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神は死んだか?ニーチェの闘い
- 神とは何か?それはニーチェが問いかけた問いであり、《神の死》を宣言した。
- ニーチェの闘いの対象は一九世紀の再キリスト教化であり、自身の生活形式と文化に抵抗した。
- ニーチェは本当の神を見つけ、その死を告げることで人々の意識革命を起こそうとした。
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ニーチェは実はとても道徳的ではないのか? かつて、キリスト教は無神論と呼ばれた。 そして、人々は、一人の人間になった神を殺した。 人間が神を殺すと、どんな罪になるのか?は、さておき、 こうして、神はいなくなった。 神は人間になったのであって、、 人間を超えるというは、かつての神を超えることではないのか? ただニーチェの思想がおかしいと思うのは、 キリスト教の結果がニヒリズムであるなら、 積極的ニヒリズムはむしろキリスト教を評価しているのではないか? ということ・・・。 ニーチェが善悪的な宗教であるゾロアスターの名を 著書のタイトルに使ったのも謎になってくる。 自分の研究対象だった古代ギリシャでもなく、ショーペンハウアーの憧れたインドでもなく そのどちらとも争ったペルシャの人物を取り上げているのが・・・。 あと、プラトンがイデアの影といったり、インド哲学のマーヤーのヴェールのように この世界が幻影という考えに対して 大地を強調していたり…。 キリストは天に昇り、地上にはいない。 人間は神を殺した。 自分たちが殺しておいて、祈る道理はないのではないか? ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか? 神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。 それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か? それを考えていたのではないかな…。 わからない。
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誰が書いて、誰が読むのかが 問題になるのでしょうか? 作者と読者の問題。 悟った人が書いて、悟った人が読む。 悟った人が書いて、修行中の人が読む。 これなら問題ない? だから、道元とか親鸞といった宗祖が 持ち上げられるのでしょうか? テクストだけでは評価されないのでしょうか?
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ テクストだけでは評価されないのでしょうか? ☆ いえ 文章だけにおいて評価されます。しゃべった言葉だけでも それだけにおいて評価されますし されなければならないというのが ふつうの言語による交通の基礎理論です。 判定においてひとによって片寄りがあるということではないでしょうか たしかに実際問題として見るならば。よい評価としてもわるいそれとしても。 師匠と弟子 どちらが偉いかは 文章表現の評価についてまったく関係ありません。文章のみによって判定します。 文章は自己表現ですから むろん語り手の文体――つまり自己表現の試行錯誤をも交えた継続――もそしてそこから文体の確立としての人格までもが 見え隠れして垣間見られるでしょうが 問題はその文章が何を言っているかです。 文章だけの勝負です。 そのあと いつもいい文章を書く人だという評判が立てば そういう評価はそれとして――実際には間違った判定の場合をもふくめて―― 広まって行きます。 つまりは 文章のみで勝負です。いわゆる定評や定説さえもが のちにくつがえされることがあります。 ★ 道元・親鸞 ☆ というところで どこかその問い求めの趣旨に沿えていなかったかというおそれがありますが ひとまづこのようにて。
そうですか。 我ながらなかなかいい発想かなと思いましたが やはり難しいですね。 それにしても言語の限界などを考え始めると 仏典というのは、体験に比べると 価値が低いような気もしてきます。 ブッダの悟りを言語によって表現できないなら 仏典とはなんなのでしょう?
