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純白の純粋性に疑問を持っています。
赤と、緑と、青を混ぜて白になるらしいですが、 混ぜられている白が純粋だというのがどうも腑に落ちません。 純粋とはいったいなんですか?
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純粋だと突っ込みようがないこと。 例えば白いノートに白鉛筆で描く用途が不明なこと。
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- bougainvillea
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No.15の回答をしたものです。 質問者さんは色彩や光学よりも、属性と実体について関心があるのだと 了解しました。これはインド哲学やスコラ哲学で扱っているので そちらの本を読むことを勧めます。 これなどは読みやすいです。 インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ) 宮元啓一 http://www.amazon.co.jp/dp/4062582554/
お礼
bougainvillea さんこんばんは。再びご回答ありがとうございます。 ご紹介いただいた本は9年前図書館で借りて読んでいました。ほどんど記憶にないですが、パルメニデスの説と重ねてウッダーラカ・アールニ(この種の名前の記憶が苦手です)の「有の哲学」にはたしかに影響をうけているとは思います。 ノートのメモ書きをみて気になったのは、有形象知識論と無形象知識論(西洋哲学にはなじみが薄い)です。 純粋を、おそらく一般には、そしてぼくも、有形象の知識として捉えていますね。概念の定義をたよりに対象の純粋性を判断している。とくにあらたまって判断する場合は。 それに対して、純粋という言葉をつかわず、それを感じたときその感じで知ること、あるいはその感じというものは生滅するものですから、根源に潜在する普遍を知ること、これを無形象の知識というのかなとも考えたりしますが。どうでしょうか。 こちらの考えで純白の純粋性を疑う人に、「ではきみは純白を純粋と感じたことがないのかね」と訪ね「ある」なら「それが純粋だ」と答え、「ない」なら「いまのきみにとって純白は純粋でない、しかし、もしかすると将来純粋と感じるかもしれない、そのときの感じが純粋だ」となりますか。 あなた自身は、その本を読んだ上で、「純粋とはいったいなんでしょう?」に答えるとしたらどうなると考えますか?
補足
とりあえず、純白の純粋性については疑問は解消したので、そろそろ締めようかと思います。 純粋とは、まじりけがないこと。 まじりけというのは、必要のないもの、余分なもの、意義を失わせるものということで。 ちなみに、(大辞林) まじりけ 【混じり気/▽雑じり気】 他の物がまざっていること。 この定義は徹底してないと思いますね。 雑じり気の、雑と、気の部分が。
- bougainvillea
- ベストアンサー率21% (185/853)
質問者さんは彩度の高さのことを純粋と捉えているように感じます。 いずれにせよ、科学的物理的な光学と哲学的な色彩論が 頭の中でごっちゃになっているように見受けられます。 哲学的な色彩論は18世紀のゲーテとかそのあたりで止まってて 正直、うち捨てられた分野だと思います。ほとんど詩に近く、もう有益な知見はないのでは。 現代では物理を勉強したあとに、Photoshopをいじったり、写真を撮ったりしたほうが よっぽど色彩に対する認識が深まるかと思います。 また生理学が発達し、視覚細胞や脳機能の解明が進み、さまざまな知見が得られているので そちらの勉強をするのも良いでしょう。 (人間の目の視覚細胞は青緑赤の3種類しかないが、脊椎動物の先祖は紫外線も見える 4色視をしていたなど)
お礼
