些か気になりましたので若干のコメントを。
まず大前提として、「フリードリヒ2世がマリア・テレジアの『継承』に反発した」という前提は、実情とは異なります。
プロイセン王(König in Preußen)フリードリヒ2世にとって、マリア・テレジアが「継承」することが予定されていた地位そのものは重要ではありませんでした。
彼が狙ったのは、「シレジア地方」そのものです。
当時のプロイセンは、ドイツ騎士団領が17世紀後半に再編されたプロイセン公国と、ドイツ国内のブランデンブルク選帝侯領の人的同君連合で、両者の領地はつながっていませんでした。
「シレジア地方」は、この両者の間を「つなぐ」位置にあり、かつ鉱業資源が豊富でした。
この地を虎視眈々と狙っていたフリードリヒ2世は、1740年に、ハプスブルク家をマリア・テレジアが継承する際にザクセンやバイエルンが反発して混乱している隙を突いて、シレジア地方に突如襲撃しこの地を獲得しました。
以後、フリードリヒ2世は、シレジア地方を橋頭堡にたびたびボヘミア王国に侵略しますが、これはオーストリアによって退けられています。
ただし、マリア・テレジアは、シレジア地方奪還はかないませんでした。
ここで、神聖ローマ皇帝カール6世の娘であるマリア・テレジアの立場について整理しておきます。
神聖ローマ皇帝位は、建前上は選挙王制でした。ただし、実際には、帝国最大の貴族であるオーストリア大公(ハプスブルク家)によって世襲されていました。
カール6世とその先代のヨーゼフ1世は、いずれも皇帝レオポルト1世の子供です。
ヨーゼフ1世は男子に恵まれず、「女子への家督継承」を可能とする詔書を発出しようと構想していたものの、1711年に崩御しました。
その際、ハプスブルク家宗主の有していた地位「オーストリア大公」「ボヘミア国王」「ハンガリー国王」などなどは、特に条件もなく、弟のカール6世に継承されました。
そのカール6世は、兄が実現できなかった「『女子への家督継承』を可能とする詔書」を、1713年には発出しました。
この1713年の詔書では、最初から「カール6世の女子」に相続の優先権が与えられていました。
この詔書の「妥当性」を巡って、「長男だったヨーゼフ1世の女子の方が優先されるべきではないのか」という「異論」があったのは確かです。
また、ヨーゼフ1世の皇后だったアマーリア・ヴィルヘルミーネは、娘たちをバイエルン選帝侯とザクセン選帝侯に嫁がせることで、カール6世に対抗しようとしました。
カール6世が1740年に崩御するや、「マリア・テレジアにはハプスブルク家の家督継承権はない」と反発したのが、このバイエルン選帝侯とザクセン選帝侯(特に前者)でした。
本題のうちフランスは、16世紀以降長年にわたってハプスブルク家との闘争を続けていました。
その流れで、「ハプスブルク家弱体化の好機」につけいり、バイエルン選帝侯カール3世・アルブレヒトを支援して遠征軍を派遣した…という次第です。
バイエルン選帝侯はオーストリアの占領を図ったのに対して、フランスはボヘミア王国の占領を目指し、1741年の秋にはプラハを制圧しました。
なぜボヘミアを狙ったのかというと、ボヘミア国王も神聖ローマ帝国の選帝侯の一人だったためです。
ボヘミアがマリア・テレジアの王位継承を否定すれば、ハプスブルク家は選帝侯の資格を失うことになりました。
そして実際に、ボヘミアは1741年12月にバイエルン選帝侯カール3世・アルブレヒトを国王に戴冠しました。選帝侯位二つを得た彼は、翌年1月に行われた選挙で皇帝に当選し、神聖ローマ皇帝カール7世となりました。
マリア・テレジアの方は、1740年の時点でオーストリア大公の継承者として推戴されましたが、反ハプスブルク勢力の侵略に見舞われました。
マリア・テレジアはハンガリーに向かい、議会の協力を得て、1741年6月にはハンガリー女王に推戴されました。そして、元のオーストリア軍にハンガリー軍を加えて反転攻勢に転じました。
結果、1742年になると、皇帝カール7世の本拠地ミュンヘンがオーストリアの手に落ちました。
とはいえ、フランスとプロイセンが駐留していたボヘミアの方は攻略困難でした。
……このような形で、大陸情勢が「フランス優勢」になったのを見て、英国は介入を図りました。
その目的は、勢力均衡のためのフランスへの対抗にありました。
ただ、この時期、英国王室は、神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯と同君連合の関係にあったため、帝国内の勢力均衡を目指したという側面もありました。
なお、フランスからの圧力に面していたオランダも、英国と行動を共にしました。
かくして、マリア・テレジア勢(オーストリア・オランダ・英国=ハノーファー)とカール7世勢(バイエルン・プロイセン・フランス)が対立するという図式ができあがりました。
最終的には、カール7世が1745年に崩御した際、バイエルンの新選帝侯マクシミリアン3世・ヨーゼフがマリア・テレジアとの協定により皇帝選挙不出馬を決めた結果、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンが新皇帝に選出され、ハプスブルク家の家督はマリア・テレジアの手に入りました。
ただし、シレジアはフリードリヒ2世の手に入りました。
後の七年戦争でも、マリア・テレジアはシレジア奪還を狙ったものの、望みかなわぬままに終わりました。
その間で、シレジアの富を活かしたフリードリヒ2世は、ポーランド分割などによりプロイセンとブランデンブルクの所領を連結させ、プロイセン国王(König von Preußen)を名乗るに至りました。
他方、フランスと英国は、アメリカ大陸の海外植民地を巡って別途の戦いを始めてしまいました。
こちらは、海軍強国の英国が圧倒的に強く、フランスは遠征軍が疫病等で壊滅的被害を受ける事態になりました。
ただし、このときは、フランスは陸戦でベルギー・オランダに侵略して英国に間接的な圧力を加え、大陸領土を「現状維持」に戻すことができました。
続く七年戦争でも、アメリカ大陸植民地において英国がフランスを圧倒し、フランスは大陸植民地をすべて英国に奪われるに至ります。
(俗にフレンチ・インディアン戦争と呼ばれているこの戦いは、フランスでは「征服戦争」と呼ばれています)
長くなってしまいましたが、以上がオーストリア継承戦争の概要になります。
お礼
詳しくて、わかりやすかったです。 ありがとうございましたm(_ _)m