お礼
つづいてです。 ★ ~~~ ブッダの悟りを言語によって表現できないなら 仏典とはなんなのでしょう? ~~~~~ ☆ いえ。ここまでは言っていないのです。 言語の特性で 言葉があらわすそのモノゴトから言語は中立であるというあり方。これは 《何かそれぞれのモノゴトを表現できない》とまでは まだ言っていないのです。 シルシとして何らかの意味内容をつたえる。わけですから。 あらわすモノゴトとそのまま同じではない。だから 必ずしも一対一に対応しているものではない。けれども 指し示すことはできる。その意味内容のモノゴトを指で差して 知らせることは出来る。のだと思います。 さとりとは 世界のものごとが一瞬ごとに動きすすむそのありさまを同時にわが身で知覚していることだ。と仮りに定義したとすれば その内容をそれとして指し示しているはずです。 たぶん抽象的な意味内容をあらわす場合には 言葉はシルシとして 《たとえ》なのだと捉えてもよいのではないでしょうか。 ひとりの人間が 宇宙のすすみ具合いに対してチカラを振るうということまでは出来ない相談であるが そのすすみ具合いをいちいち――歴史の基本的なあゆみとしてなら―― 分かるようになること。これが さとりであると《たとえ》で示すことは出来るかも知れないからです。 《世音を観る》ことができる存在。 わが鼓動は 世界のあゆむ動きに合っている。のだと。 ★ ~~~~ それにしても言語の限界などを考え始めると 仏典というのは、体験に比べると 価値が低いような気もしてきます。 ~~~~~~ ☆ ですからつまり 言葉は何かをタトエとして指し示し シルシの役目をするわけですから その指し示される内容が――つまりは 一般に体験として――先に来ていないと ほんとうはダメなんでしょうね。そうでなくても 言葉はいくらでも表わし得ますが。
ニルヴァーナやニローダにも 処格があるなら、 滅した場所を考えることができそうですから 涅槃に入る。も、ありえそうですがどうでしょうか? 肉体的な死や霊魂の死を別にしても 自己形成力であるサンスカーラ も何もかもが消え去った場所が。
お礼
つづいてですが まづは ご回答をありがとうございます。 ええっとですね。言語とそれが意味するものやこととは 別だと考えます。 特に 言葉とそれが指し示す人間の心 つまり特には抽象的な概念にもなるようなたとえば愛だとか徳だとか境地だとかは 言葉と必ずしも対応しているとは限らない。はずです。 言葉は しるし・記号です。 心のこもった言葉というものもあるかも知れませんが おそらく言葉じたいにはなくて その人の人柄や生き方としての文体から来るものではないかと思います。 言いかえると 心の良し悪しだとか本心がどうであるかだとかに対しては 言葉は中立です。 だから 言葉は 誰々の所有する言葉であるなどといった事態にはなりません。みんなの共有する道具です。 ★ ニルヴァーナやニローダにも / 処格がある ☆ のはあくまで言語の習慣としてであり 文法としての役目を果たすということのためです。そのニルワーナ等々の概念内容とは別にそれ自体の役目を持って使われている。こういうことだと思います。
今回はもはや 回答でもなんでもなくてすみません。 縁起 pratiitya-samutpaada 空 Śūnyatā サンスクリットやパーリ語で 縁起の名詞形はなんでしょうか? それで、サンスクリットなら双数形もあるだろうし、 もちろん、複数形もあると思います。 そして、格変化をすると思いますが、 縁起や空の処格はどう訳すのでしょうか? 縁起や空の場所とはなんでしょう?
お礼
ご回答をありがとうございます。 名詞の性・数・格による変化 1.語尾が -a の語:pratiitya-samutpaada http://www.manduuka.net/sanskrit/p/pdisp.cgi?tb=na&bm=am ~~~~~~~~~~~~~~~ -a 男性 aśva- [名男](馬) 単 両 複 主 aśvas aśvau aśvās 対 aśvam aśvau aśvān 具 aśvena aśvābhyām aśvais 為 aśvāya aśvābhyām aśvebhyas 従 aśvāt aśvābhyām aśvebhyas 属 aśvasya aśvayos aśvānām 処 aśve aśvayos aśveṣu 呼 aśva aśvau aśvās ※ -sでおわるものは絶対語尾規則により-ḥとなる。 ~~~~~~~~~~~~~~ ○ pratiitya-samutpaada:男性名詞 प्रतीत्यसमुत्पाद pratItyasamutpAda m. the chain of causation http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=pratItyasamutpAda&script=&direction=SE&link=yes ● パーリ語:paTicca-samuppaada http://www.bauddha.net/-pts/dictionary.html 2.語尾が -aa の語:Śūnyatā http://www.manduuka.net/sanskrit/p/pdisp.cgi?tb=na&bm=aaf ~~~~~~~~~~~~ -ā 女性 senā- [名女](軍勢) 単 両 複 主 senā sene senās 対 senām sene senās 具 senayā senābhyām senābhis 為 senāyai senābhyām senābhyas 従 senāyās senābhyām senābhyas 属 senāyās senayos senānām 処 senāyām senayos senāsu 呼 sene sene senās ~~~~~~~~~~~~~ ○ Śūnyatā:女性名詞 शून्यता zUnyatA f. nothingness http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=zUnyatA&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0 ● パーリ語:suñña / suññata (パーリ語辞典で 出ない。かまたは よう検索しえなかった)。 ★ 縁起や空の場所とはなんでしょう? ☆ たぶん概念として扱い その《〔概念内容〕において》という用法になるのかと思われます。 シューナターの語尾 ター は 抽象名詞化の接尾辞で ラテン語の -tas ギリシャ語 -tees などと同根の語であるようです。 ラテン qua (いかに?)> qualis(いかなる) > quali-tas (いかなるさま=質) フランス語 quali-té 英語 quali-ty ドイツ語 Quali-tät
まだなんともいいようがないので、 アイディア程度の回答になってすみませんが、 釈迦牟尼の牟尼muniは沈黙を意味して muniという言葉はリグ・ヴェーダにも出てくるようです。 他にサンスクリットでmaunaというのも沈黙を意味するようです。 釈迦牟尼を釈迦族の聖者と考えるより、 沈黙の釈迦とでも考えたほうがいいのでしょうかね? もしかしたら、釈迦に悟りとは何か?と質問しても 何も答えなかったのではないでしょうか? なにしろ、沈黙の人だから。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ もしかしたら、釈迦に悟りとは何か?と質問しても 何も答えなかったのではないでしょうか? なにしろ、沈黙の人だから。 ~~~~~~ ☆ これは インド人のあいだでは 通用するのでしょうか。 哲学では だめでしょうね。 まさか梵天勧請が 自作自演だったなんてことはないでしょうが とにかく社会にあって自己を表わして出て来たのですから 何をもっともうったえたのか? ここらへんが知りたいですね。 《沈黙》が――もしくは ヱーダからのならわしにのっとって《沈黙の人》であることを――たたえられたとするなら その前にどういう話をおこなって人びとに迎え入れられたのか? という問いもあり得ると思われます。 分からないですね。人びとは何に感動したのでしょう?
