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道徳とは
道徳は、異端者を排除するための凶器にもなりうることなどを考えれば、おいそれと口に出せるものではないのではないでしょうか。 気軽に口にし、悦に浸れるのは気楽で幸せだと思います。 もちろん様々な見方があると思いますが、 道徳とは何だと思いますか?
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- kurinal
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こんばんは >「不断の努力の必要性が規定されているのは、政府に対する不信が根底にあります。」 政府を作っているのは国民ですね。 >「法律は、意思や行動を強制される点で道徳に共通するものがあると思います。」 ・・・厳密に言うと、法律には「強制力」があるというのが、道徳と違うところです。 >「ただし、憲法は単なる文章に過ぎません。」 ・・・そのような強力な「法律」が暴走しないように、というのが憲法であって、 「そんなのは「単なる文章」だ」とは、若気の至り
- kurinal
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- kurinal
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Ano.3です。 >「以前は押し付けるものだと考えていたということでしょうか」 そうではありません。むしろ、押し付けられそうになっていた側、でしょうか? しかし、「基本的人権」について、学んだのです。 >「ならば、やはり道徳は危険なものだと思います」 そうですね、憲法にも「不断の努力」とある通り。ですかね。
お礼
不断の努力の必要性が規定されているのは、政府に対する不信が根底にあります。 法律は、意思や行動を強制される点で道徳に共通するものがあると思います。 ただし、憲法は単なる文章に過ぎません。 ご回答誠にありがとうございました。
- freulein
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ANo.6です。 道徳とは群のためのルールでありますから個別の事情を尊重することには道徳の側からの関心が乏しはずです。個別の事情を大切にしたいとのご様子ですがその場合には、個人が意識的に守る・振舞うことが大切な事柄となります。道徳の問題でなく、個人の身の処し方としてお考えになっては如何でしょうか?
お礼
私は、道徳を垂れ流すことに嫌悪感を抱いているだけです。一体なんの資格があってと思ってしまいます。 それだけです。いろいろと理由をつけるのは疲れました。 個人の生き方を決めるのは身の処し方ですが、それを決めるのは道徳とそれを教える側ではないでしょうか。
No.4です。 ちょっとわかりにくかったようですが、道徳とは何かという 質問に対しては、有害な体系であるとお答えしました。 ここまでは理解可能なものと思います。 ところで、道徳は異端者を排除するから気楽に口に出すべきで ないという考え自体が、道徳的であり、それに賛同しない者を 排除していることに気がつかれましたか。 道徳と倫理学説が違うとはそういうことです。 異端者の排除が無条件に悪であると、断言できるものでしょうか。 仮に道徳が有害であっても、異端者の排除は必ずしも有害では なく、有益な場合もあるというのが私の意味したところであり、 つまり、回答としては口に出すのは大いに結構だが、上のような 判別が必要になるというわけです。 当然、道徳を口にすることで、気づかずに余計な重圧を生んで いるとか、他者の心を傷つけているとか、そういう事実があれば 注意すべきだし、当人も自覚するべきでしょうね。 また、社会としても道徳ではなく良識として、そういった圧力を 掛けるべきだと私は思いますよ。
お礼
生きることは、他人を傷つけることだと思っております。 有害な体系ですか。体系かどうかはわかりませんが、排除される側にとっては有害なものであるとは思います。 ご回答誠にありがとうございました。
- freulein
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道徳を次のように考えております。 1、道徳は人に関する規則の内で、社会生活に参加しようとする者に課せられる「うすうすの申し合わせ」である。明文化されることはない。社会生活を拒否して山中に暮らそうとする者に道徳が追いかけてくることはない。群れて暮らす動物でも同様である。 2、社会生活を成立させるためには、構成員の道徳(求心力)が不可欠である。そこで、社会生活に参加しようとする者は、それなりに道徳を守るあるいは守る振りをしなければ「それなりの」排斥を受ける。道徳は定義域を明瞭にすることが不可能な問題を扱っているのである。社会は求心力を高めるために道徳心の高揚をしばしば宣伝する。 質問者様は「定義域の不明瞭な」テーマの下での「それなりの」排斥をご心配になっておられますが、問題の性質上なかなか避け難い事柄のようですね。