Bougainvilleaさんこんにちは。ご回答ありがとうございます。 ぼく「純白という言葉があるように、白は純粋だ」 ボク「きみは白に純粋性の属性を与えている、あるいは白が純粋なものに属すという考えをしているが、本当にそうか、きみが思っている純粋とはいったいなんなのだ」 ぼく「・・・」 ボク「おや、きみは純粋がなんであるか知らないでその言葉を使っていたのか。純粋とは何であるかが分からぬ者が、何かを純粋と捉えることができるだろうかね?」 ぼく「辞書で調べてみました。純粋とはまじりけがないこと、と書いてありました。そして白は他の色がまじっていない。ですから純粋といってよいのです」 ボク「しかし白い光はプリズムで様々な色に分解されるではないか、これは様々な色が混合している証拠であるから、まじりけがないと言えないのではないか。また赤と緑と青の単色光を混合することで白が作られていることをきみは知っているのではないかね」 ぼく「それもそうですが、・・・他の人に聞いてみます」 そして色々な回答をいただきました。 ぼく「まじりけ、というのは広く混合一般を意味してはないのです。白など、対象としているものにとっては必要のないもの、関係のないもの、そういうものの混合です。白色光が分光した様々な色はどの成分もすべてその強度の割合で白にとっては必要不可欠です。それらの混合であるとしてもまじりけはないのです。」 ボク「それではそのようにまじりけのないものをきみは純粋というのだね」 ぼく「はい」 ボク「ではきみは彩度の高いものを純粋と言わないかね。」 ぼく「まじりけがなければ純粋です。特に彩度の高いものというこだわりはありません。現に彩度の最低である白を純粋なものであるとしているではないですか」 こういうことで、いまのところ、純粋とは、「まじりけ」のないものである。という定義で一般向けにはよいとします。 さらに純粋について認識を深めていければよいと思いますが、あなたのおっしゃる雑学知識を広げていく方法は、かえって認識を深めることを妨げるとぼくには思われます。
補足
色彩を例に挙げて純粋について考えてきました。 おかげさまで、純白の純粋性は、物理学的な意味においても、白色光の成分が、必要なもの、関係のあるものであり、「まじりけ」ではないということでおちついています。 ですから質問の三行目の、純粋そのものへの問いだけが残っているとしてください。色彩を例に考察するのはもうよいのではないかと思います。例を用いて考えるなら別のものを挙げていただけたらと思います。 たとえば、混沌は純粋でしょうか。混沌の成分は「まじりけ」なのでしょうか。
>「純粋とは、混ざることが不可能なもの」を正しいと言ってよいでしょうか? 一般的に言えば・・ですが 白は汚れやすい 純粋なものほど濁りやすい でしょう。 私はもうちょっと、という感じで別な見方をしてみました。 すこし理屈っぽくなってしまいますが 完全に純粋なものと、純粋でないものとを混ぜる事はできないと思います。 それは、実在と非実在という見方からです。 完全に純粋なものは非実在(的存在)であり、純粋でないものとは実在(的存在)だと思うからです。 完全な純粋というものを、そうでないものから見れば これでもなく、あれでもない ・・にはあらず・・・にはあらず というような否定する形でしか言い表せないと思うのです。 実在の立場に立つかぎり、純粋とは非実在という形でしか表れてこない 色もなければ形も無い、味も臭いも無い・・・というような言い方で「空」という言葉が適切とされてきたようですが・・ やはり概念の向こう側の世界のようです。 通常はこうした実在と非実在の場を同時に扱うことはできないと思いますので 繰り返しになりますが、「純粋とは、混ざることが不可能なもの」となってしまうと思います。 純粋と、純粋の如きもの、とは決定的に違う 純粋という非実在は概念の向こう側に孤立している・・・といった感じさえしますね。 けれども、こうした見方は、あくまで私達が実在だと思っている世界からの見方にすぎないのかもしれません。 概念の向こう側に到達してしまった場合にはどうなるんでしょうね? 一即多 多即一 という表現もあります。 「一」という純粋が、無限の色、形、事象でもある・・といった事も言われています。 またその反対に、多様な事象はそのまま一つの純粋である (感性の把握の領域において)実在とは、たった一つの純粋である・・・というような いわゆる古臭い一元論なんですが このカビ臭い一元論を馬鹿にできないのにはそれなりの理由があります。 