とうとうジャイナ教の話ですか。 とはいっても、私はジャイナ教のことは 全くわかりません。 でも、原始仏教を調べていると 必ず登場するのがジャイナ教。 仏教の経典と、ジャイナ教の経典に共通する箇所があるという。 なにそれ。 >さあ これからどうなりましょうか。 私の力不足もあるけど、そもそもインターネットサイトで 話題にすることなんだろうか? という疑問も出てきたのですよ。 漢字文化圏の日本語の、日本文化としての仏教で十分で、 そんな昔のことを批判的に研究する必要もないのではないか? と・・・。 つべこべいわず、坐禅していればいいのでしょう? なんだかなあ、と。 仏教も実は護教だらけだと気がついたとき どうしたらいいものやらと思ったものです。 昔、英訳された経典を見たとき、カルチャーショックでした。 漢文ではないの?という驚き。 外国の宗教であるキリスト教を批判するという 実用性と、ナショナリズムが仏教を支えている気がします。 だから、昔のインドでなにがどうだ、上座部の経典がどうだとかは どうでもいいのではないか?と。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 外国の宗教であるキリスト教を批判するという 実用性と、ナショナリズムが仏教を支えている気がします。 ~~~~~ ☆ そうですね。 たとえば《キリスト教》については わたしは見方が二分されていると思いますね。 宗教としていわゆる一神教であって柔軟性がないという批評がひとつ。 もうひとつは 聖書を――社会現象としての宗教とは別に取り上げて――評価する場合。 宗教は たとえ善悪二元論に立つという場合も・あるいは多神教だという場合も いづれの場合にも その教義ないし教祖もしくは教団(または それらがない場合に社会慣習)がけっきょく絶対であって 一神教と同じく自宗教の一辺倒したがって排他的である。こう見ます。 つまりよく考えると 多神教は もし他宗教に寛容であるという場合にも みづからの教義の一環として受け容れることしか出来ません。すなわち 〔拡大神道としての〕日本教の中のコミュニズム教派やキリスト教派があるというかたちでしか 異者を受容することが出来ないようなのです。 これは どこから見ても――内部に取り込んだあとなら 融通が効くのですが 外部のものに対しては―― 排他的であり けっきょく《多神教という名の一神教》であるのです。 つまりは ブディズムも 大きくこの日本教の内の仏教派を成すのみだということでしょう。 これが ★ ナショナリズムが仏教を支えている気がします。 ☆ ということの実態である。こう考えます。 ローマ法王が神の代理としてあって――かつては 無謬性の神話におおわれていましたし――けっきょく排他的なオシエを持ち そのように振る舞うという現実の一端については 何もブディズムのオシエを知らなくても ふつうの大人なら このキリスト教をじゅうぶんたやすく批判すると思います。相手の言うことを聞かないのか? で用が足せます。 ★ だから、昔のインドでなにがどうだ、上座部の経典がどうだとかは / どうでもいいのではないか?と。 ☆ この見方は けっきょくいままだ残っているブディストたちの主張を批判し切ったときに言うことばでしょうね。 ★ 仏教も実は護教だらけだ ☆ という実態を納得するまで知らせてやらねばならないでしょうね。社会的な関係性という側面をも持って 個人は生きていると考えられるからには。 そして やはり《さとり》問題もくすぶり続けているでしょうね。 というように考えますが この考えは かえってブディズムに未練を持っているのではないかと見られてしまうでしょうか? けれども ニーチェにしてみたところで クリスチアニズムにしろ キリスト・イエスにしろ あるいは プラトンないしソクラテスにしろ どうも対立する相手のことをあまりよく知らないで議論している部分が多いのではないでしょうか? 敵のことを勘違いしたまま その批判の道を突っ走ってしまった。だけであるようにも見えます。 そういう問題は どうでしょうか? ないでしょうか?
