。 確かにそうです。 江戸の街は現代で言う「戒厳令」が敷かれており、夜の外出はほとんど出来ませんでした。 長屋では夜七ツ半(午後10時)になると木戸が閉まってしまいましたからねぇ。 ただし、遊びなれた人ですと、吉原は不夜城でしたから、まあ、かなりの自由はあったのではないでしょうか。 >>どうしてもというときは、提灯の底に油石を落として、ふらふら揺れないようにして持って、ゆっくりと歩いたようです。江戸日本橋を七つに発つときに「小田原提灯ぶらさげて」というようなものです。 「♪お江戸日本橋七ツ発ち・・・」と言う歌がありますが、これは、大名も庶民の旅行者も出立時刻を唄ったものです。 提灯については、おおせの通りです。(良くご存知で・・・)(感嘆!!) >>吉田忠左衛門ら数名は真夜中に米沢町の堀部弥兵衛宅を出て、本所林町五丁目の堀部安兵衛の相宅に行く途中、両国橋の向こう、川岸にある亀田屋という茶屋に寄りましたが、この場所はのちの岡場所。そんなところに行くときも、提灯をぶらさげて行ったようです。 経過は別として、河岸の亀田屋が後に没落して岡場所になったことを良くご存知でしたね。素晴らしい!! >>抜刀しての室内戦では、刀を振り回すことなどできません。ほとんど、突きです。 庭での切りあいはあったようですよ。 >>蝋燭は、主に廊下を歩くときの照明に使ったのでしょう。 武家屋敷の廊下には、わざと段差を設けて夜間の襲撃にそなえたものです。これは、吉良屋敷ということではなく、どこもそうでした。 何も言うことはありません。 あなたは、場合によっては、私以上に「忠臣蔵」を研究なさっている方と拝察いたします。 私は、広く浅く、それでも興味のあることには深遠まで調べるタチです。 あなたの調べられた内容が、今後世にでれば素晴らしいと感じました。

100rakuten
質問者

お礼

 ありがとうございました。  質問の趣旨から外れた方向に走ってしまったので、とりあえずここまでとしましょう。  なお、上記、私の書いたなかに重大なミスがありましたので、訂正させていただきます。  【誤】  日暮時を午後6時としたとき、午後10時は八つ時になります。  【正】  町木戸の閉鎖時刻は、宝永五年(1708)十一月以降は夜四つ時(日暮時を午後6時としたとき、午後10時)になりましたが、元禄の頃は暁九つ(午前0時)でした。

100rakuten
質問者

補足

 再度ありがとうございました。  ところで、  >長屋では夜七ツ半(午後10時)になると木戸が閉まってしまいましたからねぇ。  長屋という表現は? 大名屋敷には、家来の住む長屋もありましたよ。  町屋では、用があるときには夜間でも木戸番にいえば木戸の脇の潜りから通してもらうことができました。このとき、木戸番は拍子木を打って行く手の次の木戸番に通行人のあることを伝えます。  日暮時を午後6時としたとき、午後10時は八つ時になります。  >河岸の亀田屋が後に没落して岡場所になったことを良くご存知でしたね。  河岸ではなく川岸。東から流れて大川(隅田川下流)に注ぐ竪川の北側の川岸で、一之橋の大川寄りに亀田屋という茶屋があったのです。  これは平賀源内の『風流志道軒伝』 (宝暦十三年)をはじめ、岡場所について書いた史料や本所の江戸切絵図、公儀普請方作成の「御府内往還場末沿革図書」などを付き合わせて、私が発見したことです。  >庭での切りあいはあったようですよ。  出典は?  前にいただいたご回答ですが、  >快晴の満天の夜空ではなく、雲も見え隠れしていたのでしょうね。  夜間、雲間から月や星が見えるような場合は、「晴れ」。雨・雪などが降らず、全天を雲が覆っている場合が「曇り」です。  こういったことは、江戸時代に書かれた日記や書簡などを読み込んでいけばわかりますよ。  討入事件のときの天候については、細川護熙元首相の「私の履歴書」(日本経済新聞朝刊)にも書かれたことです。  私は史学の教育を受けていないどころか、歴史は苦手科目でした。平成9年7月、たまたま入手した江戸大絵図に描かれたことから通説に疑問を持って調査したところある史実を発見しました。  それがきっかけで、平成10年から11年にかけて元禄赤穂事件の史実追究を雑誌に連載(24回)寄稿することになりました。  その一部は、平成11年のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」に、舟橋 聖一氏の原作を訂正するかたちで採用されました。  また、刃傷事件については江戸城の構造、寝殿造り・書院造りの特徴などを参考に、梶川与惣兵衛日記の写本(東大史料編纂所蔵および東大総合図書館南葵文庫蔵)から、梶川の日記に書かれた内容を発表。これは、古文書講座の教科書にも転載され、著名な学者の異説を覆したことから、私が書いたことが定説になっています。  そんなことから素人でありながら、今になっても講演会の演者、パネルディスカッションのパネリストとしてときどき呼ばれたりしています。  今は、かつてなかった視点から、忠臣蔵ものを書いているところです。  堀部安兵衛の従兄筋で討入のサポーターとして活躍した佐藤條衛門の記録、上野東照宮旧蔵の「町触」、「江戸三十三間堂旧記」など、これまでほとんど手付かずだった史料による調査も行っています。  今回は、寺坂吉衛門が書いたとされる 「元禄十五壬午播州赤穂浪人衆江戸表働之事」が、史料として使えるかどうかの検討をしたいために質問しました。