概念の向こう側に到達する方法の実践論までもが説かれているからです。 まあそのへんは宗教的色彩が濃い?ということで、これぐらいにしたいと思います。 自然界には、完全に純粋な色や形態は存在しませんが 人間がそこから抽出したデザインに精神的な投影を行って象徴性をもたせる事は自由に行われてきたと思います。 白という色に、けがれのない心を表してきたのも、その一つだと思います。 その精神的象徴性を純粋と呼ぶのも自然ですし、間違ってはいないような気がします。 「完全な純粋」という言葉を持ち出さない、追い求めないかぎりは、そうした一般概念で事足りるのではないでしょうか。
お礼
about72さんこんにちは。ご回答ありがとうございます。おっしゃるとおりです。 純粋とは一なるもの、それだから「まじりけがないもの」などの表現になる。 しかしその「まじりけのないもの」は実在世界のもの。純粋が一なるものとしてあるのは非実在世界のものとしてであって決して実在世界のものではない。 すなわち、実在世界の混合物は、非実在世界の純粋を通して眺められても、そのとき、そもそも論理世界の異なる、一と多が逆理として働くようなことはない。 するとどうなるか、一義をもつものは不純物でさえ純粋である。ただし実存(非実在)にとって意味あるものとしての一義を持つもの、すなわち意義をもつものが、全て純粋であるとなる。 実存はこの純粋に反応して活動している。渾沌や曖昧に対しては反応できないのである。 純粋とは、意味空間の実存が情報空間に対して意義を介して表現活動するときの美の形式である。
NO.6 です。 >この幻想を幻想よりましな、たとえば独断論であるにしてもありえそうで共感できる構想だと言われるようなものに高めるためには、純粋とはどんなものであるべきなのでしょうか ちょっと考えてみると、純粋って結構俗っぽい小説なんかにも頻繁に現れることばですよね。 2.26事件の青年将校なんんか天皇を思うあまりの純粋な気持ちで軍(の腐敗)に立ち向かったとか。 国粋、純愛、みな一途(いちず)に何かを思って一本気になっている状態です。まさしく幻想。でも魅力がないかといえばそうでもないところがかえっていやらしい。三島由紀夫ほどの人間がそれに殉じた事実がなぞを深めます。 民族主義はそういった幻想のいい見本なのですが、 白 という色もそういえば厚化粧して他のものを見えなくしてごまかし、悪く言えば糊塗したぶあつい頑なな白壁のようなどうしようもない感じもあります。実体はあってもときほぐしてみればさほどの中身はない、というより仔細味わってみると単細胞のあじもそっけもない腹がふくれるだけの食材のようなものかもしれない。 多分ですが、私は純白とか純粋というのは、突っ込んで解体するべきものではなく、それ自体で眺めて感覚的に愉しむべきような、美 に近い景色というか、いいかたちの美女のようなものかもしれないと思い始めました。 ここういう書き方自体が通俗小説的なのかもしれませんが、私の限界かもしれません。 とりあえずこのへんで。
お礼
komaas88さんこんにちは。 たしかに美しいものと純粋なものは近い関係にあるように思います。
補足
質問が曖昧であったのを申しわけなく思います。 補足しますと、下の1番の定義でよいのかどうかということです。2番以降は問いの対象ではありません。 反省すれば、「まじりけのないこと」をぼくは混合に一般化して「混合していないこと」と受け止めました。これがいけなかったのかもしれません。 「まじりけ」に何か特別意味があるかもしれませんが、雑多なものがまじっていないことと混合していないこととはさほど違いがなかろうと。「雑」を軽視していたのかもしれません。 純粋 (デジタル大辞泉) じゅん‐すい 【純粋】 [名・形動] 1 まじりけのないこと。雑多なものがまじっていないこと。また、そのさま。「―な(の)アルコール」「―な(の)秋田犬」 2 邪念や私欲のないこと。気持ちに打算や掛け引きのないこと。また、そのさま。「少年の頃の―な気持ち」「―な愛」 3 そのことだけをいちずに行うこと。ひたむきなこと。また、そのさま。「学問に対する―な情熱」「―に真理を追い求める」 4 哲学で、外的、偶然的なものを含まず、それ自体の内的な普遍性・必然性をさす。 5 学問で、応用を考えず理論だけを追究する分野。純粋数学・純粋法学など。