ふと思いついたので書き込みます。 ゴータマ・シッダッタの称号は ブッダ以外にもあるわけです。 最近、ブッダ以外の称号に言及している本が 多くなっているのが気になっていました。 ブッダ以外の称号というと、 たとえばバガヴァンなど。 十号 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%B7 多くの称号があったにもかかわらず、 ブッダに統一されていったのは、なぜか? など疑問が出てくるわけです。 ゴータマ・シッダッタも阿羅漢と呼ばれていたようなのに、 今や、弟子たちが阿羅漢で、ゴータマ・シッダッタと区別されていたり。 さっきまで、ブッダの悟りについて、 マハーヴァッガのほかの箇所、たとえば梵天勧請を引用しようか、とか サンカーラが重要なのだろうかとか あれこれと考えていたのですが、 そもそも、ブッダと呼ばれたから悟りが問題になるのであって、 ブッダ以外の称号なら、悟りは問題にならないのでは? つまり、なぜ多くの称号の中で ブッダだけが特別視されて、悟りが問題になるようになったのか? たぶん、他の称号だと他の宗教と区別できないからではないか? と、思ったりもするけれど。
お礼
ほいほい。あたらしいご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ そもそも、ブッダと呼ばれたから悟りが問題になるのであって、 ブッダ以外の称号なら、悟りは問題にならないのでは? ~~~~~ ☆ だったら ジャイナイズムのマハーヰ-ラは どうなりますか? 生命重視のオシエの問題にまとまって行ったようにも思われます。のでは? ★ ~~~~ さっきまで、ブッダの悟りについて、 マハーヴァッガのほかの箇所、たとえば梵天勧請を引用しようか、とか サンカーラが重要なのだろうかとか あれこれと考えていたのですが、 ~~~~~~ ☆ マハーワッガについてはよく知らないのですが 梵天勧請であれば すでに成道したから その中身を伝えてくれという勧請があるわけですよね。つまり さとりとは何か? ははっきりとついてまわっていると思われます。 リシだかの先生について修行をしてその内容をまだ浅いとしてさらに上のものを求めたというからには そして友だちと分かれて別々に修行したその結果を伝えその友だちはすばらしいと讃えたというのですから 《さとり》の中身は 必ずあるはずです。物語にしたがえば。 さもなければ その成道の物語は たしかにぜんぶウソだったということになる場合もあるのかも知れませんが 取り敢えずは その物語に即して ブディストのみなさんに問い続けて行くのがよいのではないでしょうか? 宮元啓一 ――その《苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか》のサイトは いま見たら無くなっていましたが――は 無明とは《根本的な生存欲》だと捉えたようです。ですが この説明も この生存欲を無くせば(あるいは その欲から自由になれば と言うべきでしょうか) 無明が克服され 明知に到る。つまりさとりが得られる。というものであって それではいったいどのようにして《根本的な生存欲》からひとは自由になるのか? という問いが依然としてのこります。 つまり 消えてしまうというような意味でのニルワーナの問題に やはり行き着き ニッチもサッチも行かなくなります。 だから さとりは ない。という答えのほうが むしろ現実的であるのかも知れません。 あるいはつまり 人はさとり得るという可能性を言ったまでだという見方をしておけば 話も あさっての方向からいま現在の地点に戻って来るのかも知れません。 つまりは 一歩一歩ひととして生き ともに生き 生き抜くのだということが さとりの実質的な中身であるのかも分かりません。そういうブッダターなら 誰もが持っており 誰もがそれぞれなりに実践しています。特別な修行などどうでもよいと思っているはずです。 いづれにしましても もし模範であるとか理想のブッダなる人間像であるとかをかかげる行き方が どう見てもおかしい。ということではないでしょうか? なぜなら 模範をかかげるのなら その模範に到達した人間がいないことには 話が始まらないでしょう。 自分は まだまだそこには到達していませんがという《謙遜》ぶりは謙虚でも何でもなく ただただその模範をかかげることがウソではないですよと 何の根拠もなく 言い続けているだけになります。一世代や二世代なら まだそのように地道なあゆみをつづけていたのならば 人びとは関心を持って見守っているでしょうが 千年二千年もそのヘリクダリ振りだけを見せつけられたのでは ドン引きになっておかしくありません。 しかもそれでもむしろ そのナゾのさとりとブッダの神格化とも言える模範的人間像へと人びとは しきりに なびいて行きます。この懲りない面々というのは いったい何であるのか? 世の中が 思うようにならず 行き先にのぞみが持てない。ゆえに さとりとは何かというナゾナゾにお慰みをおぼえた。というんぢゃないといいんですけれど。 とにもかくにも わたしが 数年前にこの質疑応答の場に参加したときには この《さとり》の謎解きは 猫も杓子もという状態でした。いまだにブーム消え去らずという勢いが残っているかにも見えます。あなたも入っていると思いますがいくらかの人びとの問い求めがつづけられて来て ゴータマ・ブッダに異変ありと やっと少しはなって来たように思います。 さあ これからどうなりましょうか。
悟りとは何か? これはたぶん、かなりプラトン的な問いだと思います。 そして、知らないことを知っている。 と、ソクラテス的理解を落としどころにしようとしてくる。 もし、「ない」と答えれば、ニーチェ的だし、 空の思想にもなるでしょう。 ただその場合、仏教は仏教自身を否定することになりますけど。 ニーチェのように、ただ解釈だけだ。という結論になりますかねえ。