お礼
そこが、人間であることが嫌でたまらない理由なのです。 最終的には沈黙することしか策がみつからず、 そうすれば社会から排除される。 生きることは助け合い、よって社会的、よって戦いでもあり、 他人を傷つけるために生きているようなものだと思います。
- MOG777
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民族の経験上において、社会存続のために必要だと認識したルールだと思います。 いわゆる経験則ですね。 経験則ですので論理的理解に基づいてませんから、おっしゃるような暴走もします。 しかし、個人の知力が有限な以上、経験的な知恵というのも大切だと思います。
お礼
いきる環境によって、道徳は変わって来ますね。 経験則という理解の仕方は確かに納得できるものです。 また、確かに個人の知恵は有限です。理解が及ぶ範囲には限界があると思います。 ご回答誠にありがとうございました。
一般的な意味での道徳は、某哲学者の言葉を借りるまでもなく 奴隷化の体系、道具であり、異端者ではなく陶酔者にとってより 多く凶器となります。 弁証法的に考えれば、人を殺してはいけないなどといった説は 明らかに間違っており、ただ見方あるいは場合によっては反対 に人を殺さなくてはいけないという結論になるにも関わらず、 そう考えないとすれば、その有害性は毒と比喩的に言われる だけの理由があります。 脳の萎縮したシンナー中毒者を幸せと呼ぶべきでないとすれば、 これら道徳の信奉者も不幸なのであり、異端者を排除するという そのことが、実際には正常な人間からの離別に他ならないのだ。 ただ、道徳と倫理学説の違いは明らかにするべきでしょうね。
お礼
それはあなた自身の思索で得た考えですか。 私はそれを聞きたいのです。
- kurinal
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(こども時代)「あちらを立てれば、こちらが立たず」というもの (学生時代)「まもっても、まもらなくても?、のこと」 (以降)「他者に敢えて押し付けるでもないこと」
お礼
他人に押し付ける気がなくても、人を感化させてしまうことはあり得ます。 自然なことだとは思います。 一つ疑問なのですが、敢えて押し付けるものではないという考えに至っているということは、以前は押し付けるものだと考えていたということでしょうか。 ならば、やはり道徳は危険なものだと思います。 私も言える立場ではないのですが。
- kotaro-h
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私は学術的な回答は、避けまして、よく似たミーニングから、 道徳と価値観に付いて、常に生きる上で考えるようにしています。 実際の社会において、大半の人間の行動原理は、価値観レベルでの 判断だと思います。 学校の勉強、進路進学、結婚や恋人選び、家庭を持ち、社会人として 働き、ある程度の結果を、この世に残す。 さて、もう少し深い局面で、道徳が出て来ることがあります。 例えば会社で企業ぐるみの不正が行われており、それに気付いてしまった。 家族や子供が、悪の道に手を染めてしまった。 この時に、自分ならどうするかの判断基準は、価値観<道徳になる人と 価値観を煮詰めて高等判断に持って行く人に、2つに分かれると思います。 異端者の排除と言うのは、道徳と言うより宗教的なモラルや、そこに守ろうと する意識が働いています。それは個人的な意識下にまで照らされた道徳なのか、 という、根源的なものを考え直してしまうのですが。 気軽に口にし悦に浸れる道徳って、反対に「標語」じゃ、ないですか。 私はある程度年齢を重ねてきたので、この辺かなと思うのは、池波正太郎の 鬼平犯科帳です。あれのコミック版がよくコンビニに置いてあります。 少し離れてしまいましたが、罪を憎んで人を憎まず。武士社会の時代の創作 ですが、結構命懸けの、重いものを感じる時があります。 社会は実践の延長ということで、少し考え直されてみて下さい。
お礼
悦に浸るとは言い過ぎたと思います。 しかし、私は単なる標語には過ぎないことが非常に多いと思います。 一見魅力的な言葉は、人に強迫観念を植え付け、それは一生取れないので、危険だと思うのです。
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お礼
道徳にも意思や行動を強制させる力があると思います。 法律が暴走してそれを止める手段が憲法だったとして、その憲法自体が常にその役目を果たしてくれる保証はどこにもありません。 なぜなら、憲法を運用するのは人間だからです。 都合のよい様に書きかえ、あるいは読み変えが可能です。 明治憲法が悪かったのではなく、それを扱う人間が愚かだっただけです。戦後日本も、いまだ権力が庶民を虐げる根本は何も変わっていないというのが私の見解です 憲法というのは単なる文章であって、権利や自由は守らなければ当然なくなってしまうということを戒めているのが、不断の努力規定というのが私の解釈です。