- 雪中庵(@psytex)
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白はあらゆる波長の可視光線が均等に混合したものであり、 「純粋でない」と言えなくもありません。 ただ、その意味で純粋と言うならば、いわゆる単色光=特定 の波長だけの光になります。 あるいは波長だけでなく、位相までそろったレーザー光線は、 もっと「純粋」です。 しかし、「純粋」が持っているイメージは、そうした特定の波長 に偏らない、というものです。 つまり、たとえば「赤」という色が持つ印象は、炎や血、肉など、 赤の波長を伴う経験を総和する事で生じるもの(熱い・危険etc.) であり、特定の感情を引き起こす=色に染まったものなのです。 逆に、各色が等しく混ざる事によって、そうした特定の感情を 誘発しない=色に染まっていない、純粋な印象を与えるのです。 そもそも色というのは、連続的な波長の変化の上に心理的な (ないしは三原色に対応した視細胞という生理的な)ものに 起因して内面的に生じるものであって、物理的な波の如何と 関連づけて考えると齟齬を生じます。
お礼
Psytexさんこんにちは。おっしゃるとおりです。その齟齬の解消を試みています。 今のところ、「純粋とは、他者に意義を顕示する場を譲り、自身はそれに応じて自己の意義を潜在化するもの」となっています。 純白が純粋であるのは、他の色がそこにやってきた時に他の色にそれが意識されることを譲るからということになっています。 本当かどうかまだわかりませんが、こういう捉え方で、その純粋と言われるものが、混合しているか否かを問わなくてよいようにしました。 ところで、応用問題として、食塩水は純粋だと考えますか?常識的には混合物ですが、ぼくはまだよくわかりません。これから考えようと思っています。
補足
純粋とは、「意義が明白であること。またそのように意識すること。また、そのさま。」でしょうか。 食塩水はこんな場合には純粋です。 (1)食塩水に小量の砂糖を加えて溶かし、味わってみると食塩水の味(意義1)と砂糖水の味(意義2)で構成されていると推測される曖昧な味(意義3)となる。 (意義3)が現実態として意識されているとき、 これは「雑多な混合」である。意義が曖昧である。 すなわち、辛いとも甘いとも、反応しているようで統一的に反応していない。 (意義1)を可能態として意識するとき、 これが「純粋」である。意義は比較的明確であり、主要な意義である。塩辛いので吐くというように意義に反応を起こす (意義2)も可能態として意識するとき、 これが「まじりけ」である。意義はこの場合は混合操作を知っているので比較的明確である。ただ主要な意義ではない。 意識をどの意義に向けるかで、それぞれの意義が、意識に生成、意識から消失するという現象が起こっています。 それぞれの意義はずっと存在しているのだが、スポットライトのような光(意識の比喩)に照らされたり、光が移動することで、闇の中に消失することが、生成と消滅現象に見えます。 光と闇の状況の違いは、意識・無意識のちがいで、現実態と可能態という言葉で表しました。 逆に次のような場合には、食塩水は純粋とは言えません。 (2)砂糖水に食塩水を少し加えて混ぜる。味わってみると食塩水の味(意義1)と砂糖水の味(意義2)で構成されていると推測される曖昧な味(意義3)となる。 (意義3)が現実態として意識されている。 これは「雑多な混合」である。 (意義1)を可能態として意識すると、 この場合はこちらが「まじりけ」の属性をもち、また、 (意義2)も可能態として意識すれば、 これは「純粋」の属性をもつ。 ただこの場合、調理でいう塩が隠し味として全体としてよい味の意義をもてば、純粋性が考えられる。 銘酒なども「雑多成分の混合物」ではなくその意義をもっていて、純粋性をもつ。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
atomonadosさんこんにちは。
お礼
こんにちは。
- miko-desi
- ベストアンサー率19% (69/352)