お礼
つづきまして。 ★ ~~~ 悟りとは何か? これはたぶん、かなりプラトン的な問いだと思います。 ~~~~~~ ☆ イデアですか。あるのは分かっているが それが何であるかは分からない。精神のいと高きところに・・。 ★ ~~~~ もし、「ない」と答えれば、ニーチェ的だし、 空の思想にもなるでしょう。 ただその場合、仏教は仏教自身を否定することになりますけど。 ~~~~~~ ☆ 《もし、「ない」と答えれば、ニーチェ的だし》・・・つまり 神は死んだというわけですか。 《空の思想にもなるでしょう》というときには あんがい《無い神》のことを言っているかも知れませんね。 つまり あのブラフマンのことを《無い神》というふうに呼び名を変えたかたちです。 まあ 空の《思想》は思想としておいて。 ★ ただその場合、仏教は仏教自身を否定することになりますけど。 ☆ この場合こそが ブディズムの最高のさとりを表わしていたりして・・・。なーんちゃって。 ★ ニーチェのように、ただ解釈だけだ。という結論になりますかねえ。 ☆ たぶんそれは 事実の場合だと思うんだけれど どうでしょう。 つまり事実認識には おのおのの主観が入るし あるのは一人ひとりの――解釈を容れた――主観だけであると。 けれども いまの場合は ブラフマンないしアートマンで代理させて考えるなら やはりこれは 超経験の場であると考えられますからねぇ・・・。 ありがとうございました。 レクイエムも むつかしいですよね。そんなに簡単に作成できるものでもないのでしょう。
猫さんの手も借りたいところだけれど もう引退してしまったんでしょうかね。 一応、「縁起説は悟りではない」という意見も出しておきます。 ただ、縁起説を否定すると話がややこしくなる。 縁起説が悟りかどうかというよりも、 「なぜ、縁起説が悟りになったのか?」 を考えたほうがいいのかもしれないと思いました。 あと、スッタニパータは最古の経典ということになっていますけど これはどうしてなんでしょうか? とりあえずスッタニパータが最古だとして、 そこから、マハーヴァッガが成立するまでの間に、 思想の取捨選択、変遷があって、 縁起説に落ち着いたのだろうか? Vinaya Pitaka The Basket of the Discipline http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/vin/index.html ヴィナヤ・ピタカ つまり、律蔵の中の文章として マハーヴァッガがあるのが気になりました。 ブッダの伝記は律なんでしょうか? 守るもの? ここで比べたくなるのが 旧約聖書のモーセ五書の物語の部分も トーラー、つまり律法だということです。 この、物語を律と考える思想は何なのか? ああ、わからない。誰に質問したらいいものやら。 とりあえず、私は間違いだらけだと思いますので よかったら指摘してくださいな。 不勉強だとつらい。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そう言われても・・・。 まづ 《縁起説》が さとりの中身ではないということだそうですが でも《無明=煩悩=渇愛》が《明知》に変わるというのは さとりなのではないでしょうか? ただしその中身を説明するに際して ではどうして明知へと無明を変換するのか? という問いを残したまま 説き終わっている。という問題なのではないでしょうか? それとも 成道は もっと別の内容があるということでしょうか? 《律》がどうだこうだという間接的な問い求めもありでしょうが ずばり《さとりとは 何でしょう?》 これを突きつめて行って 答えを得るのが 先決であるように考えたりもします。 その意味は 答えは ない。のではないかです。 言いかえると それはすでに梵我一如なのではないか? と言っても これも 言わば外枠を埋めて答えとしているだけのものではあるようです。 もし それゆえに 梵我一如なる枠組みの中身をじっさいに一人ひとりが現実に経験を経つつ 思想(=生活態度)として 言葉による説明や理論としても埋めて行けるのなら それが 答えになる。つまり 人びとの主観それぞれに 答えがある。 答えが まちまちであっても それぞれがもしブッダター(仏性≒アートマン・霊我)にもとづくのならば いづれの場合も ブッダと成っていて それが《さとり》である。となるでしょう。 しかもこの《ブッダターにもとづくのならば》という条件において またまた まだなお《さとり=ブッダターの実現》という命題が 内容の分からないまま のこっている。といった状態ではあります。 たぶんわたしは ブラフマンなる神にかんがみて推し測るなら けっきょく信仰の問題に帰着する。ようにも考えられます。 なら モーセの律法をも超えて アブラハムの信仰という主題と軌を一にする。とも考えられます。 そうして 現代では もう信仰――非思考の庭がわが心に成ること――に向かってすすむというよりは そのような行きの場面からすでに帰りの段階に入って この現実の世の中において ではさとりとは どういうことか? の問いにも変わって来ていると思われます。 ニーチェも そこらへんは 考えたりしたのでしょう。答えは どうだったか 得られたのかどうか わたしには分かりません。 現代人であるわたしたちは さとりとは何かについて もうすでにその問いをブラックボックスの中に入れておいて あとは 経験思想ないし経験行為について 人間論ないし社会論などを考え合って行くのがよいのでしょうか? どうでしょうか? こんなふうに考えました。どうでしょう?