その他の回答 (1)

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>寺坂は裏門隊メンバー、24人の一人だったのでは。 裏門隊は、大石主税以下24名で、実質的な指揮者はは吉田忠左衛門でした。 寺坂吉右衛門信行も裏門隊の1人です。 >>小野寺十内は、「吉良の屋敷の辻まできて東西へ23人ずつ二手にわかれて」 小野寺幸右衛門秀富は、確かに表門から邸内へ突入しています。 >>いくつもの史料をつきあわせてみると、寺坂は討入に参加はしたものの、討入ののちに抜けることは最初から決まっていた。そんなシナリオが、見えてきます。 そうですねぇ。寺坂吉右衛門信行は首尾を見届けた後、大石内蔵助から密命を受けて隊を離脱していることからかんがえれば、あなたのシナリオも考えられるかも知れませんね。 >>十二月十三日には雪が降ったけれど、十四日は晴れ。月明かりがが煌々とするなか、吉良屋敷に向かった、ということになったようです。 諸説があるようですが、前日降った雪により、また、松明1本と月明かりだけで粛々と吉良邸に向かった・・・が一般的に言われています。 また、蝋燭は数十本持って行ったことは確かです。 それは吉良邸内の鴨居に鈎棒を掛けて蝋燭に火をつけて邸内を明るくするためでした。 >>十五日未明、道筋には残った雪の表面が凍ったところがある。それを1km以上も歩くとなると、照明が必要だと思われます。 昔は、現代と違って、月明かりだけで何事もできました。我々は、新宿のような不夜城を思い描くと、 「えぇっ、月明かりだけで・・・?」 となるのですが、薄暗い行灯なんかより、はるかに月明かりの方が明るく感じられたのでしょう。 >>ところが、細川家の記録によれば、天候は曇り。 快晴の満天の夜空ではなく、雲も見え隠れしていたのでしょうね。日記の記録者の感じ方で「曇り」としたり「晴れ」としたりするのではないでしょうか。 ただ、雪や雨ではなかったことは確かなようですね。

100rakuten
質問者

補足

 ありがとうございました。 >昔は、現代と違って、月明かりだけで何事もできました。  とはいっても、今と違って夜中に外出することはほとんどなかったようです。  どうしてもというときは、提灯の底に油石を落として、ふらふら揺れないようにして持って、ゆっくりと歩いたようです。江戸日本橋を七つに発つときに「小田原提灯ぶらさげて」というようなものです。  吉田忠左衛門ら数名は真夜中に米沢町の堀部弥兵衛宅を出て、本所林町五丁目の堀部安兵衛の相宅に行く途中、両国橋の向こう、川岸にある亀田屋という茶屋に寄りましたが、この場所はのちの岡場所。そんなところに行くときも、提灯をぶらさげて行ったようです。  ところが急ぎ足などのときには、松明が常套でした。浄瑠璃坂の仇討もそう。  梯子や蝋燭は、前原伊助の借店に置いてあったようです。  抜刀しての室内戦では、刀を振り回すことなどできません。ほとんど、突きです。  蝋燭は、主に廊下を歩くときの照明に使ったのでしょう。  武家屋敷の廊下には、わざと段差を設けて夜間の襲撃にそなえたものです。これは、吉良屋敷ということではなく、どこもそうでした。  吉良屋敷の南西角には辻番があったので、前原伊助の借店から裏門に行くには必ずそこを通過します。  なお、辻番前をフリーパスで通過できたことは、十二月十三日付で大石内蔵助が赤穂の僧3人に送った書簡でも明らかです。

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