波長とか光線の反射が視神経に入る具合とか、解りませんが、 白は全てを満たした贅沢色なので、 何も知る必要がない、故に何でも知っているに同義します。 白は混合すると意義を失うというより、他に譲ったんだなと言う感じ。 与え合えば増し、奪い合えば減る純白。
お礼
miko-desiさんこんにちは。ご回答ありがとうございます。 純白は何を譲るのでしょうか?まさか有り余った色の成分を他者に与えるということではないですよね。たとえば、赤を譲ると、自身は何色になるのかよくわかりませんが(補色なのかな)赤みを欠いた色に変じてしまいます。 ですから、白は、そこにやって来た赤に、目立つ場を譲る。そしてそのことで自己の存在意義を失うかに見えるが、実際は潜在的に存在意義を発揮していて、自己をそこで失っているわけではない。ということでしょうか。 「純粋は、他者が顕在するのを許容し、それに応じて自ら潜在するものである」 なかなか本質的なところを指摘されたなあと思います。 というのは、暗黒も赤色光を許容し、暗黒の純粋性としても成立つからです。
- ukiyotonbo
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純白の純粋性は幻想です。 白色は本来物理的には存在しません。赤の波長は存在します。青も緑もありますが白の波長は存在しないと言うことです。 白は、人間の目、生物学的に存在しているにすぎません。その純粋性は感覚的あるいは芸術的な話しなどに終始することでしょう。 緑の純粋性なら議論の対象になると思います。 例えば、コヒーレンス性の高いビームを発振する543.5 nmグリーンHeNeレーザーなんかが純粋性が相当高いんじゃないでしょうか。
お礼
おっしゃるとおりです。そして現在のところ、No.8のmiko-desiさんの回答で、ぼくはそのものの意義という観点を持ちました。緑のレーザーの純粋性は、もしそれに何か別の波長が混ざると、意義を失っていくわけです。「混合することによってその意義を失うものは純粋なものである」という考えから、その緑のレーザーは純粋なのです。 純白も、それを実際に汚したりすれば意義を失うことはもちろん、その純白を現代の科学的知見から様々な波長の重ねあわせであるとして混合物とみなし(これも混合することととらえ)不純と認識すること自体、これまでの太古からの純白概念の意義を損ねることになる。 このことが純白の純粋性を保つのです。純粋性は幻想であるなどということによってもまた、混合ではないけれど、それによって純白が意義を失うなら、そのような純白は純粋なのです。 幻想であると呼ばれてしまった純白は、そのことで意義を失い、(すなわち純粋性を失いながら)、なおかつ、その喪失によって、純粋性を保つというわけのわからないことになっています。気に入っていますが。
補足
ukiyotonboさん、こんばんは。ご回答ありがとうございました。
- usagidoshi7gatu
- ベストアンサー率32% (88/271)
質問の文章は詭弁そのものです。 >赤と、緑と、青を混ぜて白になるらしいですが、 >混ぜられている白が純粋だというのがどうも腑に落ちません。 そういう論理的には正しいが、実際は間違っている論理展開を詭弁と言います。 >赤と、緑と、青を混ぜて白になるらしいですが、 これは「光の三原色」のことです。 この部分には、間違いはありません。 様々な色の光を混ぜ合わせば、白として人間の目は認識します。 しかし、ここで考えなければならないことは「光の三原色」のほかにも「色材の三原色」が有ることです。 光の場合と、色材の場合では全く異なります。 色材の場合は赤と、緑と、青を混ぜると黒になります。 1行目と2行目では、論理のすり替えが存在します。 1行目には「光の三原色」が 2行目ですと、「混ぜられている白」は光の三原色の理屈が 「白が純粋」と言うのは、「色材の三原色」の理屈です。 >純粋とはいったいなんですか? 純粋とは混じりけの無い状態のことですが、この質問の文章では2行目に「光の三原色」と「色材の三原色」の理屈を織り交ぜてあり、純粋では無いと感じます。 白が純粋な色であるのは、「色材の三原色」の理屈の上です。
お礼