THE MAHÂVAGGA. -------------------------------------------------------------------------------- REVERENCE TO THE BLESSED ONE, THE HOLY ONE, THE FULLY ENLIGHTENED ONE. -------------------------------------------------------------------------------- FIRST KHANDHAKA. (THE ADMISSION TO THE ORDER OF BHIKKHUS.) 1. At that time the blessed Buddha dwelt at p. 74 Uruvelâ, on the bank of the river Nerañgarâ1 at the foot of the Bodhi tree (tree of wisdom), just after he had become Sambuddha. And the blessed Buddha sat cross-legged at the foot of the Bodhi tree uninterruptedly during seven days, enjoying the bliss of emancipation2. p. 75 2. Then the Blessed One (at the end of these seven days) during the first watch of the night fixed his mind upon the Chain of Causation1, in direct and in reverse order: 'From Ignorance2 spring the p. 76 samkhâras1, from the samkhâras springs Consciousness, from Consciousness spring Name-and-Form, from Name-and-Form spring the six Provinces (of the p. 77 six senses1), from the six Provinces springs Contact, from Contact springs Sensation, from Sensation springs Thirst (or Desire), from Thirst springs Attachment, from Attachment springs Existence, from Existence springs Birth, from Birth spring Old Age and Death, grief, lamentation, suffering, dejection, and despair. Such is the origination of this whole mass of suffering. Again, by the destruction of Ignorance, which consists in the complete absence of lust, the samkhâras are destroyed, by the destruction of the samkhâras Consciousness is destroyed, by the destruction of Consciousness Name-and-Form are destroyed, by the destruction of Name-and-Form the six Provinces are destroyed, by the destruction of the six Provinces Contact is destroyed, by the destruction of Contact Sensation is destroyed, by the destruction of Sensation Thirst is destroyed, by the destruction of Thirst Attachment is destroyed, by the destruction of Attachment Existence is destroyed, by the destruction of Existence Birth is destroyed, by the destruction of Birth Old Age and Death, grief, lamentation, suffering, dejection, and despair are p. 78 destroyed. Such is the cessation of this whole mass of suffering.' 3. Knowing this the Blessed One then on that occasion pronounced this solemn utterance: 'When the real nature of things becomes clear to the ardent, meditating Brâhmana, then all his doubts fade away, since he realises what is that nature and what its cause.' 4. Then the Blessed One during the middle watch of the night fixed his mind upon the Chain of Causation, in direct and reverse order: 'From Ignorance spring the samkhâras, &c. Such is the origination of this whole mass of suffering, &c. Such is the cessation of this whole mass of suffering.' 5. Knowing this the Blessed One then on that occasion pronounced this solemn utterance: 'When the real nature of things becomes clear to the ardent, meditating Brâhmana, then all his doubts fade away, since he has understood the cessation of causation.' 