usagidoshi7gatuさんこんばんは。ご回答ありがとうございます。 ぼくの問いは、加法混合か減法混合かは、問題にしていないのですが、あえて減法混合で表現すれば、マゼンダとシアンの混合である青というようなものの純粋性です。 この場合「純粋とは、混合による生成が可能なもの」と定義してよいでしょうか。それとも、 減法混合によっては生成不可能な故に白は純粋であるというのは、混合によって生じる白ではないので一理あると思います。 この場合「純粋とは、混合による生成が不可能なもの」と定義するのが良いと思いますが。どうでしょうか。
言葉の問題として、混じりけのないものが純粋なものと定義するなら、いくらまっしろだといってもそれがいくつかのものの混合物なら純粋(なもの)ではないですよね。 貴方の前半のおはなしはそういうことでしょうね。腑に落ちないのは当然です。 白が純粋と思われるのは色の中では一番無に近い印象があるからではないかと思われます。実際にも無色といわれます。透明は無というより存在そのものが疑われます。透明は、ですから限りなく黒に近い存在なのかもしれません。 強い存在感があり、しかもなにものでもない、その信頼性は無限である。だれもがそんな好ましいものに近づき、一体化したい、そんなありえないものを純粋という幻想で定義したのかもしれません。 前半の「混合物」にもどって、白という色が現実としてあらゆる色の完璧なバランスをもった混合物だということは、そういった幻想にも関係しているかもしれませんね。はなしがなんとなく円環になって閉じてしまいました。 ご参考にもなりませんが。
お礼
komaas88さんこんばんは。質問の趣旨をご理解していただいているようで、ありがとうございます。 純粋とは、存在という属性と、その存在の上で無という属性を持っているということでしょうか。あるいは、存在という属性概念の類の下位に純粋という属性概念があるということでしょうか。その場合、存在の類ではあるけれど、存在の種として他の存在から区別される種差というものは信頼性ということでしょうか。 またこの定義はありえないものを定義した幻想かもしれないということならば、純粋とはいったいなんでしょう。 この幻想を幻想よりましな、たとえば独断論であるにしてもありえそうで共感できる構想だと言われるようなものに高めるためには、純粋とはどんなものであるべきなのでしょうか。信頼性が重要なのでしょうか。 ニュートンのプリズムによる太陽光の分光実験以前、古来の純白概念はおそらく太古からの共同幻想でありながら常識的に受け入れられ、今もなお人の心に残っているわけです。 しかし、光が電磁波の重ね合わせだと知った現代人は純粋であるかどうかについて、疑問を持ちます、混じりけの有無を区分原理とするのではなく新たに別のものが必要だろうと。そうではないですか?
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お礼
miko-desiさんこんばんは。ご回答ありがとうございます。 「純粋とは、突っ込みようがないこと」ですか。 どちらかと言えば「純粋とは、混合不可能なもの」の方と受け止めていいですか。あるいは「混合の可不可より、混合の意義が無いもの」としましょうか? 白鉛筆が白いノートに突っ込むことができるにしても、それは何の意味もない、そうする意図がわからない。黒いノートに白鉛筆はありでしょう。白いノートに黒鉛筆はありでしょう。 この例では、黒いノートに黒鉛筆はなしでしょうが、黒だけが不純のシンボルではないので、灰色のノートに黒鉛筆とかありですね。 不純なものは、純粋なものが突っ込むことももちろんのこと、不純なものも突っ込むことができる。なぜなら不純とは雑多の混合であり、この不純とあの不純は別のものとして差異があるから。 「純粋とは、混合することでそのものの意義を失うこと」としましょうか? 純白という概念は、光の重ねあわせとして認識することで混合することになる。そうなると純白の概念の意義を失う。したがって純白は純粋である。こういうことになりますか。
補足
他の方のご意見も参考になりましたが、miko-desi さんのこの回答がとても刺激になりましたのでベストアンサーに選ばせていただきます。