6. Then the Blessed One during the third watch of the night fixed his mind, &c. 7. Knowing this the Blessed One then on that occasion pronounced this solemn utterance: 'When the real nature of things becomes clear to the ardent, meditating Brâhmana, he stands, dispelling the hosts of Mâra, like the sun that illuminates the sky.' http://www.sacred-texts.com/bud/sbe13/sbe1312.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マハーヴァッガの英訳みたいです。 この箇所でいいならおそらく、縁起説が悟りなんでしょうけど。 どうなんでしょうか? 私にはわかりません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 たぶん 無明=煩悩=そして渇愛ということであって これから自由になることが 言ってみれば さとりだと言うのだと思います。 またそのときには 無明が明知に変わるという逆観が成って あとは十二支縁起がすべて 明知のもとに推移するというのだと思います。 問題は 無明とは何かも然ることながら なぜ初めに《明知》を――つまり《さとり》を――持ってこないのか? がひとつ。 もうひとつは 無明=煩悩=そして渇愛を どのように《明知》へと変換するのか? でしょう。 つまり 《さとり》が説かれたその理論の中に そのさとりはどのように得るのか? の問いが含まれている。ということではないでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 例によって質問者の考えをストレートに述べてご返礼とします。 ★ ニーチェは実はとても道徳的ではないのか? ☆ つづくご議論でその具体的な意味内容を捉えて行かねばなりませんが それでもこういう説き起こしには――つまり逆説のひびきがあるようなときには―― まづやはり《道徳とは何か?》や《道徳的であることは よいことかどうなのか?》の定義や説明が要るようには思います。 たとえば ▲ (ルカによる福音書 6:21) ~~~~~~ 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。 今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 或る種の見方でこれは道徳だと考えられます。 でもおそらくこの思想というのは 何も将来にどんでん返しが必ず起きますよと言っているわけではないでしょう。ましてや死後に天国に行けるというような気休めなのではなく そうではなく 《それでも ほこりを持ってこのいまを生きなさい》と励ましているということのはずです。《ふつうの人間であれ。生活を重んじよ》という当たり前の思想である。 すなわちもしそうではなく 文字通り将来に期するものがあるというようなことの・しかも思い込みに落ち入るのなら それこそただのルサンチマンでありそれを後生大事に反芻しつづけることになりかねません。 ルサンチマンを指摘しそれをいだき続ける生き方は 家畜であると言ったニーチェが では《実はとても道徳的である》のではないかとは どういうことか?(*1) そういう道徳をあらたに説いたのか? という問いがつづきます。 ★ ~~~~~ 人々は、一人の人間になった神を殺した。 ・・・ こうして、神はいなくなった。 ~~~~~~ ☆ これは 趣旨説明欄に書いたような《観念としていだかれている神 つまり観念としての思い込み》をころしたというのではなく そうではなく 生身の人間をひとり殺したという事態を言っているのですね。 《神の子を意味する〈ことば〉が肉となった》の主題について詳しく見てみなければならないでしょうが さしづめここでは このように《肉となった神》が殺され ★ こうして、神はいなくなった。 ☆ と捉えるその見方じたいについて 考えてみます。 なぜなら 聖書記者たちは その殺された神が《復活して現われた》と――ともかく――表現しているからにはです。(*2) すなわち ★ ~~~~~ 神は人間になったのであって、、 人間を超えるというは、かつての神を超えることではないのか? ~~~~~~ ☆ という推論の筋は ほんとうに《神はいなくなった》し再び現われることもなかったという前提での話になりますから。 つまりニーチェが キリストのおしえはすべていじめられた家畜が胸にいだくかに思われるような不平不満をブツブツ沸き立たせるようなルサンチマンに発するものであって それらはプラトンの気高き理念を宿すイデアの世俗的な二番煎じであるに過ぎないと捉えてまづ聖書記者たちの伝えようとした内容をしりぞけ そのあとそれでも あたかもそこにしるされた《肉と成った神》をモデルとしてのごとくそれに取って代わるものとして《超人》を持ち出して来て据えた。 こう言うのでしたら・仮りにこうでしたら 《世俗版のルサンチマン物語》にも何がしかの意味がありチカラをももたらしたというような評価をあたえているとさえ受け取られます。(*3) あるいはつまり それにもかかわらず プラトンないしソクラテスの思想は――その光り輝く理知主義がでしょうか―― ニーチェのしりぞけるところである。こうも思われます。 ではいったいニーチェはたとえばこの《超人》で何を言おうとしているのか? 何を――神やイデアをも超えて――見ようとしているのか? 何が見えたというのか? 永劫回帰を持ち出したとするなら 将来や果ては死後の世界にのぞみをつなぐのではなく そうではなく 初めも終わりも両方とも無いとする時間にけっきょくのぞみを寄せなさいと言っているのでしょうか? つねに それでもまだまだだから のぞみをつなげということでしょうか? 《同じ時間 同じ情況が繰り返しやって来る》のだから のぞみは消えないし消してはならないとでも言うのであろうか? そのためにこそ《チカラへの意志》があってそれは あたかも宇宙の主宰神たるブラフマンの息吹きのごとく神秘的に神の霊としても そしてまた人間たるわたしの持てるチカラがあたかも宇宙と同じように呼吸すると言えるかのようなその意志としても つとめ続けなさいと言いたいのか? でも どうでしょう? この解釈に従うにしても それらはすべて実にかんたんに分かるように やはり二番煎じなのではないか? たとえば梵我一如のもとに霊我なるアートマンを説く思想の単なるコピーに過ぎないのではないか?(*4) ブラフマンやアートマンを否定するから――否定しつつ けっきょくアートマンにそのまま対応するブッダター(仏性)をのちにでも説くに到るから―― ややこしいのであって 世界観の成り立ちは 類型としては同じであると 素直にみとめなくてはいけない。 《超人》のあたらしさは 何か? 独創性はどこにあるのか?(*5) 一向に分からない。と言うより そんなものはない。と もしニーチェは阿呆でなかったなら 分かったはずだ。ゴータマ・ブッダとて 同じである。 強情をつらぬいたのか。(*6) それとも 何も知らなかった――《死ぬことのない神》を何も知らなかった――のか? -------- (*1)ニーチェにおける《道徳》:善悪の彼岸を言う《道徳》ないし思想が 次のような側面をも持っていたようである。ツァラトゥシュトラのオシエは 善悪二元論を内にふくむ一元論であるらしい。 ★ ~~~~~~ ニーチェが善悪的な宗教であるゾロアスターの名を 著書のタイトルに使ったのも謎になってくる。 ~~~~~~~ (*2)キリスト・イエスの《復活》?:次の議論について ( a )キリストは実際に死を死んだ それはどういうことか? ( b ) 殺した者たちが殺されていわば生け贄になった者をその死後に聖化して崇めるようになりいつまでもオシエの源泉であると言わんばかりにいわゆる《宗教》とするそのカラクリは? の二つの主題として 補足欄で考えます。 ★ ~~~~ キリストは天に昇り、地上にはいない。 人間は神を殺した。 自分たちが殺しておいて、祈る道理はないのではないか? ~~~~~~~ (*3)《世俗版のルサンチマン物語》にも何がしかの意味がありチカラをももたらしたというような評価をあたえているとさえ受け取られます。:この見方は 次の見解とどう同じでどう違うか? ★ ~~~~~ ただニーチェの思想がおかしいと思うのは、 キリスト教の結果がニヒリズムであるなら、 積極的ニヒリズムはむしろキリスト教を評価しているのではないか? ということ・・・。 ~~~~~~~~ (*4)梵我一如の思想のコピーではないのか:★ 《ショーペンハウアーの憧れたインド》――☆ というときの《ショーペンハウアー》は どうなんでしょう? どう言っているのでしょう? (*5)《超人》のあたらしさは 何か? 独創性はどこにあるのか:次のように超人を《大地》と言い直すのは おそらくキリスト・イエスの《生活を大事にせよ》に通じるのであろうか どうであろうか? ★ ~~~~~~ あと、プラトンがイデアの影といったり、 インド哲学のマーヤーのヴェールのように この世界が幻影という考えに対して 大地を強調していたり…。 ~~~~~~~~~ (*6)強情をつらぬいたのか:ならば 何らかの思想が――まだかたちを見せずに――芽をふきかけていたと解される。次のような推測として。 ★ ~~~~~ ひょっとして、ニーチェはキリスト教以後の世界を考えていたのではないか? 神が死んだといっているのは何を隠そうキリスト教なんだから。 それを受け入れて、その後の世界に必要なものは何か? それを考えていたのではないかな…。 わからない。 ~~~~~~~~ これは 註(*2)の( a )( b )の二つの主題に絡ませて考えます。
補足
お礼欄の議論――そこでの註(*2)――を承けて 次の二つの主題について考えます。 ( a ) キリスト・イエスは なぜ死んだか? 復活とは何か? ( b ) イエスをころした人びとがどうしてその死後かれをキリストとしてたてまつるのか? ここでは( b )を《第三項(犠牲)排除の理論》の紹介において捉えます。( a )は 回答No.2の補足欄に継ぎます。 これは 自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 特定のひとりを犠牲として扱い――それが第三項ということですが これを――排除するというナラワシについて 今村仁司は『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)において理論づけました。 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて ささやかな批判をも添えて しるします。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向があると見られる。 簡単に言うならば 集団の中の一人を例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から追い求めて行く傾向をも持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現すると考えたらしい言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり《秩序》を楽しむことが出来るというのだそうです。 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行》現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れるであろうと。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度はぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。それによって なお人びとは 安心するというその仕組みとして。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは崇めるようになるのだと。 したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。それによって人びとは安心するということらしい。 (菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられたという。そういうからくりであるらしい。) § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。からである。 反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。 一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに排除の戦争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができる。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作っていることになっている。 だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。 § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分からない。 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか? 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。 § 10 イエス・キリストの聖化は 制度化して固まっている側面がある けれどもその宗教は 個人の信仰の原点にまでさかのぼって その要素要因としてまもり保つべきは保ち あとは要らないシキタリやオシエは 解体するにまかせればよい。 No.2の補足欄に継ぎます。